第7話 ガラスを走る灰色
十一日目の夜は、雨だった。
協会澪浜支部の掲示板の前に、傘から落ちた水が点々と床を濡らしている。
掲示板の前には、七人ほどの影が溜まっていた。
雨音が庇を叩く。弾けた水が風に流されて、掲示板のガラス面を斜めに濡らす。
貼り出しは一枚だけだった。
ベイサイド第三タワー。外壁四十階。小門の発生を確認。
対応班はまだ決まっていない。
「外壁だってよ」
誰かが言った。
「四十階だぞ。どうすんだ、これ」
「C級の機動でも壁は十階が限度だろ」
「つうか雨だしな。足場が濡れてる」
「待ちだよ、待ち。上の指示待ち」
声が重なる。
誰も端末に触れない。
床に水が溜まっている。傘の先から落ちた滴が、靴の周りで黒い点を増やす。
律が三歩後ろに立っていた。
黒縁の眼鏡の縁に、街灯の光が細く映っている。灰色のパーカーの肩が、雨で濃くなっている。
「外壁、高さ百六十二メートルです」
律が言った。
「雨、毎時八ミリ」
俺は黙って端末の前に立った。
画面を指でなぞる。小門の欄。対応者名の入力。灰塚迅。
「受付 一番」
届出を出す。端末が小さく音を立てた。
受付の職員が顔を上げた。
「……灰塚さん、今の届出、本気ですか」
答えなかった。
職員は画面を見て、それから俺の顔を見た。
「外壁ですよ。四十階です」
「ああ」
「雨も降ってます」
「知ってる」
周りが静かになった。
さっきまで口々にしゃべっていたハンターたちが、一人、また一人とこっちを見る。
「おい、E級だろ、あいつ」
「殻紋が読めないって噂の」
「外壁行くのかよ」
声が聞こえる。
誰も止めない。止める理由もない。届出は通っている。
「行くか」
律が小さく頷いた。
「はい」
振り返らずに歩き出す。律が三歩後ろに続く。
◇
ベイサイド第三タワーの根元に立った。雨が顔に当たる。三歩後ろで律が傘を握り直した。首の後ろで殻が閉じた。
背骨に沿って灰色が這い上がり、顔の前で合わさる。細い線が三本、外側へ走る。光は白い。
見上げた。ビルの壁が黒い。四十階の窓灯が幾つか点いている。上のほうは雨雲に溶けて、てっぺんが見えない。
壁はガラスだ。全面が濡れている。
靴底の継ぎ目に白い線が灯る。
一歩。壁に足が張りつく。
雨が表面を流れている。水の膜が薄い。掌を置くと、殻の縁が水を弾かずに吸いつく。
二歩。
足の裏が滑らない。乾いた鉄の波板より速い。
濡れたガラスは、乾いたガラスより速い。
知らなかった。
一歩で二メートル上がる。雨粒が横から当たる。速度が乗って、顔に当たる雨が斜めになる。
十階。窓の灯が横を流れる。
二十階。風が出た。湾からの突風が壁を這う。殻の表面で雨が弾けて細かい粒になる。
下で白い光が一つ、雨の中に滲んだ。屋根にアンテナを立てた車が止まっている。マイクを持った人影が、こっちを見上げている気がした。
壁の継ぎ目が来る。パネルの縁。指をかける。白い線が縁を掴む。
乗り越える。一段、段差。
二十五階。息は浅くない。腕は軽い。殻が重さを消している。
三十階。窓の灯が減った。事務所の階だ。中は暗い。
三十五階。手のひらの下でガラスが冷たい。雨がここだけ横殴りになる。
四十階。
窓が一つ、光っている。カーテンが閉まっていない。
その向こうの壁面に、黒い口が滲んでいる。空気が薄く歪んで、雨が門の手前で曲がっている。
足を止めた。壁に張りついたまま、雨が殻を叩く。
下を見ない。
視線の先で、門の縁が一度脈打つように光った。
◇
門の縁に手をかけて、くぐった。
塔の中は乾いていた。
雨の音が遠い。窓枠の外で雨が横向きに流れている。
吹き抜けの底が見えない。鉄骨が縦横に組まれて、黒い格子を作っている。
天井のほうから釣り鐘が一つ、鎖で吊られている。
鐘は鳴らない。風が通るたびに、鎖が細く鳴る。
横桁に足を置いた。幅は靴一つ分。錆が薄く浮いている。
手のひらを鉄骨に当てる。冷たい。乾いている。
