第30話 鎖の主
暗がりで鎖が鳴った。十数本ではない。もっと多い。底の闇から一斉に錆びた音が這い上がって、競り場の空気が震えた。濡れたタイルの上を冷気が這う。生臭さの奥から獣の汗のような匂いが滲む。
門主が身を起こす。
闇の中で甲殻が動いた。人の三倍はある。背から無数の鎖が生えて、一本一本が太く、先端の鉤が赤黒く錆びている。鎖は乾いた音を立てて互いに擦れ、甲殻の継ぎ目から泥色の粘液が滲んでいた。その鎖が天井の鎖とつながっていた。身を起こすと背の鎖が引かれて、上の段の鎖が一斉に揺れた。鉤がぶつかり合う音が段を遡って降り注ぐ。上の段で白鷺の隊がどよめいたのが遠くに聞こえた。
白峰が動いた。
白い長剣を抜いている。いつ抜いたのか見えなかった。背の二枚の板が広がり、降り注ぐ鎖を翼で払うように跳ぶ。鉤が白い殻を掠めて銀の線が一度だけ光った。白峰は鎖の間を縫って門主の正面へ着地した。足音ひとつ立てていない。長剣の刃が青白い光を弾いて、門主の甲殻よりも白く光った。
俺は門主の胸の下を見た。
2,600
数字だけが浮いている。千二百四十とは千以上違う。殻圧が空気を押してくる。肌に重い。柳瀬よりずっと遠い。
(重いな)
俺は継ぎ目を震わせた。鳴殻。低い音が鎖の間を縫って下り、門主の甲殻に当たって返る。
返る音が遅れていた。
門主が身を起こすたびに、上の段から音が遅れて返ってくる。鎖が段の縁を薙いでいる。門主が動くと背の鎖が引っ張られて、上の段の鎖が全部動く。段を隔てた鎖の森が、門主ひとつの動きで一斉に蠢く。鎖の主だ。
(上も動く)
白峰が着地していた。白い長剣を構えたまま、一度だけ俺を見た。目は笑っていない。
「灰塚。上も動く」
「見えてる」
白峰が踏み込んだ。
白い長剣が甲殻の継ぎ目を裂く。乾いた音が競り場の底に響いて、泥色の粘液が裂け目から滲んだ。門主が吼える。声ではない。甲殻の内側から空気が押し出される空洞の唸りだった。背の鎖が一斉にしなる。鉤が白峰の肩を掠めた。白い殻が銀の線を引いて、背の薄板が鎖を払う。翼が開いて閉じる。一瞬のことだった。白峰はもう次の継ぎ目を斬っていた。長剣が甲殻の表面を滑り、継ぎ目に食い込む。粘液が飛ぶ。鎖の間を縫って、白い殻が一度も止まらない。
(速い)
俺は鎖の影に足を落とした。影走り。墨色の殻が鎖の影の上を滑る。錆びた鎖の影は細いが、足裏で質感が変わる。鉤が頭上を流れていく。門主の腹の下が見えていた。主核のある合わせ目。甲殻が二枚、重なって噛み合っている。そこだけ粘液の色が濃い。薄刃が前腕の縁で光る。俺は鎖の影を渡って回り込んだ。門主の動きが止まらない。腹の下まであと三歩。
門主が動いた。
二度目に大きく身を起こす。背の鎖が天井の鎖を引く。一斉に。上の段で何かが降ってきた。鎖と鉤の束が段の縁を薙ぎ払う。白鷺の隊の真上だ。御堂の班の四人が、盾の列を組んで降りてきている。鎖の束が真横に振られる。影が落ちる。あと一秒で薙ぐ。
(来る)
俺は腹の下を捨てた。足を蹴る。上へ。空返し。空中で体を捻る。一度目。向きが変わる。前腕の縁から殻片を二枚、はがす。白い線が一瞬だけ浮いて、墨色の欠片が指の間で光る。鎖の束が段の縁を薙ぎかける。影が落ちる。俺はその影に殻片を二枚、叩き込んだ。縫影。鎖の束が、ぴたりと止まった。〇・五秒。影が揺れていない。鉤が空中に固定されている。錆びた鎖が、一瞬だけ静止した。
御堂の班が動いた。白い重装の四人が、一斉に段の奥へ退く。盾が音を立てる。四つの背中が闇へ滑り込む。
〇・五秒が過ぎた。鎖の束が再び動き出す。薙いだ先にはもう誰もいない。鉤が空を切って、錆びた音が壁を這った。
俺は床に落ちた。膝を沈める。息が一度だけ荒い。
門主は、まだそこにいた。甲殻の継ぎ目から粘液が滴り、腹の下の合わせ目はまだ閉じたままだった。
その一瞬だった。
白い殻が床を滑った。影走りでも空返しでもない。ただ速かった。白峰が門主の腹の下にいた。
長剣が合わせ目に食い込む。泥色の粘液が刃を伝って飛ぶ。一撃。主核を断つ音は、鎖の擦れる音より重く、低く、競り場の底に落ちた。
