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第5話 42.3秒




丸い二つの光はまだこちらを向いている。


ペンの先も動かない。


軒の滴がもう一つ落ちた。濡れた地面で小さく弾ける音が、やけに大きく聞こえる。


「……何だ」


声を出すと、砂色の肩がびくりと跳ねた。影はメモ帳を胸に抱え直して、もう一度頭を下げる。さっきより深い。


「小鳥遊(たかなし)律(りつ)です」


細い声だった。路地の濡れた壁に当たって、すぐに消える。


「汐留町の門で、出口へ投げてもらった者です」


視界に数字が浮いた。


48


胸の下あたりに、小さく灯っている。俺の三分の一もない。


赤い光の中で、足首を押さえてうずくまっていた小さな殻。それが目の前の殻に重なった。


「ありがとうございました」


律は頭を下げたまま言った。声が地面に向かって落ちていく。


首の後ろで、砂色の殻が音もなく畳まれた。黒縁の眼鏡をかけた顔が出てくる。まだ子どもっぽさの抜けきらない、小柄な顔だ。


眼鏡の奥の目は泣いてはいなかった。何かを数えるときの目をしている。


「いい」


それだけ言って、目をそらした。肩の袋を右から左へ担ぎ替える。


律の視線が袋の底から口までをすっとなぞった。


「四・二キロです」


「……何が」


「その袋です。魔石は一つ百十グラム前後なので、三十八個と、大きいのが一つ」


数えていない。拾っただけだ。


律はペンを走らせた。四・二、と小さな字が見える。


「そのペンは」


「癖です。見たものを書かないと、落ち着かなくて」


さっき出口で、こっちに向けていたのもそれか。何を書く気かと思えば、袋の重さだった。


俺は路地を歩き出した。


三歩後ろで、靴が濡れた地面を踏む音がする。


角を一つ曲がっても音はついてきた。


「まだ何かあるのか」


「灰塚さんが生きてるって、協会で聞きました。それから、探しました」


「どこの門に入る人か分からなくて。小門の出る場所、三日張りました。外れは二回です」


「……三日」


「前の日の届出は、協会の掲示板に出ます。灰塚さんのは一日一件なので追えました。最初の二日は外れです」


「三日目に、日付と天気と潮を並べました。雨の次の日の満潮前、倉庫の北側ばかりでした」


鼻から息が抜けた。


六年かけて体で覚えた当たりの日を、こいつは掲示板の紙で読んだらしい。


「外れの二日は、何してた」


「別の門の出口で、四時間ずつ立ってました。黄土色の人に、邪魔だと言われました」


あいつだ。顔も知らないのに、舌打ちの音まで浮かぶ。


律はペンの尻で眼鏡を押し上げた。


「ついて行っていいですか。数えるだけです」


「何を」


「見たものを、全部」


「……一人でいい」


律はメモ帳を胸に当てたまま動かない。帰る足の向きではない。


数字を出すなら、俺の言い値より外の目のほうが通る。


湾のほうから汽笛が一つ鳴った。


「そうか」


律の手の中でペンがかすかに鳴った。


「明日は、どこですか」


「……埠頭」


律は書いた。埠頭、と二文字。


鉄顎の分で、買取の窓口には今朝もう並んだ。袋は担いだまま灰町へ帰った。


その夜の十キロは、倉庫の屋根を伝って走った。


  ◇


九日目の朝、埠頭に着くと、律が先にいた。


空は低く曇っている。潮はこれから満ちてくる。岸壁の鉄板が夜露で黒く濡れて、潮の匂いが重たい。


昨日の袋はまだ肩にある。


律は殻を着ていなかった。灰色のパーカーに黒縁の眼鏡、首からメモ帳。右手に、銀色の丸いものを握っている。


「おはようございます」


「……それは」


「ストップウォッチです。目で読めますけど、目だと証拠が残らないので」


礼を言いに来た奴が、なぜストップウォッチを出す。


聞く前に、倉庫の並びの三つ目の北側で空気が揺れた。


壁の根元に、黒い口が開く。


端末に触れて、届出を一件。今日の一件は、これで終わりだ。


「行ってくる」


「出てくるまでの時間を、測ってます」


 


