第31話 赤い放水路
夜明け前の澪浜はまだ闇の底に沈んでいた。地下放水路の点検口は、湾岸道路の高架下にある。重い鉄蓋。冷えたコンクリートの壁。協会が仮設で引いた照明が、白く細い光の柱を落として蓋の縁を照らしている。その光の外は、海の匂いだけが濃い。
俺と律は、点検口の三歩手前に立っていた。律は砂色の殻を閉じたまま、手帳を両手で抱えている。眼鏡の奥の目が、蓋の縁の数字を読んでいた。
「開門は六時です」
声は小さく、それきり黙った。
入札の結果は、夜のうちに律の端末へ届いていた。白鷺が取った。黒潮は札が足りなかった。大鳥からの連絡は、短かった。「取られた。明朝、現地で」——それだけだった。
大鳥は、高架の柱にもたれて立っていた。火のついていない煙草を咥えている。白髪混じりの角刈りが、照明の白を半分だけ受けて残りは闇に溶けている。しばらく黙って、それから煙草を咥えたまま俺を見た。
「坊主。悪いな」
一拍。
「札が足りなかった」
声は短い。それ以上でも以下でもない。黒潮の現場頭としての言葉だった。俺は頷いた。
「ああ」
闇の奥から、白い重装が揃って現れた。白鷺の隊だ。御堂の班が先頭で、四枚の盾を揃えている。足音が一定で、点検口の周りに整然と並んだ。白い殻が照明の光を受けて、継ぎ目の銀を細く引いている。
白峰が、その列の後ろから歩いてきた。白いロングコートは着ていない。殻はまだ閉じていない。細身の肩が、照明の白を弾いている。
俺の前を通りかかって、足を止めた。柔らかい声だった。
「先に押さえるって、言ったよね」
笑みはなかった。ただ、静かにそう言った。俺は白峰を見た。
「ああ」
白峰は一度だけ頷いて、点検口のほうへ歩いていった。御堂が盾を一段下げて、道を開ける。白い隊が点検口の蓋の前に並んだ。
協会の係員が、端末を片手に前に出た。
「六時。開門」
鉄蓋が、押し上げられた。錆びた蝶番が低く鳴って、蓋が斜めに開く。階段が下へ続いている。湿った冷気が、蓋の縁から溢れ出した。コンクリートの壁を伝って、水の匂いが上がってくる。
白峰が殻を閉じた。白い面が肩から腕へ滑り、背の二枚の板が翼のように折り畳まれる。御堂の班が、盾を揃えたまま階段へ足をかけた。
白い重装が、一人、また一人と闇へ降りていく。照明が段を一つずつ照らして、その先はすぐに黒い。白峰が最後に階段へ足をかけて、一度だけ振り返った。白い面の下の目が、こちらを見た。
何も言わなかった。
白い肩が闇に沈む。御堂の盾の最後の一枚が、照明の縁を滑って消えた。階段の下から、白い重装の足音が一定の間隔で響いてくる。段を降りるたびに、音が一つずつ遠くなる。
律が、ストップウォッチを両手で握り直した。眼鏡の奥の目が、点検口の闇を見つめている。
「降りました」
声は小さかった。
六時二十分ごろ、点検口の階段の奥の闇が下から赤く染まりはじめた。
最初は、照明の加減かと思った。白い光の柱が斜めに落ちる先、段の奥が薄く朱を帯びている。目を凝らすと、赤は揺れていた。水の底から灯りが昇ってくるように、じわじわと濃くなる。コンクリートの壁の継ぎ目——ひび割れの奥から、赤い光がにじみ出していた。壁が、内側から熱を持っているように見えた。
「赤化だ」
大鳥が低く言った。煙草を咥えたまま、目を細めている。
その瞬間、全員の端末が同時に鳴った。
律が手帳の上で指を止める。
画面に協会の通知が一段で浮いていた。
『澪浜地下放水路旧点検区画の門、赤化を確認。推定等級S。出口が閉じはじめています』
律の喉が、小さく鳴った。
協会の係員が点検口の前に柵を立てた。折り畳みの金属が、乾いた音を立てて開く。
「規程により、封鎖します」
声は事務的だった。端末を片手に、柵の留め具を確かめる。
「救助は、赤化後の等級以上の者に限ります」
澪浜にS級はいない。誰も、何も言わなかった。
大鳥が煙草を噛んだ。
俺の端末が鳴った。真柴だ。
「規程上、等級未定の方が赤化門に入るには、現場の国家級指揮者の許可が要ります」
平板な役所言葉だった。一拍。
「……獅童さんに、つながりました」
電話の向こうで雑音が一度だけ走った。それから、短い声がした。
「行け」
それだけだった。
「そうか」
俺は端末を切った。
律がストップウォッチを見下ろしていた。眼鏡の奥の目が、文字盤の上を這う。
「閉門まで、推定十八分です」
声は小さかったが、はっきりとしていた。
律が俺を見上げた。眼鏡の奥の目が、赤い闇と俺の顔の間で揺れている。
「灰塚さん、行くんですか」
俺は点検口の赤い闇を見たまま、短く答えた。
「白鷺が、まだ中だ」
柵の前の協会の係員が、自分の端末を見て俺に言った。
「……許可、出ています」
俺は首の後ろに指をかけた。殻が閉じる。墨色の面が肩と前腕を覆い、継ぎ目の白が赤く染まりはじめた闇を弾いた。
