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第32話 蜘蛛の型




門主が動いた。長い脚の一本が糸を離れ、天井の網がぎしりと鳴る。赤い甲殻が、糸を張り直しながら縦坑へ降りてくる。脚を一本ずつ壁に突き立て、そのたびに新しい糸が白く引かれて天井と壁を結ぶ。降りるたびに、網は狭くなる。縦坑の空気が糸に締め上げられて、湿った音が壁を這った。


白峰が踏み込んだ。


白い長剣が、門主の前脚を横から薙ぐ。刃が赤い甲殻を滑り、継ぎ目に銀の線を引いた。だが、深くは入らない。甲殻が硬い。剣を振り切る前に、壁から伸びた糸が白峰の腕に絡んだ。白峰は刃を返して糸を断つ。断ったそばから、門主の脚が新しい糸を引いた。切っても、切っても網は元に戻る。


俺は壁の影を渡っていた。影走り。足裏が赤いコンクリートの上を滑る。縦坑の壁に落ちる影は、糸の網で細かく区切られて揺れている。まともに走れる影が少ない。俺は糸の間を縫って、門主の左後方へ回り込んだ。薄刃を前腕の縁に通す。狙うは脚の付け根。甲殻が重なる合わせ目の、細い隙間だ。


門主の脚が動いた。俺の頭上を横切る。太い脚の影が落ちる。俺はその影を踏んで跳んだ。空返し。空中で体を捻る。二度目の跳躍で、門主の腹の下へ。薄刃を振り抜く。前腕の縁が、脚の付け根を浅く裂いた。甲殻が硬い。刃が食い込まない。


白峰が叫んだ。


「下がって」


声が初めて鋭い。俺は腹の下を捨てた。壁を蹴る。糸が肩を掠めた。白い糸が俺の影を追うように伸びてくる。壁に張り直された網が、俺の左腕に絡んだ。薄刃で断つ。太い。二度斬る。その間に門主が壁を移動していた。赤い脚が縦坑を横切り、天井近くで止まる。


糸が、天井いっぱいに張り直される。


白峰が剣を収めた。収めた、というより、畳んだ。背の二枚の板が開く。狭い縦坑では振り切れないと、自分の剣で判断した。板が赤い光を弾いて、壁を蹴る。糸の隙間を滑るように、門主の正面へ出た。


俺は頭の中で数える。


残りは、もう十一分を切っている。律はまだ外でストップウォッチを握っている。数字は戻らない。糸は増えていく。門主はまだ、殻圧三千九百のまま動いている。


俺は背の継ぎ目を震わせた。鳴殻。低い音が縦坑を這い、糸の層に食われてほとんど返らない。返らぬまま音は散る。だが一点だけ、早く硬い返りがあった。門主の腹の下。糸に包まれていても、そこだけ芯が鳴る。


「腹は斬らない」


白峰が振り向いた。白い面の下で目が細くなる。


「……どうして」


俺は答えない。腹の芯を割れば、殻には何も残らない。狼の型を取った夜と同じだ。


白峰は少し黙った。糸が一本、天井で震える。


「……そう」


それ以上は聞かなかった。白い長剣が赤い光を弾く。俺は腹の下から目を離さず、脚の付け根へ影を渡した。


天井の糸を睨む。層を成した白い束が、門主の脚から放射状に張り、縦坑を覆っている。壁に刺さる留め糸は太い。俺は壁の影を踏み、一番外側の留め糸へ跳んだ。薄刃が白い束を断つ。一本。天井の網が、ぎ、と鳴って傾いた。門主の脚が一本、空を掻く。糸の張りが変わり、網全体が斜めに歪む。


二本目。壁から生えた太い束を、前腕の縁で裂く。ぶつりと音がして、天井の網が大きくたわんだ。門主が傾いだ網を伝って動く。長い脚が糸を掴み直し、次の瞬間、赤い甲殻がこちらへ飛びかかってきた。影が覆う。俺は足を蹴った。空返し。一度目の捻りで体が横を向く。門主の脚が肩の横を裂いて、糸が頬を掠めた。二度目。壁を蹴って縦坑の反対側へ。足裏が赤い壁を滑る。心臓が一度、強く鳴った。


三本目。天井に近い留め糸を狙う。壁の影を渡り、薄刃を振り抜く。白い束が千切れ、天井の網が大きく傾ぐ。門主の巨体が糸ごと揺れ、赤い光が網の上に影を落とした。門主の影だ。脚が八本、糸の上に黒く伸びる。だが網がまだ揺れている。影が定まらない。縫影は、揺れる影には打てない。


俺は壁に張りついたまま、息を整える。白峰が下で板を広げ、いつでも跳べるように構えている。


網が、まだ揺れている。


俺は前腕の縁から殻片を一枚はがして指の間に握った。墨色の欠片が赤い光を弾いて、指の腹に冷たい。壁の影に身を寄せ、首の後ろの継ぎ目に意識を落とす。換装。半秒だけ殻が柔らかくなる。線が白から琥珀へ移り、前腕のひれが牙の形に組み替わる。皮膚の下で何かが軋み、骨の芯が一度震えた。俺は息を殺して、その半秒をやり過ごした。


