第28話 当たらない数字
ガラスの内側で、壁の表示板が淡く光った。
柳瀬の殻圧が左に、俺の殻圧が右に並んでいる。
1,880
1,240
その数字を、堂島がスピーカー越しに読み上げた。声は地下の空気を一度震わせて、ゆっくりと壁に吸われていく。
「千二百四十。A級の下の方ですね」
一拍。
「有効打一本、または三分。殻能力の使用は自由です」
律が、ガラスの向こうでストップウォッチを構えた。指がボタンにかかる。眼鏡の奥の目が、俺と柳瀬の間の距離を測っていた。十三メートル。白い床に影はほとんど落ちていない。天井の照明が均等に降りていて、壁も床も同じ白さに沈んでいた。
(影が薄い)
俺は息を吐く。短く。それから膝を落とした。
柳瀬は動かない。銀灰色の殻が照明を弾いて、肩から腕へ細く滑っている。足音すら立てず、重心をほんの数ミリ沈めた。構えは最小限。力むところがない。
堂島の声が、もう一度だけ流れた。
「始めてください」
律のストップウォッチが、カチリと鳴った。
空気が冷えた。
俺は右に半歩ずれた。柳瀬の視線が動く。追う。だが追い切らない。
(速い)
柳瀬が消えた。いや、踏み込んだ。銀灰色の殻が白い壁と同化するように滑り、気づいたときには間合いの内側にいた。
俺は首を捻る。拳が頬の横を通り抜け、空気が裂ける音が耳のすぐ横で鳴った。前髪が数本揺れる。
「——っ」
柳瀬は止まらない。返しの手が腹を狙う。俺は左足を軸に半回転してかわす。風だけが脇を抜けた。冷たい。
速い。重い。そして正確だ。鬼頭の何倍も。
(殻圧が違う)
それでも、俺は見えている。柳瀬の肩が動くより先に、体重の移り先が見える。踏み込みの角度。引き手の位置。視線の先。
三連撃を紙一重でかわす。床に落ちる俺の影が薄い。照明が真上から照らすから、足元に輪郭すら残らない。
(この場では縫影は使えないな)
柳瀬が、一瞬だけ構えを解いた。柳瀬が、白い光を滑らせながら言う。
「……速い」
それは褒め言葉ではなかった。計測だった。
俺は答えない。呼吸を整えて、もう一度だけ距離を取った。
ガラスの向こうで、律のストップウォッチが小さく鳴る。
残り二分十秒。
堂島がスピーカーに手を置いた。声が流れる。
「当たりませんね。千二百四十は、逃げの数字ですか」
空気が一段、重くなった。
柳瀬が、また踏み込んでくる。
最初の一歩は必ず左足だ。荷運びの六年、A級の隊の後ろで何百回も見てきた。本部の教本どおりの型。左足で入って、二手目が下、三手目が必ず右から来る。
(見たことがある)
銀灰色の殻が白い床を滑る。俺は半歩だけ引いて、二手目を背中でかわす。風が殻の上を走った。
柳瀬の重心が、沈む。跳ぶ。
上から薙いでくる。銀の弧が天井の照明を裂いて、白い光が散った。
俺は床を蹴る。空返し。空中で体を捻り、柳瀬の薙ぎの外側へ抜ける。もう一度、蹴る。今度は後ろへ。二回まで。これで終わりだ。
柳瀬の薙ぎが空を切る。耳の横で、空気が裂ける音だけが残った。俺は床に落ちる。膝を落として、音もなく。
「……っ」
柳瀬の着地が、一拍遅れた。銀の殻が床を擦る。振り向く。その目が、初めて俺の位置を追い切れていなかった。
俺は息を吐く。短く。
ガラスの向こうで律のストップウォッチが鳴った。残り一分四十秒。柳瀬の攻撃は、まだ一度も当たっていない。
柳瀬の左足が沈む。俺は待たない。踏み込みの半歩前、体重がまだ右に残っているうちに床を蹴った。
(三手目は来ない)
背中側へ回る。銀灰色の殻が視界の端を流れた。柳瀬の右が空を裂く音が、俺のいた場所で鳴る。遅い。いや、俺が先に動いた。
前腕の殻の縁が、薄く光る。薄刃。白い線が刃になった。柳瀬の首の後ろ、殻の閉じる継ぎ目にそっと当てる。斬らない。当てただけだ。
柳瀬の動きが止まった。銀の殻が、ぴたりと止まる。振り向かない。振り向けば刃が入る。それが分かっている者の止まり方だった。
測定場が静かになった。天井の照明の低い唸りだけが残る。白い床に、二人分の影がうっすらと落ちていた。
ガラスの向こうで、ストップウォッチの音が一つ鳴って、それきり止んだ。
俺は刃を引く。半歩、下がる。柳瀬はまだ動かない。肩の銀が、一度だけ小さく上下した。
「……当たりました」
柳瀬が言った。声は事務的で、悔しさのかけらもなかった。ただ事実だけを置いていく。
俺は腕を下ろした。
「ああ」
柳瀬が、銀灰色の殻を首の後ろで畳んだ。肩と腕を覆っていた面がするすると戻っていく。彼女はガラスのほうへ体ごと向き直った。背筋が伸びている。足音が、白い床に一度だけ冷たく落ちた。
「一度も触れていません」
声は事務的だった。数字をそのまま口にしただけの、抑揚のない報告だった。
ガラスの内側で律が手元を見て、小さく読んだ。
「一分三十一秒。……一分、三十一秒です」
その声がスピーカーを通さず、ガラスの向こうで乾いた音のように残る。律は手帳を閉じない。開いたままのページに、細い鉛筆の先が軽く触れていた。
