第1話 最後尾の夜
「国家級・鷹宮紗夜、正門に入ります」
落ち着いた低い声が澪浜ベイサイドの広場に降ってきた。
俺は荷物を背負ったまま、ビルの壁一面の街頭ビジョンを見上げた。
瑠璃色が映る。細い。最初にそう思う。
深い瑠璃色の装甲が人の体の線をそのまま削り出したように沿っている。継ぎ目という継ぎ目に青白い光が一本ずつ走る。顔を覆う面にも切れ長の線が二本。
殻装「蒼鷹」。
正門の黒い口の前で、肩から背にたたまれた薄板がひらいた。
六枚。
鷹の風切り羽の形をして夕方の光を透かす。一枚ずつ角度を変えて湾から吹く風を受け止める。
広場じゅうが同時に息を吸った。
「うわ、羽ひらいた」
「生で見たかったな……」
「あれでまだ二十三なんだって。国家級の最年少」
隣の高校生がスマホを頭の上に掲げる。画面の中の画面で六枚の羽がもう一度ひらく。
「行ってきます。三日以内に、閉じます」
中継の音声が短く拾った。丁寧で迷いのない声。
蒼鷹が一歩踏み出す。羽が背に沿って閉じ、その姿が黒い口に吸い込まれた。青白い線だけが一拍遅れて消える。
拍手が起きた。
俺は背中の荷物を背負い直した。
五人分の水と携帯食と、空の魔石袋。肩のベルトが、色の褪せたワークジャケットの擦り切れた所に食い込む。
十六の春、同じ日に覚醒した。あいつはS級で俺はE級。一緒に上へ行こうと言ったのはどっちが先だったか。
殻装の胸の内側には殻紋という刻みがある。等級はそれで決まって一生変わらない。開門二十二年、それを疑う奴はいない。
俺の殻紋は、E。登録して六年、ずっとE。
能力は影走りが一つきり。壁を三歩だけ走れて、四歩目で足が剥がれて落ちる。
「おい、灰塚」
振り向くと権藤が顎をしゃくった。日焼けした茶髪によく通る声。周りの何人かがこっちを見る。
「国家級なんか見て、E級が何になるんだよ。汐留の小門、日が落ちる前に入るぞ」
後ろでパーティの二人が笑った。一人はスマホをしまいながら、もう一人は気まずそうに目をそらしながら。
その横に見ない顔が一人。黒縁の眼鏡で、首から防水のメモ帳を下げている。登録して半年の新人だと集合のときに聞いた。
権藤が俺の荷物を拳で小突いた。
「E級は黙って荷物持ってろ」
返事はしなかった。する理由もない。日当一万八千円の荷運びは、荷物を持つのが仕事だ。
ビジョンの青白い光を背中に残して、俺は最後尾を歩き出した。
◇
汐留町の倉庫裏に小門は口を開けている。D級。日暮れの潮の匂いの中で、そこだけ空気が歪んで見える。
くぐる瞬間に殻装を着る。
首の後ろから薄い殻が肌に沿って閉じていく。肩、胸、腕、脚。最後に顔。
灰殻。
色は灰。継ぎ目に鈍い光の線。肩も胸も紙を何枚か重ねた程度の厚みしかない。前を行く三人の殻の半分もない。そのかわり軽い。
「灰塚、水。それと新人、俺の後ろから離れんなよ。D級でも小門は小門だ」
権藤が振り返らずに手だけ出す。ボトルを渡すと、ろくに見もせずに受け取った。
門の中は地下倉庫だった。
くるぶしまで水が溜まり、一歩ごとに冷たさが靴の底から染みてくる。錆と油と古い潮の匂い。配管が壁を這い、鉄の棚が奥まで並ぶ。天井には使われなくなった走行クレーンの梁が一本渡してある。
前に権藤たち三人。その後ろに新人。その後ろが俺。
最後尾。
ここからは全部が見える。誰がどこを踏むか。どの配管が鳴るか。どの棚が水で脚を腐らせているか。
棚の陰で水が鳴った。
四足の角持ちが一匹。肩の高さは人の腰ほど。額に短い角が一本。低く唸って右前脚をほんの少しだけ引いた。
「その魔物、右前脚を引いたら跳ぶ」
桜色の殻の前衛の女が振り返りもせずに鼻で笑う。
「荷物持ちが、なに解説してんの」
跳んだ。
右前脚が水を蹴り、角が前衛の肩に突っ込む。殻の表面が削れて火花が散った。前衛が水の中に尻もちをつく。
