第27話 東京の物差し
四十三日目の朝、目が覚めたのは壁の時計が六時を指す少し前だった。
天井の染みを数えるより先に、視界の端で白い文字が滑った。
【日課:壁面走行 3km】
(今日はそれか)
布団を剥いで立ち上がる。昨日で連続四十二日。三日の倍数だったので敏捷が一つ上がった。四十五から四十六。数字を確かめて、俺は靴を履いた。
首の後ろで殻が閉じる。壁面走行三キロ。アパートの外壁を伝い、隣のビルの非常階段を這い裏の倉庫のシャッターを逆さに走る。朝の六時、誰も見ていない。墨色の殻が壁に張りつくたび、継ぎ目の白が薄く光った。二十分で終えた。息は上がらない。
シャワーを浴びて、鞄に着替えを詰めた。東京は日帰りだ。泊まる予定はない。
澪浜駅のホームは朝の七時過ぎで、人はまばらだった。海風が線路の上を渡って、ホームの屋根を鳴らしている。電光掲示板が東京行きの各駅停車の到着を告げていた。
改札のほうから律が来た。手帳と紙の束を抱えている。紙の束は端が折れていて、付箋が何枚も覗いていた。
「おはようございます」
「おう」
律は俺の顔を一瞥して、それから紙の束を抱え直した。目の下に薄い隈があった。昨夜も寝ていないらしい。
続いて真柴が来た。紺のスーツだった。両手に紙袋を二つ提げている。片方の底が膨らんでいて、中で書類が斜めに傾いていた。
「灰塚さん」
「ああ」
「記録簿です。支部の六年分、全部持ってきました」
紙袋を一つ掲げて見せた。重さで底が心なしか下がっている。
「重いな」
「重いです」
真柴はそれだけ言って、紙袋を胸の前に抱え直した。スーツの袖口が少しめくれていた。
鬼頭は発車の三分前に来た。いつものジャージではなく、濃い灰のスーツ。大柄な肩が上着の縫い目を押し上げていて、腕を上げるたびに布が軋みそうだった。
「鬼頭さん」
「ああ」
鬼頭はネクタイを緩めながら俺の鞄を一度見て、それから律の紙の束を見た。
「荷物はそれだけか」
「ああ」
「そうか」
電車が来た。ドアが開いて、朝の空気がホームへ流れ込む。四人で乗り込んだ。車内は静かで、座席は半分も埋まっていない。俺は窓際に座った。律が隣に座り、紙の束を膝に置く。真柴は向かいの席で紙袋を二つ、自分の膝の上に揃えて置いた。鬼頭は扉のそばに立ったまま、吊り革を掴んでいる。スーツの背中が窮屈そうに突っ張っていた。
誰も喋らない。電車が動き出すと、窓の外で澪浜の街がゆっくりと後ろへ流れていった。海が一瞬光って、ビルの間に消えた。
律が手帳を開いた。ページをめくる音が、車内の低い走行音に混じる。真柴は紙袋の上で指を組んで、じっと座っていた。鬼頭は吊り革を握ったまま、窓の外を見ている。
俺は窓に映った自分の顔を見た。墨色の殻はもう畳んである。ただの二十三歳の男が、ガラスの中にぼんやりと座っていた。
(東京か)
口には出さなかった。
律が窓の外を見て、小さく読んだ。
「次の駅まで、四・二キロです」
誰も応えなかった。電車の走行音が低く続いている。
しばらくして、吊り革を握ったままの鬼頭が俺を見下ろした。スーツの肩が窮屈そうに突っ張っている。
「……緊張してるか」
「いや」
鬼頭は窓の外へ目を戻さずに言った。
「俺はしてる」
真柴は紙袋から目を上げなかった。膝の上で指を組んだまま、少しだけ顎を引いた。
電車が東京に着いた。四人で駅を出る。人の多さに、律が半歩だけ俺の後ろへ下がった。真柴は紙袋を胸に抱き直し、鬼頭はネクタイを締め直した。
協会本部のビルは古かった。十二階建ての灰色の壁に、窓が等間隔で並んでいる。角の石が欠けて、継ぎ目に黒い筋が走っていた。
律が手帳の端に数字を書いた。それから顔を上げた。
「着きました」
「ああ」
俺は短く返した。
一階の受付は、天井が高くてがらんとしていた。受付のカウンターが三つ、奥にエレベーターの並びが見える。白い床に足音がやけに響く。
真柴が書類を出した。係の男が端末を操作し、真柴の入館証を作った。律の分もすぐ出た。鬼頭の分も出た。それから俺の名前を打ち込んで、手が止まった。
「等級の欄が空欄です」
係が言った。真柴が紙袋から一枚の紙を出して差し出した。
「特例審査の対象者です」
係は紙を受け取って読み、もう一人を呼んだ。二人目が端末をのぞき込んだ。三人目も来た。三人で画面を見て、小声で何か言い合っている。端末の光が三人の顔を下から照らしていた。