「網を止めてくれ」


白峰が振り向いた。白い面の下で、目が一度だけ細くなる。計算している。主核を残すつもりなのは、もう見えている。残りは十分を切った。盾の列を下ろしてもらった借りもある。白峰は短く息を吐いた。


「……一回だけね」


背の二枚の板が開く。白い板が赤い光を弾き、白峰が網の下へ滑り込んだ。両の腕を上げ、網を下から押し上げる。白い板がきしんだ。膝が一度、沈む。白い殻の肩が震え、足裏が浅い水を踏んだ。天井の糸が締まり、層が重なって止まる。揺れが消えた。


門主の影が、白い網の上で定まる。八本の脚が白い糸の上に黒く伸びて、もう揺れない。俺は指の間の殻片を確かめた。縫影を打つなら、今だ。


俺は殻片を門主の影へ叩き込んだ。縫影。


八本の脚が、白い網の上で止まる。〇・五秒。影が揺れていない。


壁を蹴る。影走り。網の上を駆け上がる。赤い甲殻が迫る。節——頭と胴の継ぎ目が、赤い光の下で白く光っている。換装は済んでいる。前腕のひれが、牙の形に開いた。


そのとき、止まっているはずの脚が一本、ぴくりと動いた。


脚が脇をかすめる。殻が削れて、赤い光が走った。


下で、白峰の板が大きくきしんだ。網が軋む。


〇・五秒が明ける。脚が本格的に動き出す。その寸前、俺は節へ腕を振り下ろした。


狼の型の狩り納め。牙のひれが継ぎ目に食い込み、節が断たれる。腹の芯には触れない。主核は残す。


門主の脚が一斉に力を失った。赤い甲殻が網からずり落ち、水音が縦坑の底から上がる。


俺は網の上に膝をつき、息を吐いた。


【経験値を取得しました +4,680】


【型を取得しました:蜘蛛の型】


門主の腹が、赤い闇の底で淡く光った。割られていない主核だ。光は糸の切れ端を透かし、墨色の殻の線へ吸い込まれていく。琥珀の線が一瞬だけ赤く染まり、それから元に戻る。核は、線に吸われた。


殻の奥に、まだ使い方の分からない重さが一つ増えた。網の下で白峰が、割られずに消えた主核のあった場所と、俺の殻の線を黙って見比べている。


背の二枚の板が、静かに畳まれた。


縦坑が低く鳴った。壁が震え、水が落ちる。出口だ。赤い闇が少しずつ狭くなっている。


俺は横管へ声を飛ばした。


「御堂、行くぞ」


白い重装の四人が、管の奥から出てくる。盾を揃え、足音が一定で。白峰が俺の横に並んだ。


「君、やっぱりおかしいよ」


声は柔らかかった。それだけ言って、白い殻が先に階段へ走る。


俺はその後を追った。赤い光が背を押す。


点検口の階段を上がる。赤い光が背中から剥がれ、外の空気が冷たい。白い重装が四人、続いて出てくる。盾の音がコンクリートに響いて止んだ。直後、後ろで門が閉じた。鉄蓋が噛み合う音が、地下へ落ちていく。


律がストップウォッチを止めた。眼鏡の奥の目が文字盤の上を這い、それから顔を上げる。


「残り、一分二十秒でした」


律が、もう一度だけ文字盤を見た。


「一分二十秒です」


眼鏡の奥の目が数字を追って細くなる。白い重装が並ぶ前で、御堂が盾を下ろした。足が一度、止まる。バイザーの奥から俺を見た。


「……部外者に、借りを作った」


それだけ言って、白鷺の隊列へ戻っていく。盾の縁を握る指に、力が入っていた。


大鳥が高架の柱から背を離した。煙草を咥えたまま、こちらへ歩いてくる。白髪混じりの角刈りが朝の光を半分だけ受けて、残りはまだ闇に溶けている。


「坊主」


それだけ言って、煙草を耳に掛けた。驚いた様子はない。用件はそれで終わりらしい。


真柴が端末を閉じて、前に出た。


「規程により、赤化後の報告を求めます」


平板な声だった。銀縁の眼鏡の奥で、目が俺の殻を一瞥してすぐに端末へ戻る。


「獅童さんには、私から報告しておきます」


俺は「ああ」とだけ答えた。


少し離れたところで、白峰が殻を畳んで立っていた。白い長剣はもう背に収まっている。御堂の班が後ろで整列し、盾を揃えている。白峰は俺の横へ来た。肩が触れるか触れないかの距離で、声を落とす。


「主核、白鷺の権利だったんだけど」


笑みはなかった。声は柔らかいまま、目だけがこちらを見ている。


「……その殻、何なの」

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