第6話 やっぱりな
十日目の朝、高架の下の搬入口に門が開いた。
柱の根元。錆びた排水溝の蓋の上。空気が薄く歪んで、黒い口が滲む。
端末に触れる。
「受付 一番」
周りに人はいない。高架の上を電車が通って、足の裏が細かく震える。
くぐった。
地下は駐車場の跡だった。
白い区画線が埃に埋もれている。天井の蛍灯が二つだけ光る。
柱を蹴って壁を走る。
影から湧くのを、通りがかりに刈る。
触れさせない。
一歩に一匹。配管を蹴って落ちながら三匹まとめて背を割る。
奥の柱の裏に門主。
頭上を取って、首の継ぎ目に一太刀。
着地で崩れた。
光が流れる。
【経験値を取得しました +144】
出口の光の中に出た。
律が壁に背を預けていた。手を出す。
袋を渡す。
律が両手で受け取った。膝がわずかに沈む。紐が指に食い込む。
「次は、どこですか」
潮の匂いが高架の隙間を抜けていく。
「汐留町だ」
律の手が止まった。袋を持ったまま、一度だけまばたきをした。
「黒潮、ですか」
「ああ」
律は何も書かなかった。ペンを握ったまま、袋の紐をもう一度握り直しただけだった。
◇
十日目の昼前、汐留町のヤードに着いた。
コンテナが錆色に積まれている。四段、五段と重なった鋼の箱が、昼前の光に影を落としている。その間にクレーンの脚が三本、空向きに立っている。鎖が風でかすかに揺れる。潮の匂いと鉄の匂いが混ざる。
倉庫の並びより広い。天井がない分、光が強い。足元の砂利が踏まれるたびに乾いた音を立てる。
ヤードの奥、三棟目のコンテナの陰に人がいた。紺のジャケットを着た若い背中が、袖をまくり上げて工具箱を担いでいる。歩幅が広い。日焼けした腕が、箱の縁を握っている。
律が三歩後ろで立ち止まった。メモ帳を開いていない。ペンを耳にかけたまま、クレーンの脚を見上げている。
砂利を踏む音がもう一組、向こうから来た。
近い。
見る前に匂いが先に来た。潮と鉄と、日焼けした皮膚の上の古い油。六年聞き慣れた匂いだ。
砂利を踏む足が重い。歩幅が広い。右足が着地するたびに砂利が一つ余計に鳴る。古い火傷の腕が、重心を少し替えている。
角刈りの頭がコンテナの角から出た。
白髪が混じっている。日焼けした顔に、目の傍に深い線が二本入っている。紺のジャケットの襟が風で少し開いている。
大鳥甚八だった。
足が止まった。
大鳥の目がこっちを向いた。
一秒。
目が俺の顔をなぞる。六年で一番最後に見たときと、何が変わったかを、あの目で数えている。
一秒じゃ足りないはずだ。殻は着ていない。隣に首からメモ帳を下げた小柄な眼鏡が立っている。
変わったことのほうが多い。
大鳥はそれを全部飲み込んで、口の端を上げた。
「来たか、坊主」
笑いが一つ、喉の奥で鳴った。乾いた音だった。砂利を踏むのと同じ音だ。
「ああ」
大鳥は砂利を踏まずに立った。風がコンテナの隙間を一度抜ける。
「協会で噂を聞いた」
声は低い。
「殻紋の読めねえ荷運びが出たってな」
「お前だと思った」
答えなかった。
大鳥は火傷の腕を組み替えて、クレーンの脚を一度見上げた。
「お前が言ったことがある。ワイヤは切れる前に一度鳴く。鳴いたら荷を止めて下に誰も入れるなってな」
「言った」
「あれからうちじゃ、鳴いたら止めるのが場のやり方になったぜ」
笑いが一つ喉の奥で鳴った。乾いた音だ。
「それでな」
大鳥がクレーンの脚のほうへ半歩出た。
「三年前の満潮の前。倉庫の北側だ」
あの日だ。雨の翌日。潮が満ちて荷が重かった。
「お前が言った。先に半分下げたほうがいいってな」
言った。
あの日は潮が早かった。荷台の底が波を被りかけていた。ワイヤが鳴く前に荷が流れる。なら荷を減らすしかない。
「俺は黙って半分を下げた」
「おかげで全員が戻れた」
大鳥が笑った。喉の奥で砂利が鳴る音だった。
クレーンの脚の下で鎖が一つ揺れた。
潮の匂いがコンテナの隙間を抜けた。
頭上で音がした。
細い。一度だけ。
ワイヤだ。
クレーンのジブの先で鋼材の束が浮き始めている。張ったワイヤが陽を弾いた。
あの音だ。鳴くのは一度。次は切れる。
荷の真下に、人がいる。
紺のジャケット。袖をまくった若い背中。さっき工具箱を担いでいた男だ。しゃがんで砂利の上の工具を拾っている。
