第26話 四十日目
赤い空が、水の縁でまだ揺れている。
紗夜が振り返らず白鷺の隊員に歩き出すよう顎で示した。膝をついていた隊員が一人、また一人と立ち上がる。白い殻が濡れて重そうだった。
紗夜は何も言わない。六枚の羽は背で畳まれ、青い光はもうない。隊列を連れて、門の口へ向かっていく。
俺は見送るだけだった。肩と前腕に牙の形のひれ。継ぎ目の線が琥珀色のまま、水の上に立っている。
足音が遠ざかる。水を踏む音が、一人分ずつ消えていく。
最後の一人が門の赤い口へ消えると、夜の街には俺だけが残った。
黒い水面が、赤い空を映して揺れている。
俺は息を吐いた。
短く、一度だけ。
膝の下まで浸かっている。動かなければ、水は動かない。黒い面に傾いたビルが映っている。窓の穴がいくつも空いていて、その奥は何も見えない。
空を見た。
赤はもう縁だけだった。その縁が、じわじわと細くなっていく。夜が上から降りてくる。星は出ていない。雲もない。ただ黒い。
俺は息を吐いた。長く吐いた。肩が下がる。牙の形のひれが、少しだけ緩んだ。
ふいに視界の端に、白い文字が浮いた。
俺の目にだけ見える文字だ。闇の中でも輪郭がはっきりしている。墨色の殻の内側に、まっすぐ一行また一行と並びはじめる。
【殻装:第二殻】 Lv.19→Lv.22
等級:―(測定不能)
第二殻 脱皮まで:Lv.30
筋力 31→33 / 敏捷 42→45 / 殻硬度 19→21 / 共鳴 22→24
未割振:0
殻圧:1,140→1,230
能力:[影走り Lv.7] [空返し Lv.5] [薄刃 Lv.5] [残殻 Lv.4] [縫影 Lv.2] [鳴殻 Lv.1]NEW
常時:[殻読み]
型スロット:1 [狼の型]
型の棚:狼の型 / ???
日課:走破 20km(0/20)
【記録を開示します】
【第七殻 到達:1】
視界の端に白い文字がまだ並んでいる。最後の一行を、目でもう一度なぞった。
(……1)
浮かんでいる数字を、一度だけ確かめる。
1,230。
殻装は第二殻のままだ。背中の継ぎ目も、肩のひれも、何も変わっていない。レベルは二十二。脱皮まで、あと八つ。
(俺じゃない)
誰かが、すでに第七殻へ届いている。
殻ログはそれ以上、何も表示しなかった。誰の名前も出ない。場所も、日付も殻の色も出ない。ただ、記録が開示されただけだ。
俺は水の中で拳を一度、握って開いた。指の間を黒い水が滑る。温度がなかった。
(第七殻)
口の中で繰り返したが、言葉は浮かばなかった。それを誰かがすでに越えている。表示の「1」は、その事実だけを俺に示している。
俺は首の後ろに指をかけた。換装を解く。琥珀の線が白に戻り、牙の形のひれが肩と前腕で薄く畳まれていく。墨色の殻が、いつもの継ぎ目に落ち着いた。
それから、水を踏んだ。一歩二歩。音が静かに割れて、後ろへ流れていく。
門の口が、赤い輪郭だけを残して開いていた。
外の明かりが、黒い水の上を白く滑っている。人の声がする。無線の音。担架の脚が砂を擦る音。律が、あの端末を両手で持って立っているはずだ。
俺は振り返らなかった。
水を抜けて、砂の上に足を着く。
門の赤が背中で薄くなっていく。振り返らないまま、俺は白線の内側を歩いた。靴の裏に砂が張りつく。水を吸った殻が重い。歩くたびに、継ぎ目から雫が落ちて砂に染みた。
柵の切れ目を抜けると、律がいた。
端末を片手に持ちもう片方の手でストップウォッチを握っている。親指がボタンの上で止まっていた。俺が白線を踏み越えたのを見て、その親指を一度だけ押し、端末の時刻を見た。
「零時八分です」
