第25話 第七殻へ至れ
律が三歩後ろで端末を両手に持った。
画面の明かりが、夜の砂の上で白く揺れている。
中継の音声が、小さく流れてきた。実況の声だ。低くて落ち着いている。
《現在、門内の殻圧を確認しました。鷹宮紗夜、六千八百から千三百六十。獅童厳、五千六百から千百二十。お二人とも、入域直後から数字を大きく落としています》
語尾が消えていた。驚いているのが、声の最後でわかった。
律は端末の画面を指先でなぞるように傾けた。俺の位置からは、画面の中が薄くしか見えない。水の色と、傾いたビルの影。照明が届かずに潰れた街並みが、端末の中で静かに揺れていた。
「街が、沈んでいます」
律が言った。声は小さく、砂に落ちた。
俺は白線の上でその画面を斜めから見ていた。建物が三割ほど水に浸かっている。窓から水が溢れ、道路は黒い川のようになっていた。その上を、青白い光が走っている。紗夜の蒼域だ。
「白鷺の隊が、あの膜の内側にいます」
律の指先が、画面の端を一度叩いた。
中継の実況が続く。
《白鷺の皆さんは、現在、蒼域の外へ出られていません。出た瞬間に殻圧が保たない。いや、保てないという言い方が近いか。入域してすぐ、これほどの削れ方をする門は国家級でも記録にないはずです》
声が、また一瞬だけ途切れた。語尾が消えた。
画面の中では紗夜が片腕を上げていた。青い膜が、水の上に半円に張られている。白い殻の隊員たちがその内側で膝をつき、それぞれの武器を支えにしている。動けない。動かせば、膜の外だ。
(蒼域の維持に、殻圧を吸われている)
紗夜の肩が、画面の奥で小さく上下していた。六枚の風切り羽が、赤い空を背に広がったままだ。羽は動かない。飛べる状況じゃない。
獅童は画面の右手にいた。水に膝まで浸かって、灰褐色の巨体を片膝で支えている。岩の殻がところどころ黒く濡れている。動きはゆっくりだ。殴るたびに、水が割れて跳ねる。相手は画面の外にいる。レンズは捉えられていない。
《閉門まで、あとおよそ――》
律が端末の数字を読んだ。
「二十九分です」
俺は白線の上で、その数字を聞いていた。
夜の海が、柵の向こうで赤く染まっている。風が吹くたび、赤い光が水面を滑って消える。
中継の音声だけが、やけにはっきりと耳に残る。
《門内の水かさは、いまも上がり続けています。澪浜湾の水位と連動しているのか。街が沈む速度が、見た目にも速い》
係員の一人が、無線を口に当てて走っていく。白い柵の前を、何人もの影が行き交う。
赤い門の口が、内側から押し開くように膨らんだ。
獅童だった。灰褐色の殻のまま、両腕に白鷺の隊員を二人抱えている。白い殻がぐったりと垂れ、足先から水が滴っていた。
獅童は水を割って岸へ上がり、係員の前に隊員を降ろした。無言だった。係員が二人を受け取り、担架へ移す。獅童は振り返らず、白線の上の俺の前で止まった。
照明の白を半分浴びて残り半分は夜のまま。濡れた岩の殻から、湯気のようなものが立っている。
「行け」
それだけ言った。声は低く砂に吸われた。説明はなかった。国家級指揮者の許可。規程の一行が、この一言で消えた。
俺は獅童を見た。目が合った。長くはない。
「はい」
首の後ろに指をかける。殻が閉じる。墨色の継ぎ目に白い線が走った。
律が三歩後ろで端末を握っていた。何も言わない。止めない。
「閉門まで、二十八分です」
律の声が背中で砂に落ちた。俺は白線を踏み越えて、柵の切れ目から走った。
門の口は赤い。くぐった瞬間空気が変わる。生ぬるくて重い。水の匂いと、鉄の匂いが混ざっていた。
水に沈んだ夜の街が、目の前に広がっている。ビルが三割ほど浸かり、窓から水が溢れていた。照明は届かない。闇の中で、黒い水が鈍く光っている。
傾いたビルの壁に、影が落ちている。水面にも影。俺は壁を蹴って影走りで走った。水面の影を踏み、傾いた看板の影を伝い折れた街灯の影を跳ぶ。
(影がある。走れる)
蒼域の青い膜が見えた。水の上に張られた半円。その縁に、俺は空返しで一度体を返して降りた。膜を抜ける。青白い光の中は、妙に静かだった。
