第3話 E級は帰れ
門主の灰鼠が棚の向こうで崩れた。
犬ほどもある灰色の鼠だった。その体がほどけて光の粒になる。粒は小門の暗がりに溶けず、まっすぐ俺の殻へ流れてくる。
【レベルが上がりました Lv.4→Lv.5】
【能力を取得しました:薄刃】
右の前腕が内側からすっと冷えた。
見下ろすと、肘から手首まで殻の外側の縁が細く研がれている。灰色の腕に一本の刃が沿って伸びた。
棚の陰から残りの灰鼠が三匹跳び出した。
一匹目の首へ腕を振る。
手応えがほとんど無い。灰鼠は走る格好のまま二つに分かれ、床に落ちる前に光になった。
二匹目。三匹目。
腕を返すたびに空気だけが鳴る。刃の縁が配管の常夜灯を拾って、一瞬だけ光った。
最後の粒が殻に吸い込まれると、小門の中はまた静かになった。
腕を持ち上げて刃を眺める。
これはいい。
登録の停止が明けた朝、汐留町の外れに開いた小門で届出の一番を取った。
小門がどこにいつ開くかは、荷物を担いで湾岸を歩くうちに体のほうが先に覚えた。満潮の前なら倉庫の北側だ。高架の下なら、日の当たらない搬入口になる。
届出の端末に文字が出る。
「受付 一番」
それから四日、同じことを続けた。
初日は三周した。
二日目も三周。棚の裏の天井を逆さに走り、灰鼠の群れの頭の上を抜けた。
三日目も三周。跳びかかってきた一匹の上で、空中を一度だけ踏んで向きを変えた。灰鼠の牙がさっきまで俺のいた場所で空を噛む。
レベルは二日目に一つ、三日目に一つ上がった。
日課は周回のあいだに片づけた。四日目のぶんだけは走破十キロで、門の中では走れない。夜に回すことにした。
魔石は買取の窓口で、一周ぶんが二万から四万円になる。一日三周すれば、荷運びの日当一万八千円の三倍から六倍だ。財布の厚みが毎晩変わる。
紗夜の「それ、たまたま?」には、まだ答えていない。
四日目の昼、買取の列で前に並んだE級がこぼした。
「最近、小門がすぐ埋まるんだよな。朝イチで行っても、もう誰か入ってんの」
隣の男が「だよな」と気のない相槌を打つ。
埋めているのは、たぶん俺だ。
自販機の缶コーヒーのプルタブを起こして、黙って一口飲んだ。今日はまだ二周残っている。
◇
四日目の夕方、十二周目の門主が配管の下で崩れた。
光の粒が殻に流れ込むのを待って出口をくぐる。
外は倉庫の裏の路地だった。西日がトタンの壁に斜めに当たり、錆の色を濃くしている。遠くでフォークリフトのバック音が甲高く途切れながら続く。
出口の外の日陰で表示を開いた。
【殻装:灰殻】 Lv.4 → Lv.8
等級:―(測定不能)
第一殻 脱皮まで:Lv.10
筋力 8→14 / 敏捷 17→21 / 殻硬度 5 / 共鳴 3→10
未割振:0
殻圧:99 → 150
能力:[影走り Lv.3] [空返し Lv.2] [薄刃 Lv.1]NEW
常時:[殻読み]NEW
型:なし
日課:無被弾撃破 30(30/30)達成 ── 連続6日:共鳴+1
日課の行は昨日のぶんだ。今日の走破十キロは、まだ視界の隅に残っている。
保留しておいた四にレベル四つぶんの十二を足して、十六をここで振った。
四日、刃を使ってみて分かった。刃は腕の重さで入る。だから筋力に六、共鳴にも六を入れ、残りの四は一番使う敏捷に回した。
殻圧は九十九から百五十になった。
Eの帯の天井を越えた。数字の上では、もうDの帯にいる。
一番下に常時という見出しの行が足されている。殻読み、とある。
説明はどこにも出ない。殻ログはいつも名前だけを置いていく。
「……上がった」
声に出して表示を閉じた。