結局、係はカウンターの下から紙の札と油性ペンを取り出した。札に手書きで書いて、それを首から下げる紐に通した。
「仮の入館証です。本日限り有効です」
受け取って胸に下げた。札に手書きで「等級:――」と書いてある。――の二本の線が、やけに丁寧に引かれていた。
「様式の不備です」
真柴が横で言った。声は平板で、謝罪の色はなかった。
隣で律が肩を揺らしていた。笑いをこらえて俯いている。眼鏡の奥で目が細かく震えていた。
俺は札を一度見下ろした。それから顔を上げた。
「そうか」
エレベーターに四人で乗った。扉が閉まる。律がまだ肩を揺らしている。鬼頭がボタンを押した。十階の数字が光る。
「笑うな」
「笑ってません」
律はそう言って、また肩を揺らした。
十階の審査室は天井が低く、空気が一枚重い幕でも垂れているようだった。
長い楕円の机が部屋の中央に据えられ、窓のない壁が三方を囲んでいる。正面に議長席。初老の男が背筋を伸ばして座っていた。白い髪を短く刈り、濃い紺の背広の襟元が一分の乱れもない。その右に、恰幅のいい男が一人。五十代。頬の肉が厚く、目だけが細く鋭い。机の名札に、測定局長、堂島とある。堂島の両脇に、委員が三人。皆こちらの胸元の仮入館証へ一瞬だけ目を落とした。
壁際の椅子に、獅童がいた。
着物の上に協会のコートを羽織り、腕を組んで座っている。白髪の短髪。無精髭。目は伏せたままだったが、俺が入ると一度だけ上げた。それだけだった。
俺たち四人は机の手前の席に着く。律は俺の隣で、紙の束を膝の上に置いた。真柴は二つの紙袋を足元に下ろし、鬼頭はスーツの襟を直してから座った。椅子の脚が床を擦る音だけが、しんと響く。
議長が口を開いた。声は静かだが、部屋の隅まで届く。
「これより、等級未定者の特例審査を始めます」
一拍、誰も動かない。
「対象者は灰塚迅。本日は、澪浜支部の登録記録と現場証言に基づき、等級の仮認定の可否を判断します」
堂島が、机の上で指を組んだ。指が太く、白い。目が俺の胸元の札を一度見て、それから顔へ戻る。何も言わない。ただ、物差しを当てるように見ている。
律が、隣で小さく息を吸った。
堂島は手元の書類を読み上げた。声は丁寧で、よく通る。
「灰塚迅さん。覚醒は七年前、E級。荷運びとして六年。殻紋の照合はできず——」
頁をめくる音が、静かな部屋にやけに響く。
「中継の映像についてですが」堂島は顔を上げた。「門主は鷹宮さんが削り終えていた。最後の一撃だけを当てた、とも見えます」
委員の一人が頷いた。
「光の粒が吸い込まれるという場面は、中継機材の反射でしょう。あの機材は旧型です。私どもも何度か——」
堂島はそこで言葉を切り俺を見た。
「灰塚さん。ご本人のお考えは」
「見たままです」
俺はそれだけ言った。
堂島は小さく笑った。腹の底からではない。唇の端だけで作った音だった。
「見たまま、ですか」
書類をめくる。紙の縁が指の間で白く光った。
隣で律が息を止めている。手帳の上で鉛筆が動かない。真柴は紙袋の上で指を組んだまま、微動だにしない。鬼頭が椅子の脚を一度だけ鳴らした。
堂島は次の頁をめくった。
「では、数字の話をしましょう」
顔を上げる。
「私は数字しか信じません。灰塚さんの六年分の記録と、あの夜の映像の数字が同じ物差しで並ぶかどうか——」
その声は、まだ丁寧だった。
堂島の指が、書類の端を整える。紙の音だけが、しんと響く。
真柴が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音も、やけに遠く聞こえる。紺のスーツの袖を一度引き、紙袋から厚い紙の束を取り出した。
「等級未定者特例規程(案)です」
声は平板だった。波ひとつない。
「第三条。等級のない者について、現場の国家級指揮者が入域を許可し、かつ門主の討伐に寄与した事実が確認できた場合、協会本部は仮等級の審査を行う」
一息。
「第九条。審査は、当該者の登録記録、現場証言、および測定記録を総合して行う。数値は、測定局の定める様式に拠る」
もう一息。
「第十二条。審査の結果は、協会本部が通知する。異議の申し立ては、通知の日から起算して十日以内とする」
真柴は読み終えると紙袋から記録簿を一冊ずつ取り出した。表紙の角が擦れて白くなっている。それを机の上に、五冊、積む。