柵の切れ目へ歩く。俺は柵を跨いだ。
点検口の蓋の縁に手をかける。下から昇ってくる赤い光が、指の間を照らした。熱はない。ただ、赤い。
階段の一段目に、足をかけた。
俺は階段を下りはじめた。
階段の下は、三十五日目の暗渠の門に似た円筒の空洞だった。だが、あのときとは違う。縦にも横にも管が何層も重なっていて、壁も、底の浅い水も赤い。赤い光が管の内側を舐め、水面がその色を折り返して空洞全体がゆっくりと呼吸しているように見えた。空気は湿って重く、鉄と泥の匂いが混じっている。
俺は背の継ぎ目を震わせて殻を鳴らした。鳴殻。低い音が層を下り、壁に当たって返ってくる。反響が、段を追うようにいくつも戻る。だが上の層の一箇所だけ、返りが来ない。音がどこかに吸われている。壁でも水でもない、柔らかいものが反響を食っている。
足場を数える。管の縁。継ぎ目。排水管の口。影は浅い水の上に幾重にも落ちている。俺は管の縁へ跳び、影走りで横管へ向かった。赤い壁を蹴り、継ぎ目を渡り、細い管の口を潜る。水が滴り、影が足裏で揺れる。上へ上がるたびに、空気が少しずつ粘るようになる。
横管の中で、白い糸が網のように張っていた。
管の内壁いっぱいに糸が層を成して張り巡らされている。太い束も細い束も、白くぬめり赤い光を受けて血管のように浮かんでいた。網の奥に、白い重装が吊られている。逆さだ。盾の列が、糸に絡まれ一人、また一人と宙に浮いている。盾が糸の中でぶら下がり、わずかに揺れていた。甲殻の継ぎ目にまで糸が食い込んでいる。全員、動かない。
網の奥で、白い殻が一人で糸を斬っていた。
白峰だ。背の二枚の板は畳まれている。白い長剣が横管の狭い壁に刃を這わせ、白くぬめった束を一本ずつ断っていた。斬るたびに糸が震え、吊られた隊員の体がわずかに沈む。白峰は片腕で下から支え、もう片方の腕だけで剣を振る。長剣は大きく振れない。管の内壁に刃が当たり、銀の線が乾いた音を立てる。それでも剣先はぶれない。
一人を斬り終えると次の束へ手を伸ばす。速いが、確実に進んでいる。
俺は管の天井へ跳んだ。影走り。赤い壁の影が天井に落ちている。足裏が冷たいコンクリートの感触を伝えてくる。糸の網の上を、天井の影を渡って白峰の前に出る。前腕の縁を白く光らせ、薄刃で糸の束を一本ずつ断つ。太い束は二度斬る。吊られた盾の列を、一人ずつ管の底へ下ろす。盾が糸を引き裂きながら落ち、底の浅い水が跳ねた。
俺は最初に下ろした白鷺の隊員の横にしゃがんだ。兜のバイザーの内側が白く曇っては消える。息はある。胸の殻が浅く上下していた。俺は立ち上がり、次の糸の束へ戻る。
御堂が、最後に下りた。白い重装の肩が管の底で揺れる。兜のバイザーが俺を向いた。
「部外者は……」
言いかけて、黙った。糸がまだ肩に絡んでいる。俺はそれを薄刃で払った。御堂は一度だけ息を吐き、それ以上何も言わなかった。
白峰が剣を収めた。白い面の下の目が、俺をまっすぐ見ている。
「……来たの」
声が、いつもより柔らかい。
「君の等級で、入れる門じゃない」
赤い光が、白峰の白い殻を縁取っていた。糸が管の壁で、まだ微かに揺れている。
俺は前腕の縁から薄刃を引いた。
「決まってない」
白峰は、少し黙った。
白い面が赤い光を弾き、背の二枚の板が小さく音を立てて畳まれる。管の奥から、低い水音が一度だけ響いた。
律の「閉門まで」の声は、もう届かない。階段の上は赤い光と、遠い水音だけだ。俺は頭の中で残りを数える。十八分は、もう十三分を切っている。閉じはじめた出口の先で、律がストップウォッチを握っている。その指が止まる時刻を、俺は正確には知らない。
背の継ぎ目を震わせる。鳴殻。低い音が赤い管を縫って上へ昇り、壁に当たって返る。返る。返る。だが、さっき返りの来なかった一箇所だけ、音がまた吸われた。今度は近い。この横管の先、上へ抜ける縦坑の天井だ。
「上だ」
白峰が頷く。白い殻が赤い光の中で一度だけ銀を引いた。俺は管の縁を蹴り、影走りで縦坑の口へ渡る。白峰は板を広げず、床を滑るように続いてくる。縦坑の口に並んで、上を見上げた。
天井一面に、白い糸が何重にも張っていた。層を成して重なり、赤い光を浴びて血管のように浮いている。その中心に、門主がいる。赤い殻の脚の長い大きな甲殻だ。脚を八本ほど広げて糸の中心にぶら下がり、動かない。糸はその脚から天井へ向かって放射状に伸び、網全体を吊っている。さっきの返りは、この糸の層に食われていた。
俺は殻読みを一度だけ使った。視界が狭まり、胸の下に数字だけが浮く。
3,900
俺の殻圧は千二百四十だ。門主は三倍以上ある。差は二千六百六十。数字だけが頭に残る。
隣で白峰が天井を見上げたまま、丁寧な声で短く言った。
「……S級だね」
天井の糸が一本、震える。
門主の長い脚が一本だけ、ゆっくり動いた。