風が来た。
上から下へ。塔の中を抜けていく。
風上は上の窓枠だ。
窓枠の外、雨の向こうから黒い点が湧いた。
雨燕だ。
燕に似ている。翼が長い。尾が二つに割れている。
羽音がしない。風に乗って滑ってくる。
三羽。いや五羽。
風上からだ。必ず風上から来る。
一羽目が横桁の高さに落ちてくる。嘴が前を向いている。
前腕の縁が白く光る。薄刃。
横桁を蹴る。体が半歩、風上へ出る。
薄刃を横に払う。
一羽目が二つになる。
羽が舞う。血は出ない。乾いた羽が風に流れる。
二羽目と三羽目が左右から来る。
横桁に足を戻す。同時に来る。
左の二羽目を薄刃で受ける。刃が羽の根を裂く。
右の三羽目が窓枠のほうへ逃げる。
窓枠を蹴る。影走り。
縦の枠を一歩で上がる。三羽目の背中に追いつく。
薄刃を下へ振る。
三羽目が落ちる。羽が一枚、窓枠に残る。
四羽目が上から来る。五羽目が下から来る。
横桁に戻る。足を替える。
四羽目が横桁すれすれに滑る。
薄刃を上へ。羽の先を切る。四羽目が体勢を崩す。
そのまま横桁を走る。
五羽目が横桁の下をくぐる。
窓枠の角で折り返す。五羽目の背後に出る。
薄刃を背に一閃。
五羽目が横桁の下へ落ちる。羽が二枚、宙で回る。
風が止まった。
羽がゆっくり落ちてくる。
雨燕の鳴き声はない。
風がまた来た。今度は上から下へ。
塔の中を抜けていく。
鐘の鎖が一度だけ鳴った。
上の窓枠の外に、まだ黒い点が幾つも見える。数えるのはやめた。
風上だ。
横桁の端に立ち直す。
薄刃の白い光が、鉄骨の影に溶けていく。
鐘がまた鳴った。今度は鎖ではなく、鐘そのものが。
低い音が一度、塔の中に広がって消えた。
風上から、次の群れが来る。
六羽。
三羽ずつ左右に分かれて滑る。
横桁を蹴る。左の三羽に半歩。
薄刃を水平に。
二羽が裂ける。一羽が上へ逃げる。
足を縦枠に乗せて、壁を走る。
逃げた一羽の背に追いつく。
薄刃を下へ振る。
羽が三枚散った。
右の三羽が横桁の下へ回る。
体をひねって桁の下へ。
前腕を斜めに払う。
二羽が落ちる。一羽が窓枠の外へ出ようとする。
窓枠を蹴る。雨が一瞬、殻の縁を叩く。
薄刃を突き入れる。
最後の羽が窓枠に残った。
塔の中に戻る。雨の粒が数滴、鉄骨に落ちて消える。
鐘が揺れていないのに、鎖だけが細く震えている。
上から何かが降りてくる。
音がしない。
空気だけが動く。
見上げた。
鐘の下、鎖の根元から黒い塊が剥がれる。
長い。
胴が鎖で吊り下がっている。腕が二本。脚が二本。頭は鐘の内側に隠れている。
胸の下に数字が浮いた。
98
灯って消える。
殻読み。
門主の鐘守だ。
腕の先が鉄骨を掴む。指が五本、桁の縁に食い込む。
鎖が伸びる。
鐘守がゆっくり降りてくる。
一メートルごとに、鉄骨の継ぎ目が乾いた音を立てる。
足が横桁に届く。
指が離れて、鎖が戻っていく。
鐘が静かに揺れて、音を出さない。
鐘守は横桁の向こうに立って、動かない。
雨の音だけが塔の外で鳴っている。
横桁を蹴る。
体が鐘守へ滑る。前腕の薄刃が白く光る。
鐘守の右腕が動く。
横殴りに来る。遅い。見える。
体をひねる。空返し。
空中で一度だけ向きが変わる。腕の軌道を外れる。
直後。
左腕が来ていた。
回り込んだ先に待っていた。
速い。
腕が肩をかすめる。
殻の表面が削れる。
火花が散って、鉄骨に当たって消える。
肩が熱い。
【殻損傷率 18%】
視界の隅に表示が出る。
足を引き、横桁へ退がる。
空中では、もう向きを変えられない。
鐘守は動かない。
腕が二本、ゆっくり元の位置へ戻る。
錆の匂いが風に混ざる。
雨の音が遠い。
横桁を蹴る。
体が低く滑る。薄刃をしまわない。
鐘守の右腕がまた動く。
横殴り。遅い。見えている。
腕の下をくぐる。
足が縦枠を蹴る。
白い線が灯る。
壁を走る。
鐘守の左腕が追ってくる。
縦枠を蹴って体を返す。
横桁を渡る。