律は数字を読み上げてから、ストップウォッチを胸の前に下ろした。声はいつもと同じだった。けれど、読み終えてから一度だけ息を吐いた。それだけだった。
「おかえりなさい」
「ああ」
俺は短く返した。律は手帳を開き、日付の欄に何かを書き込んだ。鉛筆の音が、夜の砂の上で小さく鳴った。
門の口が、また内側から膨らんだ。
協会の係員が二人担架を担いで出てきた。白い担架の上に、黒い殻の塊が載っている。紋喰いの頭部だった。崩れかけの殻が端から砂のように零れ、額の下で赤い主核がまだ脈打っていた。弱く、遅く、しかし確かに。
担架が俺の横を通る。
主核の赤が、俺の墨色の殻を一度だけ照らした。それからまた薄くなった。係員は無言で歩いていく。担架の脚が砂を踏むたび、主核の脈がわずかに揺れた。
俺はその赤を見送った。
「残したか」
声は低かった。振り向くと、獅童がいた。灰褐色の殻のまま、濡れた岩のような巨体を白線の上に立たせている。照明の白を半分浴びて、残り半分は夜のままだった。
「ああ」
俺は短く返した。
獅童は主核の赤を一瞬だけ見た。それから俺へ目を戻した。長くはない。ただ、確かめるように。
「そうか」
それだけ言って、獅童は背を向けた。灰褐色の殻が夜の中へ歩いていく。足音は砂に吸われて、すぐに消えた。説明はなかった。振り返りもしなかった。
白と紺の車が一台、柵のそばに停まった。協会の車だ。エンジンは静かで、ヘッドライトだけが砂の上を白く照らしている。
紗夜が車の方へ歩いていく。背中の六枚の羽はもう完全に畳まれていた。
紗夜はドアの前で止まった。
振り向いた。
切れ長の目が俺を捉える。夜の闇の中で、その目だけがはっきりと見えた。
何も言わない。
俺も何も言わない。
紗夜はしばらく俺を見ていた。長くはない。けれど、すぐでもなかった。それから車に乗り込んだ。ドアが閉まる音が、水音の残る砂の上に短く響いた。
車がゆっくりと動き出した。白いヘッドライトが砂を滑り、白線の手前で一度だけ曲がる。それから車は夜の道へ出ていった。テールランプが小さくなって、やがて消えた。
俺は首の後ろに指をかけた。殻が継ぎ目から薄く開き、墨色の面が肩と前腕で畳まれていく。白い線が最後に一度だけ光って、消えた。
殻の内側から、夜の空気が肌に触れた。冷たかった。
◇
四十日目の朝。
夜明けの湾岸から灰町まで走った。日課の走破二十キロ。海沿いの道を抜け、橋を二つ渡り灰町の手前で高架の下に出る。昨日で三十九日、筋力が一つ上がっている。今日は何も上がらない日だ。
高架の下はまだ薄暗い。コンクリートの柱が等間隔に並び、その隙間から朝の白が細く差している。
ベンチは二つある。片方の背もたれが欠けている。俺は欠けていないほうに座った。汗が冷えて、シャツが背中に張りついている。
自販機が柱の陰に一台ある。缶コーヒーを二本買った。一本をベンチの端に置いた。
十分ほどして、律が来た。
砂色の殻も着ていない。私服だ。黒縁の眼鏡の奥で目が少し腫れている。寝ていない顔だった。端末を両手に持ち、ストップウォッチを首から下げ、手帳を脇に挟んでいる。いつもの三つだ。
「おはようございます」
「おう」
律はベンチの端の缶コーヒーを見て、少しだけ間を置いてから取った。蓋を開けて一口飲んだ。
「走られたんですか」
「ああ」
「何キロ」
「二十」
律は手帳を開き今日の欄に数字を書いた。それから端末を膝の上に置いて、画面を指で二度叩いた。
「見てもらいたいものがあります」
「なんだ」
「切り抜きです」
律は端末を俺のほうへ少し傾けた。
