第17話 測るたびに
二十三日目の朝、門Dに入る前に、協会に寄った。
律が、測ってもらいましょう、と言ったからだ。
登録課の窓口で、真柴さんが銀色の殻圧計を持って出てきた。
窓口のカウンターは低い。
真柴さんはひっつめ髪のまま、眼鏡の奥で俺を見た。
「胸の中央に当てます」
平板な声だった。
俺は首の後ろで殻を閉じた。
殻装の継ぎ目が胸の真ん中で白く光っている。
真柴さんが殻圧計を当てた。
冷たい。
三秒。
計器が小さく鳴った。
真柴さんが計器を離して、表示を見る。
九百。
真柴さんは何も言わなかった。
カウンターの下から記録簿を出した。
二冊目だ。
表紙は黒くて、角が少し擦れている。
真柴さんがページを繰る。
五日前の行で止まった。
日付と、門の名と、数字が並んでいる。
七百九十。
俺はそれを見た。
五日前、俺は七百九十だった。
真柴さんはページの上で万年筆を止めない。
その下の行に書く。
九百。
インクが少しだけ濃い。
真柴さんは記録簿を閉じた。
「以上です」
それだけ言って、殻圧計をカウンターの下へ戻した。
律が三歩後ろで、メモ帳に何かを書いている。
ペンの音だけが窓口に残った。
誰も、何も言わなかった。
律が三歩後ろから一歩、前に出た。
防水メモ帳を胸の前で開いている。
「僕の記録も、見ますか」
真柴さんはカウンターの向こうで顔を上げた。
眼鏡の奥がわずかに動く。
「見せてください」
平板な声だった。
律はメモ帳をカウンターの上に置いた。
開いたページには日付と門の名、それからLvと殻圧の二列が並んでいる。
真柴さんは黙って手帳を引き寄せた。
銀縁の眼鏡の奥で、数字を追っている。
指は紙に触れない。
二列の数字を上から順に見て、最後の行で止まった。
「昨日の赤化の記録は」
「別のページにあります」
真柴さんは何も言わなかった。
メモ帳を一度だけ裏返して、また戻す。
それからカウンターの下の引き出しから白紙を一枚出した。
無地の紙だ。
真柴さんは定規を紙の上に当てた。
端から端へ、静かに線を引く。
一本。
二本。
三本。
日付と門の名とLvと殻圧。
律の手帳と同じ並びの表が一枚できた。
真柴さんは万年筆を抜いた。
表の一行目に書く。
日付。
門D。
900。
それだけだった。
律が小さい声で言った。
「僕の、ですか」
「様式です」
真柴さんはそれ以上、答えない。
記録簿の二冊目を開き、最初のページを一枚めくる。
作ったばかりの表をそのページに挟んだ。
紙の端が黒い表紙から数ミリだけ出ている。
真柴さんは万年筆を置いた。
「以上です」
それで終わりだった。
理由は言わない。
俺も聞かなかった。
律はメモ帳を受け取って、三歩後ろへ下がった。
カウンターの上に、定規の跡が一本残っている。
窓口の向こうで、真柴さんはもう次の書類に目を落としていた。
真柴さんが表を作った意味は分からない。
ただ、表の一行目に俺の数字が置かれた。
律がメモ帳を閉じる音が、窓口に小さく響いた。
◇
昼、門Dの続きに入った。
白い洞の入口で、蔵前が隊の並びを決めた。
「灰塚、今日はここだ」
蔵前が盾鎚の柄で指したのは、先頭の大鳥さんのすぐ後ろだった。
荷運びの箱は律が背負った。
隊は二列になって白い洞へ入った。
塩の柱が天井まで届いている。
床の結晶が靴の裏で細かく砕けた。
昨日の広間を抜ける。
抜け殻の甲羅はもう無い。
白い粉だけが床に薄く積もっていた。
天井の結晶が奥から青白い光を落とす。
洞の壁が白い。
息が白くならないのが、逆に静かだった。
奥へ進む。
柱の影がいくつも揺れる。
天井が低くなる手前で、足音がした。
甲殻の足音だ。
壁の上の岩棚から、一匹。
柱の裏から、二匹。
天井の結晶の陰から、三匹。
増える。
俺は半歩、大鳥さんの前へ出た。
大鳥さんは何も言わない。
首だけで頷いた。
俺は柱を蹴った。
壁を三歩。
岩棚の一匹を踏み越えながら、薄刃を抜く。
首の継ぎ目へ。
崩れて落ちる。
柱の裏の二匹目は、逆手のまま回り込んで甲羅の隙間へ。
三匹目から先は、柱と岩棚と天井を渡りながら数えなかった。
数えるのは律だ。
床に降りた。
膝が少し沈んで、白い粉が舞う。
律が三歩後ろでストップウォッチを止めた。
「十二匹です」
それだけ聞こえた。
その先の通路で、もう十匹。
律の数は二十二で止まった。