鐘守の腕が二本、桁を叩く。
鉄骨が震える。錆が数粒、暗がりに落ちる。
足を止めない。
鎖へ跳ぶ。
掌が鎖を掴む。
白い線が指から鎖へ這う。
滑らない。
手繰り上がる。
鐘守の胴が目の高さに来る。
鎖が揺れる。
胴の継ぎ目。肩と首の間。黒い膜が薄く光っている。
薄刃を振る。
一閃。
膜が裂ける。
鐘守の頭が鐘の内側から滑り出る。
長い胴が横桁へ落ちる。
鉄骨に当たる音が二度。
一度目は胴。
二度目は鐘。
低い音が塔の中に広がる。
鎖が細かく震えて、止まる。
光が流れる。
【経験値を取得しました +213】
【レベルが上がりました Lv.8→Lv.9】
鐘守の胴の横に、魔石が一つ転がっていた。腰の小袋に入れる。雨燕は何も落とさなかった。
◇
門を出た。雨はまだ降っている。
壁を蹴る。
雨が横から当たる。殻の表面で弾けて、細かい粒になって落ちていく。
四十階の窓灯が遠ざかる。
ガラスの継ぎ目を一つずつ落とす。
足の裏に伝わる振動が段差ごとに小さくなる。
地上が近い。
足の裏を平らに、真上から。
最後の一歩で地面に降りた。
あの車は、もういない。
雨がアスファルトを黒く濡らしている。
律が三歩分の距離に立っていた。
灰色のパーカーの肩が雨で濃くなっている。傘を真っ直ぐ差して、動かずに待っていた。右手に銀色のストップウォッチ。針は止まっている。
眼鏡の縁に水滴が一粒ついている。
律は殻の顔を見上げてから、防水メモ帳を開いた。
ペンを耳から取る。
「門の中は、二十四分十二秒です」
雨音が一瞬だけ強くなる。
傘の上で雨が跳ねる。
「ああ」
律はメモ帳を閉じて、胸の前に抱えた。
傘の柄が白い指に握られている。
雨が殻の肩を叩く。
◇
十二日目の朝。協会澪浜支部のロビーで、律が端末を差し出した。
受付の向こうで端末が二台、低い音を立てている。
律が三歩後ろから半歩前に出た。
端末を両手で差し出す。画面がこっちを向いている。
動画が再生されていた。
題名が画面の上にある。
「ガラスを走る灰色」
雨の湾岸だ。黒いビルの壁。画面の端を灰色の線が駆け上がる。速い。途中で止まらない。窓の灯を横に流して、四十階の手前で消える。
中継の実況が映っている。車の屋根にアンテナ。マイクを握っている。字幕が出る。
香坂澄。
「今の、何でしょう。灰色の……」
語尾が消えた。カメラが揺れる。雨粒がレンズに当たる。灰色の線はもう映っていない。
通りすがりの職員が二人、足を止めた。端末を覗き込む。
「ガラスだぞ、ガラス」
「誰だよあれ」
別のハンターが一人、水筒を持ったまま横から画面を見ていた。
再生数が画面の隅にある。
百二十七万。
見ているあいだに数字が変わる。
百二十八万。
律は動画の下の帯を指で示した。
「三十一秒です」
一度言って、画面の右下を見る。
「三十一秒」
もう一度言った。今度は声が少し低い。
俺は端末を受け取らなかった。
画面の中で灰色の線がもう一度、最初から走る。雨が横から当たっている。線は壁の継ぎ目で一度だけ跳ねて、また張りつく。
知っている跳ね方だ。
「たまたま映っただけだ」
律は端末を胸の前に戻した。画面を消さない。眼鏡の奥の目が、動画の再生数をもう一度拾っている。
「百二十八万です」
律の差し出した端末の中で、灰色の線が三十一秒を繰り返している。再生数は百三十万に届こうとしていた。
昨夜、塔から戻ったあと、殻ログの画面を開いた。
未割振の三点が残っていた。
全部、殻硬度に振った。
一回、当たった。
分かるのは、当たった感触だけだ。
肩が熱かった。
殻損傷率十八パーセント。
俺の端末が震えた。
胸ポケットから取り出す。
画面が一つ、白く灯る。
「再測定:本日 十三時」
文面は短い。
「模擬戦 試験官:鬼頭 篤(C級)」
律が半歩近づいた。眼鏡の奥の目が俺の端末を覗き込む。
「鬼頭さん、ですか」
俺は端末を閉じた。




