第29話 同額
四十四日目の朝、目が覚めると同時に視界の端へ白い文字が滑った。
【日課:走破 10km】
(今日は短いな)
外はまだ薄暗い。俺は首の後ろで殻を閉じ、湾岸の遊歩道へ出た。海風がコンクリートの上を渡り、波の音が堤防の向こうで低く続いている。人影はない。墨色の殻が街灯の下を掠めるたび、継ぎ目の白が一瞬だけ浮かんだ。
走る。防波堤の影を踏み、水門の上を駆け抜け、倉庫街の裏手をぐるりと回る。影走りを使うのは二キロだけ。残りは自分の足で走る。息は切れない。心臓が一定の間隔で殻の内側を叩いている。
(明日で四十五日か)
三の倍数だ。次はまた一つ上がる。殻圧の数字は、まだ千二百四十のまま動かない。だが足は、確かに軽くなっていた。日課の積み重ねが、殻の内側に薄い層のように溜まっているのが分かる。
十キロを走り終え、アパートの前で止まった。空が白み始めている。シャワーを浴びてから、端末を確認した。律からのメッセージが一件。
「新しい正門の入札です。協会で」
送信時刻は、ちょうど俺が走り終えた頃だった。短い文面のあとに、場所と開始時刻だけが並んでいる。
「分かった」
短く返す。タオルで髪を拭きながら、壁の時計を見た。七時を少し回ったところだ。
(正門か)
昨日、東京の本部で仮登録を終えたばかりだ。まだ等級は「未定」。それでも正門の入札に呼ばれる。澪浜に新しい門が開いたらしい。
窓の外で、朝の海風がカーテンを一度だけ膨らませた。
◇
協会澪浜支部の一階、入札窓口の板の前には人が少なかった。
旧魚市場跡、B級正門。板に二枚の札が並んでいる。白鷺、黒潮。その横の数字が同じだった。
(同額)
大鳥が火のついていない煙草をくわえたまま、板を見ていた。白髪混じりの角刈り。日焼けした首筋が、動かない。
「坊主」
「ああ」
「同じだな」
それだけ言って、煙草を咥え直した。驚いた様子はない。電話が短い男だ。今も短い。
律が俺の三歩後ろにいる。手帳を開いたまま、板の数字を二度見ていた。眼鏡の奥で、目が細くなる。
廊下のほうから真柴が来た。紙を一枚持っている。足音は一定で、速くも遅くもない。
「規程第十九条」
板の前で止まり、紙を広げた。声は平板だった。
「同額の場合は、二隊の同時入門とします」
一拍。
「先に門主を討った隊に、主核と魔石の権利が帰属します」
読み終えて、紙を胸の高さで揃える。それから顔を上げた。
自動扉が開き、白いロングコートが光を滑らせて入ってきた。白峰だ。後ろに御堂が続く。足音が二人分、板の前で止まった。
白峰は板の数字を見て、薄く笑った。
「黒潮さんの上限は、旧港の札で分かっていたからね」
声は柔らかい。
「同じ門に、同じ時刻に入る。比べるなら、それが一番合理的だろう」
(読まれていたか)
「そうか」
白峰は少し笑った。それから、隣の御堂を一度見る。
「今日は、僕も入る」
御堂が、明らかに息を呑んだ。肩が小さく揺れ、顔が白峰へ向く。
「白峰さん、本気ですか」
声が硬い。いつもの重装備の男とは思えないほど、早口だった。
白峰は答えない。ただ笑みを薄く保ったまま、板の数字へ目を戻す。
律が三歩後ろで手帳を握り直した。真柴は紙を胸に抱えたまま微動だにしない。大鳥は火のついていない煙草を、ようやく耳に掛けた。
自動扉が閉まる。外の朝の光が、白峰の白いコートを一度だけ縁取った。
真柴が俺の登録証を胸の高さで掲げ、表裏を一度だけ確かめた。銀縁の眼鏡の奥の目が、印字された等級欄をなぞる。
「未定(特例)でも、名簿には載せられます」
声は平板だった。それから黒潮の名簿を開き、俺の名前を書き入れる。ペンの先が紙の上を走る音だけが、ロビーに小さく響いた。
大鳥は板を見たままだった。火のついていない煙草を耳に掛けた手が、一度だけ首の後ろを掻く。それから、ゆっくりと俺を見た。
「うちは坊主一人だ」
一拍。
「行ってこい、坊主」
声は短い。それ以上でも以下でもない。黒潮の現場頭としての言葉だった。
俺は名簿に書かれた自分の名前を一度だけ見た。墨色の文字が、白い紙の上でやけに静かだった。
「ああ」
それだけ答えた。
◇
一時間後、俺たちは澪浜の旧魚市場の跡にいた。
閉鎖された競り場の建物の奥、錆びたシャッターの向こうに門が開いている。青白い光が床の割れ目から漏れて、生乾きの潮の匂いを押し流していた。
建物の前には白鷺の隊が十二人、白い重装で並んでいる。その脇に中継の機材と撮影係。レンズが動くたび、小さな赤い灯が点く。
白峰がコートを脱いだ。畳んで御堂に渡し、首の後ろへ指をかける。殻が閉じ、白く細身の面が肩から腕へ滑った。継ぎ目の線は銀。背に長い薄板が二枚、鷺の翼のように折り畳まれている。
俺は一度だけ、白峰の胸の下を見た。
2,310