俺は薄刃を収めて、大鳥さんの半歩後ろへ戻る。
肩で息はしていない。
天井の結晶がまだ青白く光っていた。
洞の一番奥は天井が高く抜けていた。
塩の柱が、輪になって立っている。
その輪の真ん中に、門主がいた。
背中に、塩の結晶が何本も生えている。
大鳥さんが、錆色の肩を前へ出した。
門主の突進を大鳥さんが受けた。
錆色の肩が白い結晶を砕く。
脚が床を削って、半歩だけ下がる。
蔵前が横から出た。
盾鎚を脚の付け根へ。
鈍い音が洞に響く。
門主の脚が止まる。
俺は柱を蹴った。
輪の柱を三段。
天井の結晶へ届く。
逆さに走る。
結晶が靴の裏で砕けて白い粉になる。
門主の真上へ回る。
背中の塩の結晶が青白く光っている。
首の継ぎ目が一瞬だけ開く。
俺は結晶を蹴った。
落ちる。
薄刃を逆手に抜く。
空気が肩のひれを鳴らす。
首の継ぎ目へ、真上から。
刃が入る。
深く。
背中の結晶が一斉に砕けた。
首が傾ぐ。
門主の前脚が崩れる。
大鳥さんが肩を引く。
蔵前が盾鎚を抜いた。
白い粉が舞う。
門主が床に沈む。
脚が一本、また一本と崩れる。
背中の結晶が砕けて、床に散る。
甲羅が白い粉に埋もれていく。
俺は床へ降りた。
薄刃を収める。
結晶の粉が足の裏で鳴る。
視界の端に白い文字。
【経験値を取得しました +954】
【レベルが上がりました Lv.13→Lv.14】
二行だけだった。
門主だったものは、もう白い山になっていた。
◇
二十四日目は、門Eだった。
黒潮が取ったC級の正門の、最後の一つだ。
門の中は、潮の引いた地下の貯水槽だった。
壁は黒く湿り、天井には配管が何本も走っている。
管の表面に、塩の粒が薄く浮いていた。
床は浅く水が残っていて、一歩ごとに跳ねる。
隊は二列で進む。
大鳥さんが先頭だ。
錆色の殻が、湿った壁に黒く映る。
俺は半歩後ろを歩く。
荷は律が背負った。
律は三歩後ろで、小さな背負子を揺らしながらついてくる。
天井の配管から雫が落ちた。
水面を打って、小さく響く。
奥へ進むほど、管が太くなる。
壁に苔のようなものが張りついていた。
白い苔だ。
触れると崩れる。
天井の配管の陰から、甲殻の足音がした。
床からも、壁の穴からも。
数が多い。
蔵前が片手を上げる。
列が止まる。
大鳥さんが肩を回す。
俺は前に出た。
柱を蹴る。
濡れた壁を走る。
水が跳ねる。
天井の配管へ上がる。
配管の上から、甲殻が三匹。
薄刃を抜く。
逆手。
首の継ぎ目へ一閃。
二匹目は管を伝って逃げる。
壁を蹴って先回りする。
真横から甲羅の隙間へ。
三匹目が落ちてくる。
俺は配管を蹴って、天井から落ちる。
刃が頭のてっぺんから入る。
床へ降りる。
大鳥さんが前に出ていた。
錆色の肩が水を弾く。
床から湧く甲殻を振り払うように潰していく。
蔵前が横から盾鎚を振る。
鈍い音が貯水槽に響く。
戸張も短い得物で数を減らす。
俺は壁へ戻る。
穴から出る甲殻を、出口で断つ。
一匹。
二匹。
三匹。
薄刃が甲羅の隙間へ入るたびに、黒い体液が壁を汚す。
壁を蹴る足の裏が、一度だけ止まった。
壁の湿りが、さっきより浅い。
足元の水が、奥へ引いていく。
荷運びの六年で、何度も見た引き方だった。
「急ぐ。閉じかけてる」
蔵前が一拍だけ俺を見た。
「中ボスは後だ。奥へ抜ける」
蔵前の声が貯水槽に落ちる。
隊が水を蹴る。
足元の水が跳ねて、壁に細かい飛沫が散る。
俺は壁を蹴った。
濡れた壁を走る。
配管の上へ上がる。
下を見る。
隊の列が水の中を進む。
大鳥さんの錆色の肩が先頭だ。
蔵前がその半歩後ろ。
戸張が続く。
律は三歩後ろで、背負子を揺らしながら水を踏んでいる。
奥の天井が高く抜けた。
配管が途切れて、空間が開ける。
水が深くなる。
その真ん中に、門主がいた。
黒い甲羅に、白い苔が点々と張りついている。
脚は太い。
水の底に、四本の脚が沈んでいる。
大鳥さんが肩を回した。
蔵前が盾鎚を構える。
「坊主、脚をやれ」
大鳥さんの声だ。
俺は配管を蹴った。
水の中へ落ちる。
低く滑り込む。
水が頬を打つ。
門主の右脚の付け根へ。
薄刃を抜く。
継ぎ目に刃を入れる。
一本。
水が黒く濁る。
門主の脚が一度震えた。
もう一本。
左の後脚の継ぎ目。
刃が入る。
門主の腰が落ちる。
大鳥さんが肩を叩き込む。
蔵前が盾鎚を横から入れる。
