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第2話 取り消しの書式




「灰塚さん。取り消しの書式、初めて使います」


真柴さんはそう言って、カウンターに一枚の紙を置いた。


左上に「死亡報告(控)」。氏名の欄に、俺の名前。


細い銀縁の眼鏡の奥で、目は少しも動かない。黒いアームカバーの手が控えの両端をつまむ。


びり、と乾いた音がした。


紙が縦に二つになる。真柴さんはそれを重ねてもう一度裂き、四つにして、足元の箱に落とした。


顔は一ミリも変わらない。


門域(もんいき)協会、澪浜(みおはま)支部の登録課。昼の窓口は空いている。番号札の機械が誰もいない待合に向かって、ぽん、と一回だけ鳴った。


三日前の夜、俺は門から歩いて出た。


荷物の置き場所は、窓口の職員が指で教えてくれた。長机の脚の横。そこに五人分を下ろした。


権藤は一度振り向いたきり、あとは書類に向いたままだった。新人は毛布の中で、膝を抱えたままだった。


俺は空になった背中で、テントを出た。


それでも書類の上では、まだ死んでいる。生きている本人が窓口に立っても、取り消しの書式に判が押されるまで、死んだ人間は死んだままだ。


「こちらに記入をお願いします。上から順に」


新しい紙が滑ってくる。


氏名。登録番号。報告の日時。報告者。


ボールペンを借りて、欄を一つずつ埋める。報告者の欄だけは真柴さんが先に書いてくれた。字がまっすぐで、とめとはねが全部きちんとしている。


「次の欄です」


真柴さんの指が一行下を差す。


「生還の理由」。


ペン先が紙の上で浮いた。


裂角(さきづの)の角。胸の内側の割れる音。白く灯った線。吸い込まれた光の粒。


どれも、この欄の幅には入らない。


「簡潔にお願いします。一行で結構です」


「……たまたまだ」


真柴さんが黙ってこっちを見る。


「……です」


真柴さんは何も言わずに書類を自分の側へ引き寄せた。ペンを取る。欄に二文字。


「偶然」。


「偶然、で受理します。前例はありませんが、欄の字数には収まりますので」


付箋が一枚、書類の角に貼られる。黄色。


「それから、ご家族への通知は、報告が未確認の段階でしたので出ていません」


肩のどこかが勝手に緩んだ。


母は知らない。週に一度「無理しないで」と送ってくる人に、死亡の通知が行かずに済んだ。


「……そうか」


口の中でだけ言った。


「登録の停止は三日間でしたので、本日で明けます。明日から入門の届出ができます」


「はい」


「報告者の方には、虚偽の報告で厳重注意が出ています。それ以外の処分は別途です」


「汐留町の小門は、赤化ののち閉門。門主の討伐者の欄は、空欄です」


黙ってうなずいた。


あの角を落としたのが誰か、知っているのは俺の視界の隅だけでいい。


真柴さんは綴りを閉じ、判を一つ押して、書類の山の一番上に重ねた。


俺は頭を下げてカウンターを離れた。


自動ドアの手前で、後ろから平板な声がした。


「灰塚さん。次に書式を使うときは、事前にご連絡ください」


振り向くと、真柴さんはもう次の書類に目を落としている。


アームカバーの手だけが、さっきの付箋を指先で一度押さえ直した。


  ◇


夜九時を過ぎたベイサイドは、上から見ると光の箱が並んでいるだけに見える。


高層ビルのガラス壁が、湾の夜景と街の灯りを二重に映す。ビルとビルのあいだを空中歩廊が白く渡り、この時間の歩廊にもう人はいない。春の夜風が、潮の匂いをガラスの谷間に押し込んでくる。


