第8話 三十秒
協会を出ると、雨は上がっていた。
十三時まで、まだ時間がある。
協会の隣のビルは十二階建てだった。
古い。外壁は薄いタイル。雨上がりで、目地の奥だけまだ濡れている。
壁面走行、一キロ。
首の後ろで殻が閉じる。
背骨に沿って灰色が這い上がり、顔の前で合わさる。細い線が三本、外側へ走る。光は白い。
壁の根元に立った。靴底の継ぎ目に白い線が灯る。
一歩。
タイルに足が張りつく。
雨上がりの外壁は、乾いた面と濡れた面が混ざっている。目地の線だけが黒く残っている。
手のひらの下で、乾いた所は遅い。濡れた所は速い。
昨日の雨を、壁がまだ覚えている。
三階。窓枠を踏まない。枠の縁は薄い。荷を載せる棚と同じで、頼れない。
五階。エアコンの室外機が三台、壁から出ている。その上を踏む。鉄の板は鳴らない。
鳩が二羽、七階の庇から飛んだ。羽音が一度。
八階。下の通りで通勤の人が一人、端末を見ながら歩いている。こっちは見ない。
十階。風が出た。湾からだ。殻の表面を撫でていく。
十二階。屋上の縁に手をかける。
乗り越える。
屋上は狭い。給水塔が一つ。金網が一周。
端を蹴って、壁を下る。
落ちるより速い。足の裏を壁に沿わせる。
一往復。
二往復。
三往復。
足を替える。手は使わない。掌は殻の縁を壁に当てるだけだ。
四往復。五階の室外機。六往復。鳩はいない。
九往復。下の通りに人が増えた。誰も上を見ない。
十二往復。九百六十メートル。
最初の四十メートルを足して、千メートル。
屋上に出た。
金網の向こうに湾が見える。潮の色は灰色。光がまだ低い。
息は上がっていない。肩は軽い。手のひらだけが冷たい。
殻ログが浮いた。
【日課:壁面走行 1km(1000/1000)達成】
一拍。
【連続12日:敏捷+1】
風が金網を一度鳴らして、止まった。
首の後ろで殻が音もなく畳まれる。
屋上の金網から地面へ。
靴底がアスファルトを捉える。
音はしない。
協会の前で、律が待っていた。
協会の端末の前に立つ。
画面を指でなぞる。小門の欄。対応者名の入力。灰塚迅。
「受付 一番」
届出を出す。
振り返らずに歩き出す。
三歩後ろに律の足音が続く。
協会を出て、東へ。古い倉庫街の路地を抜ける。
突き当たりの焼け跡。
雨上がりの煤けた壁に、黒い口が滲んでいる。
首の後ろで殻が閉じた。
くぐった。
中は狭い。天井が低い。
濡れた灰の匂いがする。
柱の影から灰鼠が湧く。
数える。六匹。壁を蹴る。
一匹目の背を割る。
二匹目。柱を回り込んで腹を裂く。
三匹目と四匹目。天井を蹴って、落ちながら二匹まとめて。
五匹目。壁を走る。
六匹目。足元を抜けようとした首を落とす。
奥に門主。
灰鼠より一回り大きい。背の毛が逆立っている。
柱を蹴って頭上を取る。
首の継ぎ目に一太刀。
着地。
門主が崩れる。
光が流れる。
【経験値を取得しました +128】
出口の光の中に出る。
殻が首の後ろで音もなく畳まれる。
雨上がりの風が首筋を撫でる。
律が三歩分の距離に立っていた。
防水メモ帳を開いている。
「門の中は、四分七秒です」
「ああ」
律はペンを耳に戻した。
◇
十三時。協会澪浜支部の測定課に入った。
三歩後ろで律が足を止める。
測定課の扉は軽かった。
押すと、乾いた音が一つした。
中は狭い。窓が一つ、磨りガラス。机が二つ。棚が一つ。壁際に台が一脚ある。
台の上に箱が載っている。古い。角が磨り減って、塗装が薄い。
殻紋計だ。
箱の正面に掌ほどの凹みがある。胸を当てる場所だ。
職員が机から立った。白いシャツの背中。名札は見えない。
「灰塚迅さんですね」
「ああ」
「では、そこに」
職員の指が台を指す。
歩く。床は硬い。靴音が三つ。
台の前に立った。殻紋計の凹みに胸を当てる。