路地の奥から、殻装を着たままの男が一人歩いてくる。くすんだ黄土色の殻だ。俺と同じ、どこかの小門帰りのE級だろう。
すれ違いざま、その胸のあたりに数字が浮いた。
58
足が止まる。
男は気づかずに角を曲がっていった。数字も男と一緒に視界から外れる。
自分の胸に目を落としても何も浮かばない。代わりに、さっきの表示の数字が頭に残っている。俺は百五十だ。
あれは、たぶん――。
考えがまとまる前に、倉庫街の表のほうで金属がひしゃげる音がした。
鉄板を力ずくで折り曲げるような、長い悲鳴の音だ。続けて男の怒鳴り声が上がる。
「押し出しだ! D級のほう!」
門の中で押し負けたパーティを追って、魔物が口の外まで出てくる。現場ではそれを押し出しと呼ぶ。
路地を抜けて表の通りへ走った。
◇
倉庫と倉庫のあいだの空き地に、D級の小門が黒い口を開けている。
その手前の路上に鉄顎がいた。
軽トラックほどもある大蜥蜴だ。頭の半分が鋼の顎で、口を閉じると継ぎ目が鈍く光る。足元のアスファルトが爪の形にえぐれている。
顎の正面に盾が二枚並んでいた。
右で踏ん張っているのが権藤だ。左の盾は坂巻で、後ろで桜色の殻が槍を構えているのが真壁になる。
一週間前、汐留町の小門で俺を置いていった三人だ。
鉄顎が首を振るたびに、盾の列が半歩ずつ下がる。
「押せ! 下がるんじゃねえよ!」
「無理だって、権藤! 一回下がろうよ!」
真壁の声が裏返る。坂巻は何も言わず、盾の縁に肩を押しつけている。
盾の組み方は悪くない。二枚の角度もそろっている。それでも押される。相手が重すぎる。
権藤の目がこっちを向いた。
殻の面越しでも、見開いたのが分かった。それから肩が盾の縁でぐっと強張る。
「……灰塚かよ。お前のせいで協会に呼ばれたんだぞ、こっちは。E級は帰れ!」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ!」
怒鳴りながらも、盾は前を向いたままだ。そこは偉い。
視界に数字が二つ浮かんだ。権藤の胸と、鉄顎の喉の下だ。
190
230
目の端で、真壁と坂巻の胸にも百三十八と百十二がちらついて、すぐに消えた。
そこへ、さっきの表示の俺の百五十を並べる。
百九十は俺より上だ。
――で、それが何だ。
足を止めずに周りを見る。
フォークリフト。外階段。看板の鉄枠。
倉庫の前にはフォークリフトが停めっぱなしだ。その奥の壁には鉄の外階段が二階まで這い上がり、階段の上には錆びた看板が鉄枠ごと張り出している。枠の真下が、鉄顎の頭の通る位置だ。
鉄顎が一歩踏み込んだ。
左の盾が弾かれる。坂巻の体が横に流れ、アスファルトに膝をついた。
盾の列に穴が開いた。
鉄顎の頭が坂巻のほうを向く。
首を一度右に振った。
こいつは顎を開く前に、必ず首を右へ振る。荷物を担いで、列の後ろから何度も見た癖だ。
振ったのが見えた時には、俺の足はもう出ている。
フォークリフトの屋根を蹴る。
外階段の手すりに乗る。
細い鉄の棒が足の裏でたわんだ。
手すりの先から看板の鉄枠へ。
枠をつかんで体を引き上げる。
真下に、鋼の頭。
鉄顎の顎が開いた。
坂巻へ向かってまっすぐ伸びる。
顎の付け根に継ぎ目が見えた。鋼と肉のあいだの、指一本ぶんの隙間だ。
枠から手を離す。
落ちる。
右腕を振り抜いた。
薄刃が継ぎ目に吸い込まれる。
手応えは灰鼠のときより少しだけ重かった。
着地と同時に、背後で音が消えた。
振り向くと、鉄顎が坂巻の鼻先で止まっている。
開いたままの顎が付け根から静かにずれた。