【日課:壁面走行 1km(0/1000)】


日付が変わったところで出て、それからずっと視界の隅に残っている。


殻ログが日課を出す。そんな話は六年で一度も聞いたことがない。


一日目と二日目の日課は、走破十キロだった。門に入れないあいだ、湾岸の道をただ走った。二日とも走り切った。


今日は壁だ。


ビルの裏の植え込みの陰で、殻装(かくそう)を着る。


首の後ろから殻が閉じる。肩、胸、腕、脚、顔。


灰殻(はいがら)。


目の前のガラス壁に、自分が映った。


細い灰色の人型。継ぎ目の一本一本に白い線が走って、肩の丸みも膝の角も、線のぶんだけ鋭い。三日前まで鈍く濁っていた光が、いまは夜の中でくっきり白い。


街の灯りが殻の表面を滑っていく。


まずはガラスだ。


ガラスは乗りにくい。濡れていなくても足の裏が噛まない。最後尾から何度も見てきた。誰がどこで滑って、どこで手をついたか。


それでも、この殻で一度試しておきたかった。


一歩目。足の裏がガラスに吸いつく。


二歩目。


三歩目で、きゅ、と鳴った。


足が横に流れる。体がガラスの面を下へ滑る。手をついて、植え込みの縁に着地した。


ガラスはまだ駄目だ。


殻の膝についた土を払って、ガラスから離れた。


見上げる。


石張りの柱。外装パネルの目地。空中歩廊の裏。


ガラス壁の両脇に、石張りの太い柱が立っている。その上は金属の外装パネルで、パネルとパネルのあいだに細い目地が縦横に走る。薄い板の真ん中は、踏めば鳴る。


柱を蹴った。


石の目は足の裏によく噛む。二歩、三歩、四歩。柱の頭で外装パネルに乗り換える。


目地を踏む。次の目地。斜めに一つ飛ばして、その上の目地。


夜の中で、足音がしない。


風の音と、遠くの道路の低い唸りだけが耳に残る。殻の線が一歩ごとに白く脈を打つ。


一枚のパネルも鳴らさずに、屋上の縁の手前まで抜けた。


そのまま縁を越えず、横へ走る。


壁の上を走っているのに、脚に重さが来ない。息も上がらない。ただ次の一歩が出て、その次も出る。


C級の機動職でも、壁は十階ぶんも走れば一度は足が止まる。荷物を背負ったまま、下から何度も見上げた。


ビルの角を回ると、空中歩廊が真下に見えた。


二棟をつなぐ白い橋。下は六車線の道路で、信号の色が規則正しく入れ替わっている。


歩廊の屋根に飛び移り、端から体を落として裏へ回った。


天井。


足が離れない。


逆さのまま、一歩出る。二歩。殻の足の裏が、歩廊の裏の鉄骨に吸いついて剥がれない。


頭の下に、夜の街が逆さに広がった。


赤いテールランプの列が、天の川みたいに流れていく。その向こうに広場の街頭ビジョン。逆さの画面に瑠璃色が映る。六枚の羽。字幕が一行。


「正門(せいもん) 閉門」。


三日以内に、閉じます。


あいつは三日で正門を閉じた。俺は三日、湾岸を走っていた。


歩廊の裏を走り切る。向かいのビルの壁に足を移し、外装パネルの目地を拾って斜めに上がる。


その先に、もう一棟。


二棟のあいだは黒い谷だった。灯りが一つもなく、向こうの壁の位置が目でつかみにくい。この殻で谷を跳ぶのは、今夜が初めてだ。


跳んだ。


壁が来ない。


指の先から、向こうの壁がわずかに遠い。手を伸ばしても、外装パネルの縁が拳一つぶん足りない。


体が落ち始めた。


下に、もう一本の空中歩廊。白い縁がこっちから見て右へずれている。このまま落ちれば、縁の左を素通りする。


腰をひねった。


足の下に何もないのに、何かを踏んだ。


空中で、体の向きが一度だけ変わる。落ちる軌道が右へ折れて、白い縁が真下に滑り込んできた。


右手が縁をつかんだ。


がん、と鉄の手すりが鳴る。殻の指が手すりに食い込み、体が振り子みたいに一度揺れて止まった。


ぶら下がったまま、手の中を見る。


いまのは、空返しだ。


三日前に覚えて、一度も使っていなかった。ほんの一瞬、空中に足場が出た。そう感じた。