中は冷凍倉庫の跡だった。白い霜が床に残って、吐く息が細く伸びる。


灰鼠が十九匹。門主が一匹。


棚の上を走り、冷却管を蹴り、通りがかりに刈った。


棚から床へ降りたとき、霜に踵から入った。靴底が流れて、灰鼠の歯が鼻先をかすめる。


足の裏を平らに、真上から。岸壁で台車を押した頃の踏み方で、次の一歩を置き直す。霜が靴底の下で軋んで、止まった。


門主は天井の配管から落ちて、首の継ぎ目に一太刀。最後に拳ほどの群れの子が十匹ほど床を走り回ったので、それも拾うように刈った。


一度も、触れさせなかった。


光の粒が流れ込む。


【経験値を取得しました +151】


【日課:無被弾撃破 30(30/30)達成】


【連続9日:共鳴+1】


子の魔石は砂粒ほどで、値は付かない。大きいのだけ腰の小袋に入れた。


 


出口をくぐると、律がストップウォッチを止めた。


「十八分四十秒です」


「そうか」


律はそれを書いてから、顔を上げた。


「測らせてください。一回だけ」


「何を」


「昨日の夜、倉庫の屋根を灰色の殻が走っていくのを見ました。どのくらいか、分かりませんでした」


見られていたらしい。


律は埠頭の先を指さした。岸壁沿いに倉庫が五棟。その向こう、海の手前に錆びた係船柱(けいせんちゅう)が一本立っている。


「ここから、倉庫の上を通って、あの係船柱まで。四百八十メートルです」


律の視線が壁の高さと屋根の継ぎ目を一つずつ拾っていく。測るときは、首ごと動く。


俺も、同じところを見た。


壁。庇。鉄板。


波板の継ぎ目には、縦にボルトが並ぶ。最後の屋根から先は、岸壁の鉄板だ。


荷運びの頃、台車を押してこの岸壁を何百回も往復した。雨の朝に踵から踏んだ新人が、台車ごと海側へ流れていくのを二度見た。


「一回だけだ」


足元に昨日の袋と腰の小袋を下ろした。


「僕は、向こうで待ちます。灰塚さんが動いたら押します」


律は岸壁を歩いていった。灰色のパーカーの背中が係船柱の横で小さくなるまで、六分かかった。


向こうで、細い腕が一本上がる。


殻を閉じた。


 