大蜥蜴の巨体が端から光の粒になってこぼれていく。
粒は門の暗がりへ戻らず、俺の殻へだけ流れ込んだ。
誰も粒の行き先を見ていない。全員が顎のあった場所を見ている。
【経験値を取得しました +46】
通りが静かになった。
フォークリフトのバック音だけが、まだ遠くで鳴っている。
「……は?」
権藤の口からそれだけが出た。
盾を持つ腕が下がっていく。盾の縁がアスファルトに当たっても、権藤は気づいていない。
後ろで真壁が一歩下がった。
「嘘でしょ」
かすれて色の抜けた声だった。桜色の面の下で、たぶん顔が青い。
権藤が俺を見た。それから鉄顎のいた路面を見て、もう一度俺を見る。
「なんで、お前が」
「たまたまだ」
倉庫の軒下から、遠巻きの声が戻ってくる。押し出しだと叫んだ男たちだろう。
「おい、今の誰だ」
「灰色のやつだろ。荷運びの」
「荷運びが鉄顎の顎、落とすかよ」
「D級が三人がかりで押されてたやつだぞ」
荷運びで合ってる。
鉄顎がいた場所に魔石が一つ転がっている。D級の魔石だ。買取に出せば、小門一周ぶんの稼ぎより重い。
拾い上げて手の中で転がした。まだ少し温かい。
足元では坂巻が膝をついたまま、こっちを見上げていた。
あの日、あいつだけが振り向いた。新人を見て、出口を見て、もう一度新人を見てから走った。
坂巻の口が動く。
「……あの時は」
「いい」
坂巻の口が閉じた。
D級の小門はまだ黒い口を開けている。中にはたぶん門主が残っている。
俺の入る門じゃない。
背を向けて通りを歩き出した。
「……おい。門主、まだ中にいんだぞ」
権藤の声が背中に当たる。
「D級の門だろ」
振り向かずに返した。
◇
湾岸新都心の門域協会、澪浜支部に着いたのは、日が落ちきった頃だった。
一階のホールは夕方の買取の列がはけたあとで、床の掃除機の低い唸りだけが響いている。
壁際の届出端末の前に立って殻装を着た。
門の中の討伐は入門の届出の番号で通る。門の外で倒した魔物はそうはいかない。倒した者を殻紋で確かめて、魔石の買取もそれからだ。
画面に触れる。
「門外討伐届」
場所、時刻、魔物の種別と、欄を一つずつ埋めていく。
画面の端に過去の記録が一行だけ残っている。汐留町の小門、赤化ののち閉門。門主の討伐者の欄は空欄のままだ。
直していない。直す気もない。
「殻紋を読み取り部に当ててください」
あの日、胸の殻は一度割れた。通るかどうかは、当ててみるまで分からない。
胸を端末の読み取り部に当てた。
殻の表面に硬い板の冷たさが伝わる。小さな電子音が一つ鳴った。
「照合できません」
殻を離して、もう一度当てる。今度は少し強く押しつけた。
電子音が鳴り、画面の文字が一度消えてまた出る。
「照合できません」
窓口の奥にいた若い職員が、カウンターを回ってきた。俺の肩越しに画面を覗き込む。首がゆっくり横に傾いた。
「……故障、ではないですね。読み取りは、ちゃんとしてます」
視線が種別の欄で止まる。
「……鉄顎、ですか。D級の中ボスの」
「通りがかった」
職員が振り返るより早く、奥の扉が開いた。
ひっつめ髪で、袖に黒いアームカバーをしている。細い銀縁の眼鏡のレンズに、端末の青い画面が小さく映り込む。
真柴さんはまっすぐこっちへ歩いてきて、画面の文字を一度だけ見た。
「灰塚さん。殻紋を、確認させてください」
俺は自分の胸を見下ろした。
一週間前、裂角の角が割った胸だ。殻はとうに塞がり、継ぎ目の一本も残っていない。
その内側にあるはずのものを殻越しに探す。
割れたなら、割れ跡くらいは残る。
六年見てきた線が、一本も無かった。