門主が崩れる。甲殻が内側から折れ、背から生えた無数の鎖が一斉に力を失って垂れた。錆びた音が底から天井へ遡り、上の段の鎖がぱたりと止まる。蠢いていた鎖の森が、一度に死んだ。鉤がぶら下がったまま、もう一つも動かない。
静けさが底に降りた。天井の照明だけが白い。泥色の粘液が甲殻の裂け目からゆっくりと溢れて、濡れたタイルの上に広がっていく。獣の汗のような匂いが、まだ薄く残っていた。
(間に合ったか)
いや。間に合ったのは白峰だ。
白峰が長剣を収めた。いつ収めたのか見えなかった。背の二枚の板がゆっくりと畳まれ、銀の線に戻る。白い殻が闇の中で一度だけ光った。
俺の前に立った。白い面の下で、目は笑っていない。
「今のは、合理的じゃない」
声は柔らかかった。
「僕の隊なら、僕が守った」
俺は膝を上げた。息が一度だけ荒い。
「間に合わなかった」
白峰は少し黙った。死んだ鎖が一本、錆びた音を立てて揺れて、それきり止んだ。
「……一人で、どこまで行ける?」
俺は白峰を見た。白い肩が照明を弾いている。
「行けるところまでだ」
白峰はそれ以上何も言わなかった。笑みも引っ込めたまま、ただ一度だけ頷いた。
頭上で足音が降りてきた。白い重装が段の縁を降りる音が四つ。御堂だ。班の四人が、盾の列を組んだまま降りてくる。足音は一定で、速くもない。一段ずつ、確かめるように降りてくる。
御堂が最下段に降り立った。俺の横を通る。兜のバイザーの奥で目が一度だけこちらを見た。口が、開きかけて、閉じた。
礼は言わなかった。
だが、盾を一度だけ下ろした。白い重装の肩が、音を立てて一段下がった。
◇
門の外は、もう夕方だった。
旧魚市場の跡に、西の光が錆びたシャッターを斜めに照らしている。潮の匂いが夕風に混じって、建物の影から漂っていた。競り場の前に立つ人影は、皆長く影を引いている。
律が門の入り口に立ったまま、ストップウォッチを見下ろしていた。眼鏡の奥の目が一度だけ細くなる。指がボタンから離れて、文字盤の上を這った。
「四十一分十二秒です」
声は小さかった。だが、夕暮れの競り場の前に立つ全員の耳に届いた。
真柴が紙袋を抱え直して、何かを言いかけて止めた。大鳥が柱に寄ったまま、火のついていない煙草を咥え直す。
協会の係員が門の前に置いた機材を片手に、前に出た。
「規程第十九条により、主核と魔石の権利は白鷺に帰属します」
声は事務的だった。それだけ言って、係員は端末に何かを打ち込む。真柴の紙袋の縁を押さえた指が、一度だけ白くなった。
白鷺の撮影係がレンズを向けていた。白峰が門から出てくるところを、赤い灯が一度だけ点いた。白いロングコートはもう羽織っていない。殻を畳んだ肩が夕光を弾いて、細身の輪郭だけが暮れかけの空に浮いている。
白峰はカメラを見ない。ただ一度、係員のほうへ顎を引いた。御堂がその後ろに立って、兜のバイザーの奥からこちらを見ていた。
そのとき門の外にいる全員の端末が、同時に鳴った。
律が手帳から目を上げた。真柴が紙袋の上で指を組んだまま動かない。大鳥が煙草を耳に掛ける。御堂が白い重装のまま、腰の端末を見る。
画面に、協会の通知が一段で浮いていた。
『澪浜地下放水路の旧点検区画に、赤化の兆候。B級(赤化)門。開門は明朝の予測』
律の視線が揺れた。眼鏡の奥で目が二度瞬いて、それから俺の顔へ流れて、また端末へ戻った。手帳の鉛筆が、ページの上で一度だけ止まる。
白峰が端末の画面を見ていた。長い間。それから顔を上げて、俺を見た。笑みはなかった。
「次は、先に押さえるよ」
白峰が背を向けて、白鷺の隊のほうへ戻っていった。
大鳥が柱から背を離した。火のついていない煙草を耳から下ろす。
「坊主。取られたな」
「ああ」
「次は、うちの枠で入れてやる。協会に掛け合う」
それだけ言って、煙草を咥え直した。驚いた様子はない。用件だけだ。
律が手帳を見たまま、早口で続けた。
「地下放水路は、三十五日目の暗渠の門と同じ系統です。旧点検区画は、あの円筒の、さらに下です」
俺は端末の通知をもう一度だけ見た。澪浜地下放水路、旧点検区画。明朝開門。赤化。文字の羅列が、湿ったタイルの匂いと重なって指先に残る。
「放水路なら、知ってる」
そう言って、端末をポケットにしまった。




