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第4話 一日一つなら




真柴さんは、窓口の奥の扉を黙って押さえた。


「こちらへ。計器をお貸しします」


入ったことのない部屋だった。壁は白く、窓がない。中央の台に胸の高さの据え置きの機械が一台ある。丸い読み取り部がこっちを向いて光っている。


殻紋計だ。ここで測られたのは六年前の一度きりで、E、と出た。


「胸を当ててください。三秒で終わります」


言われたとおり当てた。


画面に「読み取り中」と出る。


一秒。二秒。三秒。


文字が変わらない。


十秒たったところで、画面が白くなった。


「読み取れません」


端末と同じ言い方だった。


真柴さんは眉も動かさずに壁際の棚へ行き、もう一台の機械を台に載せた。


「予備機です。もう一度」


当てる。十秒。


「読み取れません」


もう一度、殻の内側を探した。やっぱり線は一本も無い。六年、毎朝着るたびに指でなぞった線だ。無いと分かっていても、指が先に探してしまう。


「機械の故障ではありません」


真柴さんが言った。平板な声のまま、手元の紙に何かを書き込んでいく。


「二台とも、点検の済んだ日の機械です。読めないのは、灰塚さんの側です」


「だろうな」


「ご自身で、思い当たることは」


「ない」


嘘ではなかった。胸を貫かれた夜から、分からないことのほうが多い。


真柴さんはペンを置いた。眼鏡のレンズが一瞬、白く光る。


「規程には、殻紋の読めない方の想定がありません。前例もありません」


そこで一度、息を継いだ。


「ですので、暫定の措置を取ります。再測定の枠は、十二日目に取れます。それまでは、小門の届出を一日に一件までとさせてください」


一日に一件。


三周が一周になる。


頭の中で、さっさと勘定した。荷運びの日当は一万八千円。小門の一周は二万から四万。一日一周でも、荷運びの頃には戻らない。


悪くない。


「期間は」


「再測定が済むまでです」


「再測定で、何が分かる」


「分かりません」


真柴さんは書類の端を揃えながら言った。


「分からないものを、分かる形に直すのが、協会の仕事ですので」


「分かった」


真柴さんの手がわずかに止まった。


「……ご不満は、ないのですか」


「ある」


「では、書式に」


「書いても通らないだろ」


「通りません」


即答だった。


真柴さんはそのまま、もう一枚の紙を台に置いた。門外討伐届だ。


「鉄顎の件は、受理します。殻紋が使えませんので、目撃者の署名で代えます」


目撃者の欄に、三つ名前が並んでいる。


権藤。真壁。坂巻。


権藤の署名の横に、乱暴な字で一行足してあった。


『灰色のやつが落とした。見たまま書いた。』


「あいつら」


「三名とも署名されました。今回は『偶然』とは書けません」


口の端がどこかで動きかけて、止めた。


「魔石の買取は、明日の査定に回ります」


「分かった」


部屋を出る前に、声が背中に当たった。


「灰塚さん」


「ああ」


「次に書式を使うときは、事前にご連絡ください」


前にも聞いた台詞だ。


  ◇


夜のうちに十キロを走って、日課を片づけた。


灰町のアパートに戻ったのは日付が変わってからで、そのまま寝た。


目が覚めたのは八日目の朝だった。


床に潮見表を広げる。畳の上で冷蔵庫が唸っている。壁に貼っておけば済むのに、毎朝こうして広げる癖が抜けない。


一日一件。


小門は薄いのと濃いのとで、中身がまるで違う。濃い門なら、一周で三周ぶん稼げる。


なら話は簡単だった。


一日一つなら、一番いいのを選べばいい。


指で日付をなぞった。今日は大潮の前日で、満潮は午後の二時過ぎ。昨夜は雨が降った。


荷運びを六年やると、当たりの日が嫌でも分かる。


雨の翌日の満潮の前、北の倉庫の北側。


あそこに開く小門は、中の湧きが倍になる。魔石が増えれば荷も増える。だから荷運びの列は、その日をいやがった。背負い紐の重さで、毎回思い出した。


去年の秋も、同じ条件で三日続けて当たった。


誰にも言わなかった。言っても、荷運びの勘は勘にしかならない。


潮見表を畳んで、缶コーヒーを一本ポケットに入れた。


 


協会の買取窓口は、開いたばかりだった。


袋を台に置く。昨日の鉄顎の魔石だけが入っている。手袋をした職員の手が魔石を秤に載せる。


目盛りが動く。職員の指が止まった。


「……D級の中ボス、ですね。状態がいい」


奥でも別の職員が顔を上げた。


「鉄顎ですか。昨日の」


「ええ。討伐届の」


職員は電卓を叩いて、画面を俺に向けた。


十八万四千円。


荷運びの日当の十日ぶんだ。


「……これ、荷運びの方の持ち込みですよね?」


「ああ」


「荷運びが、一人で?」


「たまたまだ」


職員はそれ以上は何も聞かなかった。後ろの列から、小さな声がした。


「鉄顎を、荷運びが……」


明細を畳んで、ポケットの缶コーヒーの隣に入れた。


 


灰町から湾岸へ歩く道で、街頭ビジョンの前を通った。紗夜の正門の閉門から五日がたつのに、まだ特集をやっている。


画面の中で、白い殻の背中が会見の席を立っていく。


信号が青に変わった。


見上げたのは三秒だけだ。缶コーヒーのプルタブを起こして、横断歩道を渡った。


 