冷たい。
三秒。
箱の中で小さく音がした。埃の匂いが立つ。
画面が灯る。
測定不能
文字だけが出た。四角い枠の中に、黒い四文字。
職員が覗き込んだ。
「……もう一度、お願いします」
胸を離す。一拍置く。
もう一度、当てる。
冷たい。
三秒。
箱の中の音が一度鳴る。
画面が灯る。
測定不能
同じ四文字。同じ位置。同じ大きさ。
「機械は、動いています」
職員が言った。
扉が開いた。
音が大きかった。勢いよく開いた。
入ってきた男がいる。
大きい。肩幅がある。短髪。ジャージの上に協会のベスト。裾が風で揺れた。
鬼頭篤だ。
一歩で部屋が狭くなる。
鬼頭は台の前まで来て、俺の顔を一瞥した。それから殻紋計を見た。
「測定不能?」
声が低い。天井に当たって跳ね返る。
「機械だろ」
職員が半歩下がった。
「試験官、お呼びでは」
「規定だからだ」
鬼頭が袖をまくった。前腕が太い。日焼けしている。
「当てろ。俺が見る」
凹みに胸を当てる。三度目だ。
冷たい。
三秒。
箱の中の音が鳴る。今度は少し長い。
画面が灯る。
測定不能
四文字。
鬼頭が黙った。
職員も黙った。
三歩後ろで、律のペンが止まっている。音がしない。
手のひらを殻紋計の側面に当てる。指が四本、古い塗装の上を滑った。
鬼頭は何も言わなかった。
「E級の再測定には模擬戦が付く。規定だからだ」
「知ってる」
「訓練場に来い。三十秒で終わらせる」
鬼頭が扉を出た。扉が閉まる音が一つ。壁が少し揺れた。
三歩後ろで律がメモ帳を開いた。ペンを耳から取る。
書く音が三つした。
「十三時二分です」
俺は台から離れた。
殻紋計の画面が、俺の背中でまだ灯っていた。
◇
訓練場は、体育館のような広い部屋だった。
床は板張りで、光が乾いている。
天井は高く、梁が縦横に渡され、照明の吊り具が銀色に光っている。
二階の高さに観覧通路があって、五、六人のハンターが手すりに肘をついて見下ろしている。
手すりの上で誰かが言った。
「E級の再測定に鬼頭さんかよ。三十秒で終わるだろ」
律はその端に立っていた。
灰色のパーカーが白い壁に薄く映っている。
鬼頭が中央に歩き出る。
一歩ごとに床が鳴った。
鈍い緑の殻が首の後ろから閉じる。
分厚い板が胸と肩を覆い、左腕に大きな盾が展開する。
盾の縁が一度、白く光ってから沈んだ。
鬼頭の足が止まる。
俺も首の後ろで殻を閉じた。
背骨に沿って灰色が這い上がり、顔の前で合わさる。
細い線が三本、外側へ走る。光は白い。
向かい合う。
鬼頭の胸の下に数字が浮いた。
352
灯って消える。
殻読み。
俺の倍以上ある。
鬼頭が盾を構えた。
腕が太い。盾の向こうから目だけがこっちを見ている。
「三十秒だ。来い」
声が低い。床を滑って足の裏に届く。
俺は半歩、重心を落とした。
左の踵が上がる。
見えた。
鬼頭が床を蹴った。
盾が前に出る。突進。
床板が一枚、音を立てて跳ねる。
俺はもう右の壁にいた。
靴底の継ぎ目に白い線が灯る。板壁が足を支える。
盾が空を裂く。
鬼頭の足が止まる。床が軋む。
「ちっ」
短い舌打ちが壁に当たった。
二度目が来る。
肩が先に動く。盾の角が光る。
壁を蹴る。天井の梁へ。
手が鉄骨を掴む。体が持ち上がる。
突進が壁の下で空振りする。
三度目。
鬼頭が下で俺を見る。目だけが動く。
床を蹴る音が遅れて届く。
俺は梁から照明の吊り具へ移っていた。
銀色の棒が一本、天井から下がっている。足の裏を置く。細い。揺れない。
鬼頭が四度目の突進をやめた。
盾を構えたまま、呼吸が二つ。
「降りてこい」
声が低い。天井に届いて散る。
俺は答えない。
観覧通路の端から声がした。
「十秒です」
律だった。
手すりに手を置いて、ストップウォッチを胸の前で構えている。