画面の中で、水が黒く揺れていた。傾いたビルの影。その手前に墨色の背中が一つ。肩と前腕に牙の形のひれ。継ぎ目の線が琥珀色だ。
俺の背中だった。
撮られているのは、落ちてくるところからだ。看板を踏み、空中で二度向きを変え真下へ落ちる。縫影が刺さり、紋喰いが止まる。〇・五秒。継ぎ目を一閃。主核は残したまま、黒い殻が端から砂のようにほどけていく。
動画はそこで終わった。再生数が画面の下に白く出ている。
律が読んだ。
「千八百万です」
律は数字を読み上げてから端末をもう一度見た。それから顔を上げないまま、もう一度言った。
「千八百万です」
「そうか」
律は指で画面を下へ滑らせた。コメント欄が出た。朝の光の中で、白い文字が小さく並んでいる。
『墨色の人だ』
『殻紋ないのにあれだけ動けるの何』
『国家級より上?』
『顔は映ってないな』
律は端末を伏せた。手帳の上に重ねる。それから眼鏡の奥で俺を見た。
何も聞かなかった。
俺は缶コーヒーを飲んだ。冷たかった。もう半分も残っていない。
「そうか」
俺はもう一度言った。
端末が鳴った。
ベンチとベンチの間、俺の端末が小さく震えて画面を光らせた。律が手を伸ばしかけて、俺が先に取った。画面に名前が出ている。大鳥だ。
「もしもし」
「見たぞ、坊主」
声は短かった。後ろで海の音が少ししていた。風の音かもしれない。
「ああ」
「……寝ろ」
それだけ言って切れた。
通話の終わった画面がまだ白く光っていた。俺はそれを膝の上に置いた。律は何も言わなかった。缶コーヒーを両手で持って、少しだけこっちを見ていた。
端末がもう一度鳴った。
今度は間がなかった。画面の名前は、協会澪浜支部・登録課。
「灰塚迅です」
「登録課の真柴です」
平板な声だった。朝だから、という色がなかった。用件だけがまっすぐ来る。
「本部から呼び出しです。等級未定者の特例審査。三日後、東京の協会本部です」
俺は高架の柱を一度見た。朝の白が細く差している。缶の表面で光が揺れた。
「そうか」
「以上です」
切れた。待つ音が一拍だけ残って、消えた。
俺は端末を伏せた。律のほうを見た。
律はもう手帳を開いていた。ページをめくる音が、朝の空気の中で一度だけ鳴った。
「三日後、ですか」
「ああ」
「四十三日目です」
律は鉛筆を動かした。日付の欄に、数字を一つ書いた。
◇
四十日目の夜。
居酒屋のカウンターの端で、権藤はグラスを置いた。
中身はもうぬるい。泡はとっくに消えて、ビールは薄い茶色に濁って動かない。指でグラスの縁をなぞる。濡れた跡が指先に残るだけだった。
カウンターの上壁寄りに据えられたテレビが白く光っている。音は客の話し声に半分消されていたが、画面だけはやけに鮮明だった。
黒い水。傾いたビル。その手前に立つ墨色の背中。
《——殻紋のない殻装が、門主を単独で》
実況の声が、語尾を消した。店内の空気が一瞬だけ薄くなった。
「殻紋がないって何だよ」 「あれで動けてんのか」 「つうか色、墨だろ。見たことねえ」 「国家級より上ってことか、あれ」 「元はE級の荷運びらしいぜ」
権藤は顔を上げなかった。テレビの光が、カウンターの木目を白く照らしている。グラスの影が、その上に黒く落ちていた。
《これは、本当に、殻紋のない——》
権藤はグラスを持ち上げた。ぬるいビールを一口含む。味はしなかった。喉を滑って、胸のあたりで止まった。
墨色の背中。
あの色を、権藤は知っている。
二十日ほど前、黒潮の荷運びの列で会った。自分が逃げた男の背中だ。いや、もっと前から知っている。灰色の殻だった頃から。鉄顎を一撃で落とした背中。あの時も、自分は何もできなかった。