満潮の一時間前、北倉庫の北側に着いた。


雨上がりの地面はまだ濡れていて、屋根のない搬入口に空が映っている。人はいない。


視界の端で、空気が揺れた。


倉庫の壁の根本に、黒い口が滲み出すように開く。


端末に触れる。


「受付 一番」


後ろで足音がした。


E級の殻が一人、息を切らして駆けてくる。黄土色だ。昨日、路地ですれ違った男とは別の顔だった。


「あれ。もう開いてんの」


「ああ」


「朝イチから張ってたのに。……一番、取られたか」


男は端末の画面を覗き込んで、肩を落とした。


「先週まで空いてたのに。最近、ほんとすぐ埋まるな。誰が入ってんだよ」


「さあな」


男は舌打ちを一つ残して、別の通りへ走っていった。


門をくぐった。


  ◇


中は潰れた物流倉庫だった。


天井近くまで組まれたラックが何列も続き、奥にベルトコンベアの枠が蛇のように横たわっている。吊り照明が三つ、鎖でぶら下がり、薄く黄色い光を落とす。


床は埃と鼠の糞だらけだ。


灰鼠の臭いだ。


床の隙間。ラックの影。コンベアの下。あちこちで爪の鳴る音がする。


視界に数字が浮いた。


58


61


64


一番手前の三匹だった。どれも俺より下だ。もう見なくていい。


数字を目の端から追い払う。


読むのは数字より湧く位置だ。


灰鼠は門の口の左側から出る。六年分の勘と、この間の十二周で確かめた癖だ。口の左に一番濃い影が落ちている。


最初の一匹はそこから跳んだ。


床を蹴る。ラックの支柱をつかんで、一段目の棚へ上がった。


足の甲に沿って、殻の継ぎ目の白い線が灯った。細い光が、棚の影の中を走る。


跳んだ灰鼠が、さっきまで俺のいた床を噛む。


右腕を振る。薄刃が灰鼠の背を割った。


二匹目が来る。三匹目。


棚の天板を走りながら、通りがかりに刈っていく。足を止めない。止まれば囲まれる。


下で光の粒がこぼれ始めた。


四匹。五匹。数える前に次が来る。


左の影から湧き続けている。ラックの上の俺に気づいた灰鼠が、支柱を駆け上がろうとして爪を滑らせた。薄刃の光が、その鼻先を横切る。


十を超えたところで数えるのをやめた。


この間の門の灰鼠は、一つの門で十数匹だった。ここは、もう倍を超えている。


湧く音が止まない。


ラックの二段目へ上がり直した。天板の幅は靴の長さと変わらない。それで十分だった。


右から二匹、同時に跳んだ。


右腕で一匹。もう一匹は、薄刃を返す前に自分から支柱へぶつかった。転がったところを上から踏んで刈る。


天板の端まで来て、一度だけ空を蹴る。


空返し。


体が横にずれて、コンベアの枠に乗った。細い鉄の枠が足の裏で鳴る。枠の上を走る。


下から上がってきた群れが、枠の足元で団子になる。


そこを上から刈った。


静かになった。


奥の吊り照明の下に、ひときわ大きな影が立っている。門主だ。


象の仔ほどの灰鼠が、毛を逆立ててこっちを向く。


95


殻読みの数字は、それだけ見ればいい。


門主が低く鳴いた。


床を蹴って跳ぶ。まず横から、胴へ薄刃を入れた。


毛が刃を弾く。浅い。皮の上を滑っただけだ。


門主の前脚が空を薙いだ。体をひねってかわす。コンベアの枠が、その脚に潰されて曲がった。


胴は硬い。なら、別を探す。


吊り照明の鎖が目に入った。


照明の笠を蹴る。


鎖が大きく揺れて、俺の体が門主の頭上を越える。


背中が見えた。


背骨の根元に、一筋だけ毛並みの途切れる継ぎ目がある。


落ちながら、薄刃を継ぎ目に当てた。


さっきは弾かれた刃が、今度は抵抗なく入った。


着地と同時に、門主の体が前へ崩れる。


光の粒が、倉庫の暗がりを一度明るくしてから、俺の殻へ流れ込んだ。


【経験値を取得しました +266】


【薄刃 Lv.2】


右の前腕の縁が、半指ぶんだけ長くなった気がした。


吊り照明がまだ揺れている。


倉庫の床いっぱいに、魔石が転がっている。


ラックの下。コンベアの陰。天板の端。数えきれない。


腰をかがめて、一つずつ拾った。


荷運びの癖だ。散らばったものは、拾って袋に入れないと落ち着かない。


袋の口が閉まらなくなるころには、肩の紐が食い込んだ。懐かしい重さだ。ただ、今日の魔石は全部俺の取り分になる。


缶コーヒーは、二本目を買ってもいい。


  ◇


出口をくぐると、雨上がりの路地だった。


空は薄く晴れて、濡れた地面が白く光っている。


袋を担ぎ直して、一歩出た。


路地の先に、人が立っている。


砂色の殻だ。小柄で、肩幅が狭い。顔の位置に、丸い二つの光が灯っている。


その胸元から、細い紐で小さな四角いものが下がっていた。


防水のメモ帳だ。


足が止まった。


あの新人だ。足首は、もう治ったらしい。


影が、こっちを向いて深く頭を下げた。


そのまま、顔を上げない。


雨の滴が軒から一つ落ちる。


やがて影がゆっくり顔を上げ、メモ帳を開いた。小さなペンの先が、まっすぐ俺に向く。


何を書く気だ。

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