「十秒」
もう一度、今度は書きながら言う。
鬼頭が盾を下ろさない。
また突進が来る。
壁を蹴って、観覧通路の手すりへ。
手すりに足をかける。音がしない。
鬼頭の突進が壁の板を割る。破片が床に散る。
俺はもう梁にいた。
五度目。
鬼頭の肩が上がる。
壁から天井へ。吊り具へ。
足の裏を鉄骨に置く。
鬼頭が床で止まる。
息が荒い。盾の縁が床に当たって鳴る。
「二十秒です」
律の声が静かに通る。
「二十秒」
鬼頭の真上の梁に立っていた。
鉄骨の上から、鬼頭の頭頂が見える。
短髪のてっぺんが汗で光っている。
盾はまだ俺のほうを向いている。
鬼頭は動かない。
俺も動かない。
訓練場が乾いた静けさに戻る。
観覧通路の誰かが、息を吐く音だけが聞こえた。
鬼頭が梁を見上げた。
盾の縁が、斜め上を向く。
「跳んだら切り返すんだろ」
声が低い。天井の梁に当たって散る。
「見たぞ」
言われた。
あの動画だ。
三十一秒。
壁の継ぎ目で跳ねて、また張りつく線。
鬼頭はそれを見ている。
盾が半歩、上へ傾く。
切り返しを待つ構えだ。
梁の上で、足の裏を鉄骨に置き直す。
鬼頭の目が動かない。盾の角度も動かない。
待っている。
来い、と。
観覧通路の手すりに、指が五本並んでいる。息が聞こえない。
律のストップウォッチが胸の前で止まっている。
跳ぶ。
梁を蹴る。
真下へ。
風が殻の表面を撫でる。
鬼頭の盾が上がる。
斜め上へ。
切り返しを、待っている。
体はひねらない。
向きは変えない。
空返しは使わない。
盾の上の縁が、目の前に来る。
足の裏を平らに、真上から。
岸壁で覚えた踏み方だ。
金属の角。細い。幅は靴一つ分もない。
鬼頭の腕が動く。
盾を振り上げる。
その一歩先へ、足を出す。
鬼頭の頭の真上。
短髪のてっぺんが、足の裏の下を流れる。
もう一歩。
床が来る。
足の裏を平らに置く。
音はしない。
鬼頭の背後に立っていた。
盾が空を切る音が、遅れて届く。
鬼頭の背中が、半歩前にある。
ベストの裾が揺れている。
肩が上下する。呼吸が二つ。
振り向かない。
動かない。
俺も動かない。
手は下ろしたままだ。
薄刃は出していない。
観覧通路の端から、声がした。
「三十秒です」
律だった。
手すりに手を置いたまま、ストップウォッチを見ている。
「三十秒」
もう一度言った。今度は書かずに、目だけで時計を確かめて言う。
訓練場が静かになった。
床板が一枚、乾いた音を立てて戻る。
誰かが唾を飲む音が、二階から落ちてきた。
鬼頭がゆっくり振り向いた。
盾が下りる。
緑の分厚い板が、床すれすれで止まる。
鬼頭の目が俺の顔を見た。
「……一度も、触れなかった」
声が低い。床を滑って、壁に当たって消える。
「たまたまだ」
俺は言った。
鬼頭は答えなかった。
盾の殻が首の後ろで畳まれる。
緑が二つに割れて、背中へ引いていく。
音はしない。
鬼頭の肩が一度だけ上下した。
呼吸が一つ。
それだけだった。
鬼頭が背を向けた。
ベストの裾が揺れる。
訓練場の扉へ歩いていく。
一歩ごとに床が鳴った。
俺は殻を畳んだ。
灰色が背骨に沿って引いていく。
首の後ろが開いて、空気が入る。
汗が冷えた。
律が三歩分の距離に立っていた。
メモ帳を胸の前に抱えている。
眼鏡の奥の目が、俺の背中をじっと見ていた。
◇
測定課の職員が、殻圧計を持って訓練場に入ってきた。
車輪が板張りの継ぎ目で三度鳴った。
台の上に箱が載っている。殻紋計より小さい。角が四つとも丸い。
殻圧計だ。
職員は白い手袋をしていた。
手袋の指が箱の蓋を開ける。中に丸い皿が一つ。
「胸に当てます」
俺は頷いた。
汗が首の後ろで冷えている。殻は畳んだままだ。
職員が皿を俺の胸の前に持ってくる。
冷たい。
三秒。