地面を蹴る。


一棟目の波板に、斜めに足をかけた。踵の継ぎ目に白い光が走って、靴底が板の溝に吸いつく。


ボルト。ボルト。屋根の縁。


上がった。


トタンの屋根が足の下で低く鳴る。潮風が正面から来て、殻の表面を撫でていく。


一棟目の端で跳ぶ。二棟目の庇に片足だけ置いて、その反動で屋根へ。三棟目との隙間は、路地ひとつぶんの幅がある。


空を蹴った。


体が半歩ぶん前へずれて、三棟目の棟に乗る。


四棟目の庇を踏み台に、五棟目。屋根が切れる。下は岸壁の鉄板だ。黒く濡れて、曇り空を映している。


落ちる。


足の裏を平らに。真上から。


そのつもりだった。速さが残っている。


踵が先に入った。


鉄板の上の水が、薄い膜になって靴底の下を逃げる。体が海側へ流れた。


殻の足裏がしなった。


指の付け根に沿って細い線が灯り、水の膜の下の鉄を、じかにつかむ。


乗った。


【影走り Lv.4】


二歩。三歩。四歩目で、係船柱に手をついた。


錆のざらつきが掌の殻に引っかかる。


「……上がった」


息が白く散った。首の後ろで殻を畳む。


律はストップウォッチを見たまま動かない。


眼鏡の奥で、まばたきが一回。


「……四十二・三秒」


ペンを握った手が、メモ帳の上で浮いている。


「四十二・三秒です」


走った道を数字で聞くのは初めてだ。


「協会の運搬員の試験だと、同じ距離を平地で走って、D級で一分十秒前後です。屋根の上で、これです」


「……そうか」


律のペンが動き出した。さっきより速い。字が斜めに走って、ページの端まで行く。


「たまたま、足が合った」


「最後の鉄板で、一度、九センチ海側へ流れました」


「……見えたのか」


「計(はか)り目(め)なので。見たものの長さが、分かるんです。戦うのには、何の役にも立ちませんけど」


律は書き続けた。


「九センチ流れてから立て直したところだけ、測れませんでした。足の裏が一瞬光って、目が追いつかなかったので」


「たまたま、戻れただけだ」


  ◇


「少し待っていてください」


止める間もなく、律は倉庫街の向こうへ走っていった。


岸壁の端に、塗装の剥げた自販機が一台ある。百三十円を入れて、缶コーヒーを一本買った。


開けずに、掌の中で転がす。


潮が満ちてくる。波が鉄板の縁を一つずつ舐めていく。


人を待つのは、慣れていない。


荷運びは、待たせないように走る側だった。誰かが自分のために戻ってくるのを待ったことは、たぶん一度もない。


缶が掌の温度に近づいていく。


一時間と少しで、律は戻ってきた。


両腕で、弁当箱ほどの灰色の箱を抱えている。息が上がって、眼鏡が鼻の先までずれていた。


「質屋の奥に、ありました」


箱の蓋を開ける。中に、角の擦れた樹脂の機械が収まっている。丸い読み取り部と、小さな数字の窓。


「簡易の殻圧計です。中古で、誤差は一割。二万八千円でした」


「いくらだ」


律が首を振って、財布を出しかけた手を止めた。


「僕の買い物です。記録係の」


「誰が記録係を頼んだ」


「まだ、誰も」


律は真顔のまま、計器の電源を入れた。窓に横線が三本並ぶ。


「先に、僕で試します」


砂色の殻が首の後ろから閉じて、律の顔を覆った。丸い二つの光が灯る。律は自分の胸に計器を当てた。


小さな電子音。


「四十七です。登録は四十八なので、誤差は一ですね」


昨日、視界に浮いた数字と一つしか違わない。


この機械は、使える。


律の殻がまた畳まれて、眼鏡の顔が戻ってくる。律は計器を両手で差し出すように持った。


「着けていただけますか」


缶をポケットに入れた。


首の後ろから、殻が閉じていく。背骨に沿って冷たい線が這い上がり、最後に顔の前で灰色が合わさる。


律が計器を俺の胸に当てた。


窓の横線が一本ずつ消える。


電子音が鳴った。


律は窓を見て、それから計器をいったん離した。もう一度当てる。


同じ電子音。


「百五十三です」


今朝、共鳴が一つ上がった。


十四、二十一、五、十一で五十一。三倍で百五十三。


殻ログの数字が外の機械の上でも同じだった。


ポケットの中の缶は、もう冷たくない。


律は窓の数字をメモ帳に写していく。書き終えてから、ペンを耳にかけた。


「一割引いても、百三十八。D級の帯です」


「そうか」


「権藤さんと、同じ帯です」


あいつの数字は、百九十だった。


それを口にする気はなかった。


「……たまたまだ」


律は耳のペンを取って、ページの隅を三回叩いた。


「今日の『たまたま』、三回目です」


殻の内側で、まばたきを一つした。


「数えてたのか」


「数えるだけです、と言いました」


律はページの隅に「3」と書いて、丸で囲んだ。


  ◇


夕方、協会の澪浜支部の前まで来た。


買取の窓口のガラス越しに、列が見える。黄土色の殻の連中が、六人。


通りの向こうで、足を緩めた。


律がこっちを見上げる。


「持っていきます」


「いい」


「並ぶの、苦手なんですよね」


なぜ分かる、とは聞かなかった。どうせ、何かを数えたんだろう。


窓口の手前で、昨日の袋と今日の袋を律に渡した。


律の膝がわずかに沈む。


「四・二キロと、二・二キロです」


細い腕が袋の紐を抱え込む。


俺の手が勝手に袋へ伸びて、途中で引っ込んだ。


荷物を人に持たせるのは、六年で初めてだ。


律はよろけずに横断歩道を渡り、ガラスの扉の向こうへ消えた。


ガードレールに腰を預けて待つ。高架の上を電車が通るたび、足元のアスファルトが細かく震える。


二十分で、律は出てきた。


手に、白い封筒が一つ。


「五万八千円と、三万九千円。合わせて、九万七千円です」


封筒を受け取る。指が沈む。


律はメモ帳を開いて、こっちに向けた。


「内訳です」


小さな字が縦に並んでいる。昨日の魔石が三十八個と主核が一つ。今日の魔石が十九個と主核が一つ。一個ずつの買取値まで書いてある。


荷運びの日当の、五日ぶんと少し。


それが、二日で手の中にある。


「窓口で、何か言われたか」


「荷運びの代理です、と言いました。窓口の人が袋と僕を二回見比べて、それで通りました」


ポケットから缶を出して、律に渡した。


「ぬるいぞ」


「……ありがとうございます」


封筒をジャケットの内ポケットに入れて、灰町のほうへ歩き出した。三歩後ろに靴音がついてくる。


信号を一つ渡ったところで、律が言った。


「それと、窓口の前で聞きました」


振り返ると、律のメモ帳は閉じてあった。ペンも胸ポケットに差したままだ。


「列の後ろで、黒潮(くろしお)の人が話してました。『うちの灰塚は、まだ荷を担いでるのか』って」


律は缶を両手で持ち直した。


「大鳥(おおとり)さんが、灰塚さんを探してるそうです」


六年で、一番多く俺を雇った男の名前だ。


ジャケットの上から封筒を押さえる。九万七千円の束が、掌を重く押し返した。

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