俺も首の後ろで殻を閉じた。墨色の面が肩と前腕を覆い、継ぎ目の白が青白い門の光を受けて浮く。
律が門の外に立っていた。ストップウォッチを両手で構え、眼鏡の奥の目を俺へ向ける。
「計ります」
真柴は入り口の脇で紙袋を抱えている。大鳥は競り場の柱にもたれて、火のついていない煙草を咥えていた。
協会の係員が、手を上げた。
「入門、同時。今」
律のストップウォッチが鳴った。
白峰が歩き出す。俺も足を踏み出した。白い殻の十二と、墨色の一人。青白い光が俺たちの影を一度だけ床へ落として、それから呑み込んだ。
門の中は、天井から無数の鎖と鉤が垂れていた。
長さも太さもばらばらで、先端の鉤が錆びて赤黒い。ぶら下がったまま微動だにしないのが、かえって異様だった。広い競り場がすり鉢のように何段も下へ続いている。床は濡れたタイルで、生臭い冷気が足元から立ち上っていた。
白鷺の隊が盾の列を作る。ロープと照明で、段を一つずつ確かめながら降り始めた。白い重装が段の縁を滑るように進む。物音を立てない。さすがに手慣れていた。
俺は少し離れて段の縁に立った。
背の継ぎ目を震わせる。殻が低く鳴った。鳴殻。反響が鎖の森を縫って下へ降り、壁に当たって戻ってくる。頭の中で、広い空間の形がざっと描かれた。
一段、二段、三段——いちばん下の段の奥で、音が一箇所だけ遅れて返った。
(あそこか)
他の反響より半拍ほど遅い。何か大きなものが、その遅れを作っている。鎖の陰で、動かずに。
白鷺の隊はまだ二段目を降りている。俺は段の縁から、下の闇を一度だけ見た。鉤が無数に垂れて、照明の届かない底が黒く口を開けている。
「灰塚」
白峰の声がした。盾の列の後ろに立って、こちらを見ている。
「下に何かいるね」
俺は振り向かずに答えた。
「ああ」
白峰は少し黙って、それから柔らかい声のまま言った。
「何か、は」
「まだ分からん」
俺は継ぎ目をもう一度だけ鳴らした。遅れて返る音は、動かなかった。
鎖の影を踏んで、俺は段を飛ばした。
足裏に鎖の冷たさが一瞬だけ触れて、次の瞬間にはもう二段下の空気の中にいる。鉤が頭上を流れていく。
途中で鉤爪の甲殻が鎖を伝って寄ってきた。人の膝ほどの大きさ。数は五体。動きは鈍いが、鎖の間を縫う速さだけはある。
一匹が跳ぶ。前腕の薄刃で受け、甲殻の継ぎ目を裂く。返しの踵で二匹目を鎖ごと蹴り落とした。三匹目は横から来たので、鎖を掴んで振り、四匹目にぶつける。五匹目は俺の真下、段の縁に張りついていた。落ちながら踵を当てる。甲殻が乾いた音を立てて割れた。
足が三段下のタイルに触れる。音は立てない。膝を沈めて、そのまま横へ滑る。
白鷺の盾の列がすぐ右を降りてくる。白い重装が段の縁を揃って進み、誰もこちらを見ていない。俺はその列の外側を、影を伝って追い越した。
御堂が振り向いた。
兜のバイザーの奥で目が見開かれる。口が開きかけて、声にならない息だけが漏れる。それから、ゆっくりと閉じた。
俺は足を止めない。下の闇へ、もう一段ぶん降りる。
段を飛ばすごとに、冷気が濃くなる。濡れたタイルの匂いが鼻の奥を刺した。
鉤爪の甲殻が、また鎖の陰から二体這い出てきた。動きは鈍い。相手にしない。壁に落ちる鎖の影へ跳び、そのまま横の段の縁へ渡る。甲殻が空を掴んで、錆びた鎖が鳴った。
(数は、増えているな)
追ってくる気配は、もう数えていない。
途中、頭上の吹き抜けを白い影が一度だけ横切った。速い。翼のような形が照明を弾いて、すぐ闇に溶ける。俺は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに目を戻した。照明の反射だろう。
足裏に段の縁が触れる。最下段の一つ手前。膝を沈めて止まる。息は上がっていない。
継ぎ目をもう一度だけ震わせる。鳴殻。低い音が鎖の森を縫って下り、底の闇で返る。今度は近い。
(すぐ下か)
遅れて返る音の主は、まだ動かなかった。動かないまま、そこにいる。俺は段の縁に手をかけて、底を覗いた。
俺がいちばん下の段に降りると、白い殻が先に立っていた。
白峰だ。背の二枚の板を広げ、隊を降ろす間に一人だけ中央の吹き抜けを滑空して、もう最下段にいた。白い板がゆっくりと畳まれ、背の銀の線に戻っていく。足音ひとつ立てていない。
(速いな)
白峰が振り返る。白い面の下で、目だけが笑っていた。
その奥の暗がりで、何かが動いた。
さっき鳴殻の反響が半拍遅れて返った場所だ。鎖が十数本、一度に揺れる。錆びた鉤がぶつかり合って、低い音が競り場の底を這った。濡れたタイルが、かすかに震える。空気が一段重くなって、生臭さの奥から別の匂いが滲む。獣の、汗のような。
俺は踵に力を入れた。薄刃が殻の縁で白く光る。
白峰は動じない。板を畳み終えて、白い肩をゆっくりと戻す。
「遅かったね、灰塚」