箱の中で小さな音が一度鳴った。
画面が灯る。
165
数字だけだった。四角い枠の中に黒い三桁。
鬼頭の三百五十二の、半分もない。
職員が画面を覗き込んだ。
職員が小さく息を吐いた。
肩が一度だけ下がる。
「百六十五です」
言ってから、手袋の指を画面から離した。
「記録します」
俺は皿から胸を離した。
皿の表面に、まだ体温が残っている。
職員は箱の蓋を閉じた。
台車を押して、扉のほうへ歩いていく。
三歩分の距離に、律が立っている。
メモ帳を胸の前に抱えたまま、動かない。
眼鏡の奥の目が、俺の胸のあたりを見ている。
さっきまで皿が当たっていた場所だ。
律はペンを取らなかった。
耳にも戻さなかった。
メモ帳の上で、指が白くなっている。
「百六十五」
律が小さく言った。
一度だけ。書きはしなかった。
俺は首の後ろに手を当てた。
殻の閉じた跡が、まだ少し熱い。
視界の隅で、殻ログの表示を開いた。
【殻装:灰殻】 Lv.9
等級:―(測定不能)
第一殻 脱皮まで:Lv.10
筋力 14 / 敏捷 21→22 / 殻硬度 8 / 共鳴 11
未割振:0
殻圧:162 → 165
能力:[影走り Lv.4] [空返し Lv.3] [薄刃 Lv.3]
常時:[殻読み]
型:なし
日課:壁面走行 1km(1000/1000)達成 ── 連続12日:敏捷+1
確かめて、閉じる。
空返しと薄刃が、三になっている。
数字が消えると、訓練場の白い光だけが残った。
観覧通路の手すりから、一人が降りてきた。
若い。赤いシャツ。靴音が三つ、板張りを踏む。
俺の前で止まった。息が少し速い。
「……見えなかった、今の」
声が上ずっている。
「たまたまだ」
赤いシャツは口を開きかけて、閉じた。
もう一度開いて、何も言わずに頭を掻いた。
踵を返して階段へ戻っていく。途中で二度振り返った。
測定課の職員が扉から顔を出した。
白い手袋を外した手で、ドアノブを握っている。
「お見事でした」
声は小さかった。訓練場の隅まで届いて、静かに消える。
俺は首の後ろに手を当てたまま答えた。
「たまたまだ」
職員は小さく頷いて、扉を閉めた。
閉まる音が一つ。壁に吸われて、残らない。
観覧通路から一人、また一人と階段を下りていく。
律が三歩分の距離から半歩前に出た。
灰色のパーカーの裾が、まだ動いている。
眼鏡の奥の目が、俺の足元から床を見ている。
「三十秒、触れさせませんでした」
律が言った。
「すごいです」
声は丁寧で、でも少しだけ早い。メモ帳は胸の前に抱えたままだ。
「たまたまだ」
律は首を横に振らなかった。ただ、眼鏡の奥の目が一度だけ細くなった。
「四回目です」
一拍。
「新記録です」
律は書かなかった。ペンを耳から取らなかった。
数字が訓練場の乾いた空気に浮いて、それから落ちる。
◇
協会の登録課で、真柴が机の前に立っていた。
真柴は黒いアームカバーの袖を直して、書類を一枚、二枚と机の端に置いた。
「灰塚さん」
真柴が言った。
「規程上、灰塚さんは『等級なし』になります」
声は平板だった。部屋の隅まで届いて、そこで止まった。
俺は黙っていた。
三歩後ろで、律のペンが止まる気配がした。
「……なし」
俺は言った。
それだけだった。
真柴は書類の束を少し持ち上げて、また置いた。
「なし、です」
真柴も言った。
「記録上、等級は空欄になります。殻圧は残ります」
「ああ」
真柴は一枚の書類を机の上に滑らせた。ボールペンがその上に置かれる。
「こちらに署名をお願いします」
俺はペンを取った。
紙の上でペン先が止まる。
灰塚迅。
三文字を書く。
ペンを置いた。
音が一つ。
六年、Eと書かれてきた欄が、空いたままだ。
真柴は書類を受け取って、端を揃えた。
「確認しました」