「痛った……ちょっと、権藤」
「分かってる、押さえろ」
権藤が横から殴りつけ、二人がかりで押さえ込む。三発目で角持ちはようやく沈んだ。光の粒がふわりと浮いて、倉庫の暗がりに溶けていく。
権藤がちらりとこっちを見た。何か言いかけて、舌打ちだけが返ってくる。
「最後尾から口出さないでよ。縁起悪い」
前衛は肩の削れ跡を指でなぞって、それきり俺の方は見なかった。それでいい。
最初に気づいたのは水の色だった。
足元がうっすら赤い。
錆ではない。壁の配管も棚の鉄も天井の梁も、同じ色に寄っていく。見ているあいだにも一段ずつ、門全体が熟れるように染まる。
赤化。
染まりきれば門の等級が跳ね、D級の小門でもB相当の門主が出る。この一年でやけに増えたと、荷運びの控室で聞かない日はない。
「……赤い。ねえ、赤いって」
前衛の声が裏返った。
奥の暗がりで何かが立ち上がる。
さっきの角持ちと同じ形。ただ大きさが倍ある。額の角は途中から二本に裂け、息をするたびに肋のあいだから赤い光が漏れる。
裂角。
角持ちが赤化して化けたやつを、湾岸の荷運びはそう呼ぶ。
権藤の喉が鳴った。
「撤退! 出口まで走れ」
三人が水を蹴った。前衛が真っ先に出口の光へ。
新人がついていこうとして、腐った棚の脚に足を取られた。水しぶき。立ち上がりかけてまた膝をつく。足首を押さえたまま動かない。
「小鳥遊、なにやって――」
権藤が怒鳴りかけて、門主の方を見て口を閉じた。
そのまま走った。
三人目が一度だけ振り向く。新人を見て、出口を見て、もう一度新人を見る。
それから前を向いて走った。
出口の光がさっきより細い。閉門まで二十分はない。
三人の背中が赤い水を跳ね上げて遠ざかる。
俺だけが逆を向いた。
◇
赤化が始まって五分。
荷物を下ろす。水の中に沈めて、そのまま走った。
新人まで十歩。脇に腕を差し込んで担ぎ上げる。軽い。いつもの荷物の方が重い。
背中で門主が水を割る音がした。
「あの、置いて――」
最後までは聞かない。
出口の光はもう人ひとり分の幅しかない。縁がじわじわと内へ寄ってくる。
あと三歩。
体をひねって新人を光の中へ投げた。
眼鏡が一度だけ光って細い体が外へ抜ける。
振り向いた。
角が目の前にあった。
ずん、と胸に来た。
裂けた角の片方が灰殻の胸板を貫く。紙のような殻はほとんど抵抗しなかった。角の先が胸の内側の殻紋を割る。
足が浮いた。
門主が首を振り上げ、俺は角に掛かったまま持ち上げられる。息が入らない。痛みは遅れてくる。
閉門まであと十二分。
死ぬ前に思うのがそれだった。
胸の内側で殻紋の刻みが割れていく。線が端から一本ずつ消える。ずっと見てきたEの形がなくなる。
【殻ログ 起動】
視界の真ん中にそれだけが浮かんだ。
灰殻の継ぎ目で鈍かった線が白く灯る。
胸から肩へ。肩から指先へ。灯った線が全身を一息に駆け抜けた。
門主が首を振る。角が抜けて、俺は赤い水の上を転がった。
胸の孔の縁で殻が動く。薄い殻が内側から寄り合って孔を塞いでいく。指を当てた。生身には浅い傷が一本あるだけだ。
立つ。
紙のように薄い灰色の殻はそのままだ。肩から指先まで、継ぎ目という継ぎ目を白い線が縁取っている。
見下ろした腕は細いまま、線の分だけ鋭い。
配管。棚の支柱。天井クレーンの梁。
門主が、右前脚を引いた。
俺はもう、左の壁にいた。
跳んだ角がさっきまで俺のいた水を割った。
影走り。
四歩目が、剥がれない。
五歩。六歩。
壁の上で足が止まらないのは初めてだった。
配管を蹴るたび殻の線が白く脈を打つ。壁から突き出た折れた鉄筋を、走りながら引き抜く。
息はまだ荒い。それなのに脚に重さが来ない。どこまで行っても次の一歩がちゃんと出る。
配管から棚の支柱の頭へ。
支柱から跳ぶ。