権藤はグラスを置いた。音が、自分の手の中でだけ鳴った。
テレビの中では、門の外の砂浜が映っていた。白い照明。柵。担架。その横を、墨色の殻のまま歩く影が一つ。
テレビの光が権藤の横顔を白く縁取っていた。画面の端で、砂浜を歩く墨色の背中が小さくなっていく。権藤はグラスを持ったまま、その背中を見ていた。
四十日前、汐留町の門の外で協会の係員に「灰塚は……死ん」と言いかけた。最後まで言えなかった。言えば、自分が置いてきたものが決まったからだ。
三日目、去っていくあの背中に「門主、まだ中にいんだぞ」と投げた。投げてから、自分が中に入らなかったことを思い知った。
その翌日、門外討伐届の自分の署名の横に、鉛筆で一行書き足した。「灰色のやつが落とした。見たまま書いた。」
店主がカウンターの内側から布巾を止めて言った。
「権藤さん、知り合いかい」
権藤は答えなかった。グラスの中のビールは、もう泡が一本も立たなくなっていた。
カウンターの向こうで、店主がテレビの音量を上げた。
「これ、昨日のやつだろ。すげえなまだ回ってんのか」
権藤はカウンターに金を置いた。硬貨が二枚、木の上で小さく鳴った。
立ち上がる。
隣の客が、まだ何か言っていた。聞こえなかった。
店を出る。扉が閉まる音の向こうで、テレビの声がまだ続いていた。
《——殻紋の、ない殻装が——》
夜の道を歩く。海の匂いがした。水の匂いじゃない。ただの潮だ。
権藤は、ポケットの中で手を握った。
(あれは、俺が置いてきた男じゃない)
違う。
あれは、俺が置いてきた場所から自分で歩いて出た男だ。
それだけの違いが今はやけに大きくて、遠い。
◇
白鷺の本社のオフィスは、夜になっても明かりが落ちていなかった。
壁一面のモニターが青白く光り、部屋の輪郭を浮かび上がらせている。ソファに座る白峰の背中が、画面の明かりを浴びて白いロングコートの裾まで薄く染まっていた。
モニターには、湾の赤化門の中継録画が映っている。
黒い水。傾いたビル。蒼域の青い膜。
白峰は手元の端末を操作した。映像が巻き戻り、水音が逆回しに流れる。ある一点で止める。
画面の中、紗夜の蒼域が端からほどけるように消えていく。青白い光が水面を一度滑って、細くなる。白鷺の隊員たちの殻からも、光が抜けていくのが見えた。
落ちていく。
けれど、その中央に立つ墨色の背中だけは違った。
継ぎ目の白い線が、消えない。琥珀に変わった線も、肩の牙の形も輪郭を保ったまま水の上に立っている。周囲の光が粒になって流れていく中で、その殻だけが光を吸い込んでいた。
白峰は指を動かした。
映像が、紋喰いの崩れる場面で止まる。
黒い殻が端から砂のようにほどけ、光が粒になって散る。その粒が、墨色の殻の継ぎ目にだけ流れ込んでいく。他の誰でもない、その殻にだけ。
白峰はその一コマを、しばらく見ていた。
オフィスのドアが開いた。足音が一つ、二つ。静かに近づいてくる。
「白峰さん」
御堂だった。白い重装を解いた私服姿で、端末を片手に持っている。画面の青白い光が、御堂の顔を横から照らしていた。
「協会本部が、等級未定者の特例審査を開きます。三日後です」
御堂は端末を見ずに言った。声は低く、事務的だった。
白峰は画面を止めたまま、振り返らなかった。
「三日後」
「はい。東京の本部で。対象は灰塚迅です」
御堂はそこで一度だけ言葉を切った。モニターの中では、墨色の背中がまだ静止している。光の粒が、画面の中で吸い込まれたまま止まっていた。
白峰は端末をソファの肘掛けに置いた。かすかな音が、オフィスの静けさに落ちる。
「灰塚の六年を、全部出して」