頭上の鋼材はもう二メートル浮いている。
視界に数字が浮いた。
178
胸の下に灯って消える。
首の後ろで殻が閉じた。
背骨に沿って灰色が這い上がり、顔の前で合わさる。
地面を蹴る。
背後で大鳥が叫んだ。
「戸張!」
斜めにコンテナの壁を駆け上がる。靴底の継ぎ目に白い線が灯って、鉄の波板に足が張りつく。
一つ。コンテナの角。
足を替えて壁を蹴る。波板の段が掌の下を流れる。
二つ。ブームの梁。
鉄の梁に足を置く。揺れない。潮風が殻の表面を撫でていく。
三つ。吊りフック。
鋼材の束が揺れて、フックの金具が白く光る。
鋼が裂ける音がした。
荷が落ち始める。
梁を蹴る。影が下へ滑る。
落ちる鋼材の縁の影と、しゃがんだ背中が重なる。
戸張の腕を抱えて、足で地面を蹴った。
体がヤードの端のほうへ流れる。懐の腕が硬い。
戸張の背中が胸に当たる。
鋼材の束が地面を叩く一歩前だった。
背後で外れたフックが迫る。
空中で体をひねる。空返し。
回転がフックの軌道を外す。
鋼材が地面を叩き砂利が跳ぶ。
俺はもう戸張を下ろしていた。
砂埃が舞って、やがて沈む。
鋼材の束が転がって止まった。
ヤードの作業員が五六人、それぞれの持ち場で固まっている。
誰も動かない。
クレーンの鎖が一本、ぶら下がったまま揺れている。
その音だけが残っている。
戸張の背中はまだ俺の腕の中にあった。
息が浅い。膝が笑っている。
腕を外す。戸張の足が砂利を踏んだ。
首の後ろで殻が音もなく畳まれる。灰色が二つに割れて、視界が広がる。
潮風が首筋に当たった。
砂利を踏む音が遠くから近づいてくる。
律だった。
メモ帳を開いている。ペンはまだ耳にある。
律は俺の立っていた場所と戸張のしゃがんでいた場所を、目だけで結んだ。
首ごと動かして、二点を三度見た。
「十八・四メートルです」
言ってから、ペンを取った。
「十八・四メートル」
もう一度、今度は書きながら言った。
律の眼鏡の奥の目は、鋼材の束とフックの落ちた位置も拾っている。角度まで測っているらしい。
戸張の膝が震えている。
砂利の上で、爪先が内側を向いたり外を向いたりしている。
自分で立っているのが精一杯の膝だ。
戸張の足元に、工具箱が割れて散っている。
レンチが三本。ドライバーが二本。ハンマーが一つ。あとは小さなボルトが十や二十、砂利の間に沈んでいる。
腰をかがめる。
レンチを拾って、柄のほうを揃える。ドライバーは先を下にして。ハンマーは一番上。
ボルトは掌で砂利ごと掬って、指の間で砂を落とす。
工具箱の蓋はもう閉まらない。蓋を外して、中に順番に入れる。
戸張の前に立った。
工具箱を差し出す。
戸張の手が伸びて、縁を握った。指が滑って一度落ちかけた。
もう一度握り直す。
「あの、ありがとうござ……っす」
声が途中で裏返った。
俺は頷かなかった。何も言わなかった。
戸張の手の中の工具箱が、小さく鳴っている。中でレンチが揺れている。
ヤードの奥で、大鳥が立っている。
紺のジャケットのまま、半歩も動いていない。
クレーンの脚の横で、腕を組んでいる。
古い火傷の腕が、陽に当たって白く光っている。
大鳥はまだ喋らない。
大鳥が腕を解いて、笑いながら近づいてくる。
「やっぱりな。遅えんだよ、坊主」
砂利を踏む音が近くなる。潮と油の匂いが濃くなった。
俺は工具箱の空いた蓋を足元に置いた。
「たまたまだ」
大鳥は歩みを止めなかった。角刈りの影が俺の靴先にかかる。
「たまたまで吊り荷から人を抜けるかよ」
喉の奥で笑いがもう一つ鳴った。砂利が揺れる音と同じだ。
口の端が動きかけたのを、顔を伏せて隠した。
三歩後ろで律がペンを動かしている。書き終わって、耳に戻した。
「遅え」と言われるのは、悪くなかった。
大鳥が胸ポケットから出していた煙草を、箱ごとしまった。
「等級の件が片付いたら、うちの正門に来い。荷運びの枠は空けてある」
「ああ」
大鳥はクレーンの向こうを見た。湾の光がコンテナの隙間で白く光っている。
「最近、赤化が多い。湾岸だけで今年三件目だ」
あの夜の赤い門が、一瞬だけ目の裏に浮かんで消えた。
「……そうか」
大鳥は何も聞かなかった。
風がクレーンの鎖を一度鳴らして、止まった。