体を振り上げて、歩廊の縁に乗る。


縁の上で小さく跳んで、空中を踏む。足場が出て、体が一段浮いた。そこでもう一度踏む。今度は足が空を切って、縁に落ちた。


一度の跳躍に、一回だけらしい。


もう一度、向かいの壁へ。今度は低いところから目地を拾う。上へ、横へ、柱へ、パネルへ。


足が止まらない。


最後の柱を駆け上がった。


【日課:壁面走行 1km(1000/1000)達成】


視界の真ん中に一行。


柱の上で足を止めた。


湾から風が来る。殻の継ぎ目の白い線が、ビルの灯りと同じ高さで光っている。


壁を走って一キロ。足が止まらなかったのは、初めてだ。


  ◇


灰町(はいまち)のアパートに着いたのは、十一時を回った頃だった。


階段の下の自販機で、缶コーヒーを一本買う。小銭を入れる指が、まだ少しだけ壁の目地の感触を覚えている。


がこん、と缶が落ちた。


二階の角部屋。六畳一間に、敷きっぱなしの布団と折りたたみの机。窓の外に澪浜高架が黒く横たわり、貨物列車の長い音が遠くで切れずに続く。


机の前に座って、プルタブを起こす。


かしゅ。


甘くて、ぬるい。走ったあとの喉には、これくらいがちょうどいい。


一口飲んで、目を閉じた。もう一度開けると、視界の端に表示が出ている。


【殻装:灰殻】 Lv.4 筋力 8 / 敏捷 16→17 / 殻硬度 5 / 共鳴 3 未割振:4 殻圧:96 → 99 能力:[影走り Lv.2] [空返し Lv.1] 日課:壁面走行 1km(1000/1000)達成 ── 連続3日:敏捷+1


見慣れない行が、一番下に一つ増えている。


連続三日。敏捷に一つ。


影走りの横の数字が、一から二。


歩廊の裏で足が剥がれなかったのは、これだ。


殻圧(かくあつ)は九十六から九十九。殻装が出す力の総量で、協会の殻圧計でも測れる。E級の帯は三十から九十九。


九十九は、Eの帯の天井だ。


ほかの行は三日前と同じだった。


缶を机に置く。


「……上がった」


声に出すと、部屋が少し狭く聞こえた。


一だ。たった一。それでも、門に一度も入らずに増えた一だ。走っただけで、数字が動いた。


缶をもう一度持ち上げて、残りを半分飲む。


未割振の四は、そのままにしておく。


筋力に入れるか、殻硬度に入れるか。考えればいくらでも考えられる。けど、何に使うか分からないまま数字を動かすのは、行き先を決めずに荷物を詰めるのと同じだ。


使い道が分かるまで、置いておく。


母からは、いつもの「無理しないで」がまだ来ていない。来たら何て返すか、まだ決めていない。


  ◇


空き缶をゆすいで流しに置いたところで、机の上の携帯が震えた。


画面に名前が出ている。


「鷹宮紗夜」。


手が携帯の上で止まった。


震えは切れない。三回、四回。机の板が細かく鳴る。


五回目で、通話を押した。


「……生きてるなら、返事くらいしなさい」


挨拶も、名乗りもない。


耳の奥で、ほんの少しだけ風の音がした。外にいる。湾の近く。


「さっき出てきた。最初に見た協会の回覧に、迅の名前があった」


「会見は」


「抜けてきた。閉門の会見なんて、私がいなくても閉じたものは閉じてる」


正門の中に三日いた人間の声には、聞こえない。疲れが一つも乗っていない。乗っていないぶん、言葉が硬い。


耳から離して画面を見ると、未読が三件重なっている。全部、この名前だ。缶をゆすいでいるあいだに届いたらしい。


「……生きてる」


「知ってる。取り消しも出てた」


じゃあ、なんで掛けてきた。


とは、言わなかった。


窓の外を貨物列車が通り過ぎる。長い音が切れて、部屋が静かになる。


「たまたま、生きてた」


電話の向こうで、風の音が止まった。


一拍。


「それ、たまたま?」


答える前に、通話が切れた。

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