門主の首が下がる。
俺は水を蹴った。
首の継ぎ目へ、真下から。
刃が入る。
深く。
門主の首が傾ぐ。
甲羅が水に沈む。
白い苔が剥がれて、水面に浮く。
「後ろだ!」
戸張の声だ。
振り返る。
中ボスが二体。
水を跳ねて迫ってくる。
戸張が短い得物で一体を受ける。
黒潮の隊員がもう一体の前へ出る。
「灰塚、行け!」
蔵前の声。
俺は水を蹴った。
中ボスは戸張の得物に押されている。
背中から薄刃を入れる。
継ぎ目。
刃が通る。
崩れる。
もう一体。
黒潮の隊員が盾で受けている。
横から首へ。
刃が入る。
水に沈む。
俺は水の中に立った。
膝が少し沈む。
他に足音はない。
律が三歩後ろでストップウォッチを止めた。
「五十七と、二と、一です」
視界の端に、白い文字。
【経験値を取得しました +2,359】
一行だけだった。
黒潮の隊が、水の中で荷をまとめ始めた。
門の外へ出る通路の手前で、蔵前が横に並んだ。
前を見たまま、歩調を合わせてくる。
盾鎚は背中に回していた。
殻の線が、通路の薄明かりを鈍く返している。
「灰塚」
声は低い。
俺は歩いたまま、頷いた。
蔵前は前を見ていた。
「次の正門、灰塚の枠は俺の班で取る」
一拍、間があった。
俺はそれだけを聞いて、前を見たまま答えた。
「ああ」
蔵前は何も言わなかった。
それ以上、何も足さない。
ただ、半歩だけ先に出る。
隊の先頭へ戻っていく。
背中が、通路の先で小さくなる。
後ろで、戸張が少し笑った。
声は出していない。
鼻で抜くような、短い笑いだった。
俺は振り返らなかった。
律が三歩後ろで、メモ帳を閉じる音をさせた。
門の口から、外の光が通路の床に伸びていた。
◇
二十四日目の夜、零時を待たずに日課を走った。
【日課:走破 20km】
九日前は、十キロだった。
日課が増えた。
増えたのは、殻が大きくなったからだ。
灰町のアパートを出て、夜の湾岸を走った。
高架の下へ入る。
橋脚の間を抜ける。
足の裏でアスファルトの目地を数える。
埠頭の岸壁へ出る。
倉庫街の屋根へ上がる。
波の音が下で一定に鳴っている。
屋根と屋根の間を渡る。
鉄板が靴の裏で少しだけ撓む。
息は乱れない。
脚も軽い。
曲がり角で一度、潮の匂いが強くなった。
折り返して橋脚を戻る。
協会の前で足を止めた。
律がいた。
灰色のパーカーで、防水メモ帳を胸に抱えて立っている。
「おかえりなさい」
それだけ言った。
律は協会の夜間窓口を指した。
「測っていきましょう」
夜間窓口の若い職員が、銀色の殻圧計をカウンターの上に置いた。
俺は首の後ろで殻を閉じた。
継ぎ目が胸の真ん中で白く光っている。
職員が殻圧計を当てた。
冷たい。
三秒。
計器が小さく鳴った。
職員が表示を見て、記録簿の二冊目を開く。
黒い表紙の角が擦れている。
今朝、真柴さんが作った様式に水色の付箋が貼ってあった。
真柴さんの字で「来所時、測定のうえ記入」とある。
職員は付箋を指で押さえながら、様式の二行目に書く。
日付。
門E。
940。
Lvの欄は空けたままだった。
職員は次の欄に目を移した。
測り終えて、殻を畳んだ。
協会の外のベンチで、殻ログを開いた。
【殻装:第二殻】 Lv.14
等級:―(測定不能)
第二殻 脱皮まで:Lv.30
筋力 25 / 敏捷 35 / 殻硬度 16 / 共鳴 18
未割振:0
殻圧:790 → 940
能力:[影走り Lv.6] [空返し Lv.5] [薄刃 Lv.4] [残殻 Lv.3]
常時:[殻読み]
型スロット:1(空き)
型:なし
日課:走破 20km(20/20)達成 ── 連続24日:筋力+1
七百九十から、九百四十。
真柴さんの様式の上では、二行だ。
律が隣で、防水メモ帳を開いた。
「灰塚さん、Lvは」
「十四」
律がLvの列に書く。
律は隣で、手帳の二列を見比べていた。
日付が変わった。
ベンチの隣で、律の端末が震えた。
律が端末を見た。
画面の光が眼鏡に映る。
「白鷺第三攻略隊、B級正門で赤化」
律が読み上げる。
「門圧S相当」
「閉門まで推定二十分」
「S級の到着まで四十分」
律が顔を上げた。
俺はもうベンチから立っていた。
首の後ろで殻を閉じる。
継ぎ目が背中で白く光る。
律が端末をポケットに入れる。
俺は何も言わない。
律も何も聞かない。