鬼頭が、腕を組んだまま小さく息を吐いた。スーツの肩が一度だけ下がる。自分が十二日目に一度も触れられなかった相手が、今度は本部のA級を同じ目に遭わせている。その意味を、鬼頭だけが誰よりも正確に受け取っているようだった。彼は何も言わない。ただ前を向いたまま、唇を一文字に結んでいる。
真柴は微動だにしない。紙袋を足元に置き、指を軽く組んだまま表示板の数字を見ていた。表情は読めない。けれど、紙袋の縁を押さえた指先がほんの少し白い。
獅童は腕を組んだまま目を閉じている。着物の上に羽織ったコートの裾が、冷えた地下の空気の中でも動かない。寝ているのかと思うほど、呼吸の気配すら薄い。だが閉じた瞼の奥が一度だけ、わずかに持ち上がったように見えた。
堂島だけが、表示板を見たまま黙っている。
左の数字は千八百八十。右は千二百四十。小さい方の数字を、彼はじっと見ていた。細い目が、さらに細くなる。唇の端は動かない。
測定場に天井の照明の低い唸りだけが流れていた。誰も、まだ口を開かない。
俺は墨色の殻を畳み、手のひらを一度だけ開いて閉じた。
測定場の空気が、また一段冷えた。
堂島はガラスの内側で腕を組み、細い目だけを俺に向けていた。ややあって、傍らに控えた係員へ顎を引く。
係員が白い台車を押して入ってきた。台の上に据えられた殻紋計は、本部の新しい型だ。銀色の箱型で、側面に小さな青い表示灯が並んでいる。
「胸を」
堂島の声がスピーカー越しに流れる。
俺は畳んでいた殻をもう一度だけ閉じた。首の後ろで面が開き、肩と前腕を覆う。継ぎ目の白が、白い壁の中に溶ける。
係員が読み取り部を胸へ当てた。表示灯が青から白へ変わり、数秒の沈黙。
画面に、文字が浮いた。
測定不能
係員が一度だけ眉を寄せ、読み取り部を当て直す。表示灯がもう一度白く光って、止まる。
測定不能
三度目も同じだった。係員は何も言わず、顔だけをガラスへ向けた。
堂島はしばらく黙っていた。表示板の数字を見るでもなく、白い床を見るでもなく、ただ俺の胸元あたりをじっと見ている。空調の音だけが、地下の静けさをなぞっていた。
「……機材の不具合では、ありませんね」
声は低く、ゆっくりと落ちた。
律が、ガラスの向こうで手帳を胸に抱き直した。鬼頭が腕を組んだまま、深く息を吐く。真柴は紙袋の縁を押さえたまま動かない。
俺は殻を畳んだ。
◇
十階の審査室に戻ると、空気は一段冷えていた。窓のない壁が、四人分の足音を静かに吸い込む。
議長が口を開いた。声は朝より低く、ゆっくりと部屋に落ちる。
「等級未定者特例規程(案)第三条を適用し、灰塚迅を等級未定者として仮登録する」
一拍。
「仮等級は付けない。本審査は後日、改めて通知する」
堂島は、机の上で指を組んだまま何も言わなかった。ただ細い目だけが、俺の胸元の手書きの札を一度捉えて、それから手元の書類へ戻る。
「本部でも記録を取ります」
それだけ言った。反対ではなかった。同意でもなかった。数字の話だけを、もう一度始めるための宣言だった。
律が隣で、小さく息を吐いた。手帳を胸に抱いたまま、肩の力が抜けている。真柴は紙袋を膝の上に置き直し、鬼頭はスーツの襟を直した。
獅童は壁際の椅子から立ち上がった。着物の裾が音もなく床を離れる。誰にも目を向けず、腕を組んだまま扉へ向かう。委員の一人が何か言いかけて、やめた。
扉が開いて、閉まった。獅童の足音は廊下に一度も響かなかった。
一階の受付で、俺は首から下げていた仮入館証を外し、カウンターに置いた。手書きの札が、白い天板の上でやけに軽く見える。係の男がそれを受け取り、端末を操作する。数秒ののち、カードが一枚、音もなく出てきた。等級の欄に「未定(特例)」と印字された登録証だった。
真柴が、そのカードを受け取る。指先で表裏を一度だけ確かめてから、俺に差し出した。
「やっとですね」
声は平板で、いつもと変わらない。それでも、紙袋を抱え直す指が一瞬だけ白くなった。
俺はカードを受け取る。
「ああ」
律が隣で、手帳を胸に抱えたまま真柴の顔を見た。眼鏡の奥の目が、二度、瞬きをする。それから小さく息を吐いて、前を向いた。
鬼頭も、真柴の横顔を一度だけ見た。スーツの襟を直して、何か言いかけた口をそのまま結ぶ。
【等級:―(測定不能)】
カードを胸ポケットにしまう。指先に硬い縁が一度だけ当たった。
(……未定、か)
どちらでもなかった。物差しは、まだ置かれたままだ。
四人で玄関を出る。外の光が白い。歩道の向こうに、白いロングコートが立っていた。白峰だ。その後ろに御堂がいる。白い重装は畳んでいて、背筋だけが硬い。
白峰が、こちらへ歩み寄る。笑みは薄い。柔らかい物腰のまま、目だけが俺の胸元で一度止まった。
「おめでとう、灰塚」
「次の門は、白鷺が取りに行く」
声は穏やかだった。だがその下に鉄の芯が通っている。御堂が、わずかに顎を引いた。
俺は白峰を見た。白いコートの肩が、午後の光を滑らせている。
「そうか」
それだけ言った。