天井クレーンの梁に片手が掛かった。体を振り上げて梁の上に乗る。錆の粉が赤い水面に散っていく。
真下に門主の背中。
首の付け根に殻の継ぎ目がある。四足の角持ちはそこが薄い。
六年、後ろから何百回も見た。
最後尾は、もういい。
門主が頭を巡らせて俺を探す。
その前に落ちた。
鉄筋が継ぎ目に当たってギン、と弾かれる。手首が痺れた。
背中の殻の段差に膝を掛け、身をよじる門主に耐えて二度、三度。白いひびが走り、鉄筋の先が指一本ぶん沈む。
門主が壁へ体を叩きつけにいく。
その壁へ先に跳んだ。
影走りで駆け上がる。一歩、二歩、三歩。真下で巨体が壁にぶつかり、配管が鳴る。
壁を蹴って体を返した。
頭が下。鉄筋の先も下。落ちる勢いを全部乗せて、ひびの真ん中へ。
鉄筋が継ぎ目の奥まで通った。
その先で硬い何かが割れる手応え。門主の胸の奥の赤い光が内側から砕けて散る。
四本の脚が同時に折れた。
巨体が赤い水に沈む。俺は背中から飛び降りて水の中に立った。
波紋が一つ、広がって、消えた。
門主の体から光の粒が浮き上がる。
いつもなら粒は門の暗がりに溶けて消える。誰が倒しても、どこで倒しても。六年、数えきれないほどそれを見送ってきた。
今夜の粒は溶けなかった。
ゆっくりと渦を巻いてこっちへ流れてくる。灰殻の白い線に触れたそばから吸い込まれる。胸に、肩に、指先に。
一粒も残らなかった。
【経験値を取得しました +660】
【レベルが上がりました Lv.1→Lv.4】
【能力を取得しました:空返し】
口元が少しだけ緩む。
周りの赤が引いていく。水が元の色に戻り、出口の光がゆっくりと幅を取り戻す。
水の中から荷物を拾い上げて背負った。
出口へ歩くあいだに、視界の端で振り分けの欄がひらく。一番よく使う数字に五つ入れると、表示がまとめて書き換わった。
【殻装:灰殻】 Lv.4 等級:E(固定)→ ―― 第一殻 脱皮まで:Lv.10 筋力 8 / 敏捷 11→16 / 殻硬度 5 / 共鳴 3 未割振:4 能力:[影走り Lv.1] [空返し Lv.1]NEW 型:なし
等級の欄の矢印の先が横棒になっている。
脱皮。その二文字だけもう一度読んだ。
◇
門の口をくぐると夜だった。
倉庫裏に黄色いテープの封鎖線が張られている。協会の白いテントと仮設の照明。テープの外では野次馬がスマホを構えている。春の夜気が殻の継ぎ目にまだ少し冷たい。
背中で門の口が静かに縮み始める。
テントの下に臨時の窓口。長机の向こうに職員が一人、こちら側に権藤。門には背を向けている。
その少し後ろで、新人が毛布をかぶって座り込む。膝を抱えて眼鏡の奥の目を見開いたまま、まだ震えが止まらない。首のメモ帳だけが濡れずに光っていた。
「赤化です。D級の小門が、入って途中で」
権藤の声がいつもよりずっと小さい。
職員が書類から目を上げずに門主のことを聞く。
「B級並みのやつで……とても無理だった。撤退させたんだ、全員」
全員、と言ったところで権藤の喉が上下した。
前衛の女はテントの柱にもたれ、肩の削れ跡を見ている。三人目はうつむいたまま、靴の先で砂利をいじる。
「最後尾に荷運びが一人いて。そいつが、その……」
「お名前と状況を」
職員のペン先が用紙の一番下の欄に降りる。
「新人は自力で出た。灰塚は……死ん」
職員のペンが止まった。
その目が権藤の肩越しにこっちを見る。
権藤が振り向いた。
閉じていく門の口を背に、胸に割れ跡を残し、継ぎ目に白い線を走らせた灰色の殻が一つ。背中に五人分の荷物。
権藤の口は「ん」の形のまま、固まった。
テープの外のスマホが、一斉にこっちを向く。
前衛の女の背中がゆっくり柱から離れた。
「……え。生きてんの」
毛布の中で、新人が顔を上げた。
俺は、荷物を背負い直した。
「……荷物、どこに置けばいい」