「灰塚さんの記録簿、五冊目です」
堂島は、積まれた五冊を一瞥した。手を伸ばさない。指先で、一番上の表紙を軽く叩くように二度触れただけだった。
「支部の熱意は分かりました」
それだけ言って堂島は記録簿を脇へ押しやった。五冊が少し傾いて、机の端で止まる。
律が隣で、手帳を握る指に力を込めた。鉛筆の先が、ページの上で一度だけ震える。
次に鬼頭が立った。スーツの肩が軋み、椅子が後ろへ引ける。彼はネクタイの結び目を直して、まっすぐ堂島を見た。
「規定どおり記録しました」
声は低く、短い。
「十二日目の模擬戦です。俺は一度も、触れられませんでした」
その一言が、部屋の空気を押し下げた。
堂島は細い目を鬼頭へ向けた。唇の端が、わずかに動いただけで声にはならない。それから、手元の書類に何かを書き足した。
「C級の試験官の所感として、伺っておきます」
鬼頭は、それ以上何も言わなかった。ただ小さく頷いて、スーツの前を合わせるようにして座る。椅子が、もう一度だけ床を擦った。
窓のない壁が、四人の呼吸を吸っていく。
俺は、胸の下にぶら下がった手書きの札を、一度だけ指で触った。
律が、隣で立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、静かな部屋に妙に鋭く響く。手にした紙の束を両手で胸の高さに掲げるように持った。端の折れた紙。付箋の色が、白い照明の下で浮いていた。
「九日目から毎日測っています」
律の声は、震えていなかった。丁寧でまっすぐだった。
「秒も殻圧も、全部ここにあります」
堂島は顔を上げた。束を見ない。目だけを律へ向けて、口元をほんの少し動かした。
「ご本人の記録係の私的なメモですね」
「資料にはなりません」
律は、束を胸に戻した。指先が紙の縁を一度だけ強く摘む。それから、静かに座った。手帳の上に置いた束が、自分の息でわずかに揺れている。眼鏡の奥の目は伏せられた。
堂島は書類に目を落とす。それから顔を上げ、壁際へ向けた。
「獅童さんのご意見は」
獅童は、腕を組んだままだった。着物の上に羽織った協会のコートの裾が、冷えた空気の中で動かない。目は伏せたまま、声だけが部屋の隅に落ちた。
「推す」
たった二字だった。
委員たちが、ざわついた。隣の委員が互いに顔を見合わせ、一人が背を正す。議長が獅童を一瞥し、それから手元へ目を戻す。何かを言いかけた委員が一人、口を開きかけて閉じた。
理由は、誰も聞けなかった。
堂島だけが、獅童をじっと見ていた。唇の端が、笑みでもない形に一度だけ歪んだ。
「推す、ですか」
部屋の空気がまた一段重くなった。律が隣で、手帳の端を指で押さえたまま動かない。真柴は紙袋の上で指を組んでいる。鬼頭は背筋を伸ばしたまま、前を向いていた。
堂島が書類を閉じた。紙の音が、静かな部屋に一つ落ちる。
「国家級の推薦でも、数字は数字です」
声は丁寧なまま、目だけが俺の胸元の札を捉えていた。
「本部の殻圧計と、模擬戦で確かめます。今からです」
誰も反論しなかった。律が隣で、手帳を胸に抱く。真柴が紙袋を一つにまとめ、鬼頭がスーツの襟を直す。獅童は壁際の椅子からゆっくりと立ち上がった。
全員で地下へ降りる。エレベーターの扉が開くと、空気が一段冷えていた。天井が高く、壁が白い。床には何もない。ラインもマットも置かれていない。ただの四角い空間だった。
壁際にはガラスの区画がぐるりと回っていて、律たちはその内側に並んだ。律は手帳とストップウォッチを胸の前に構えている。真柴は紙袋を足元に置き、鬼頭は腕を組んだ。獅童は最後にガラスへ入り、背を壁に預けた。
測定場の向かい側の扉が開いた。
「本部測定局の主任試験官、A級の柳瀬です」
ガラスの内側で、堂島が言った。
柳瀬が歩いてくる。四十代の女性。背筋が伸びていて、足音だけが床に響く。銀灰色の細身の殻装を首の後ろで閉じた。継ぎ目が光り、肩から腕へ滑らかに覆われていく。
俺も首の後ろに指をかけた。殻が開き、墨色の面が肩と前腕を覆う。継ぎ目の白い線が、白い壁の中で一度だけ浮き上がった。
柳瀬が、俺の正面で止まった。
「始めます」
それだけ言って構えを取る。殻圧が、空気を押した。
俺は柳瀬の胸の下を一度だけ見た。
1,880
俺は千二百四十だ。