白鷺の隊員が十人余り、水に膝をついてうずくまっている。白い殻が濡れて重そうだ。誰も顔を上げない。呼吸の音だけがする。
紗夜が片腕を上げていた。六枚の風切り羽を広げたまま、膜の端に立っている。振り向いた。切れ長の目が俺を捉える。驚きはなかった。
「迅」
短かった。
「来た」
俺も短く返した。紗夜は何も言わず、また前を向いた。膜の外、赤い空のほうだ。
その時だった。俺は自分の体を確かめて、一度だけ息を止めた。
(――軽い)
重くない。水に浸かっているのに、足が沈まない。膜の中にいて殻圧が減っていない。体の芯が、いつもと何も変わらない。
中継の実況が遠くで言っていた。入域した者は殻圧を削られる、と。白鷺の隊はそれで動けないのだと。
千百四十。減っていない。
紗夜がもう一度こちらを向いた。切れ長の目が俺の殻の上を、頭の先から胸の下までゆっくり滑る。継ぎ目の白い線を、肩の薄いひれを順に確かめるように。
(数字が落ちていないのを、見ている)
紗夜は口元だけで少し笑った。
「その殻、何色?」
「墨。前は灰色だった」
「知ってる」
紗夜はそれだけ言って、また前を向いた。六枚の風切り羽が、赤い空を背に小さく鳴る。
膜の外で、水がまた一段上がった音がした。
膜を出た瞬間空気が肌に貼りつく。生ぬるい。水の底から、黒いものが次々と這い上がってくるのが見えた。
黒い殻に赤い筋。人ほどの大きさ。三十体はいる。水を割る音が途切れない。
前腕の縁から殻片を二枚はがして握る。俺は首の後ろに指をかけた。狼の型。白い線が琥珀に変わり、肩と前腕のひれが牙の形に組み替わる。
(群れは速さで刈る)
ビルの壁を蹴った。影走り。水面の影を踏み、傾いた看板の影を伝う。一体目の懐へ飛び込み、前腕の牙で首を断つ。手応えは粘土より少し硬い。赤い筋が断たれると、殻が崩れて水に沈んだ。
二体目が腕を伸ばしてくる。逆関節の指先が赤く光っている。空返しで体を返し、三体目の肩の上を踏んで背後へ。伏せ駆けの姿勢のまま踵を二体目の脇腹へ突き立てる。
(数が多い。止まらない)
四体、五体と続けて断つ。六体目が跳びかかってきたところを、影に縫影。殻片が刺さり〇・五秒止まる。その隙に首へ牙。七体目、八体目。水しぶきが赤く染まって上がる。
膜の中から、白鷺の隊員が息を呑む音がした。
白鷺の隊員が膝をついたまま俺を見上げた。白い殻の奥で、呼吸だけが二度三度と続く。
「なんで、あんただけ」
声は掠れ、水音に半分消えた。
紗夜は動かない。青い膜の端で、俺の動きを目で追っている。切れ長の目が、琥珀の線を一度だけ見た。
九体目が水面を滑って背後へ回る。俺は振り向かずに空返し。空中で二度向きを変え、逆さまのまま前腕を振り下ろす。牙が殻の継ぎ目に食い込み、赤い筋がひび割れて消えた。
十体目。群れの中で一番大きい個体が、両腕を広げて突っ込んでくる。俺は膝を落とし、牙の形のひれを構えた。伏せ駆け。水面を蹴って、相手の胸元へ。前腕の牙を赤い筋の中心に真っ直ぐ通した。
手応えが消える。殻が崩れて、黒い水が静かに割れた。
(十)
【レベルが上がりました Lv.19→Lv.20】
【能力を取得しました:鳴殻】
殻を鳴らした。喉の奥ではなく、背の継ぎ目を震わせる。低い音が黒い水面を滑り、傾いたビルの壁に当たり割れた窓の奥へ吸い込まれていく。
反響が返る。
(速い。近い。浅い)
ほとんど同時に返る音の中、一箇所だけ遅れて返る。
傾いたビルの影。水に浸かった一階の奥。ちょうど水面と壁の境目だ。
暗渠の門で聞いた返りの遅れと同じ。門主がいた場所の音に似ている。
(あそこだ)
群れはまだ二十体ほど残っていた。水を割って、赤い筋を揺らしながら囲い直してくる。
紗夜が蒼域の端から言った。
「前、任せる」
振り向かない。声だけが青い膜の内側から届く。
「ああ」
俺は短く返した。
肩まで黒い水に浸かった影が、ゆっくりと持ち上がった。水が割れる音がやけに遅れて聞こえる。
(来る)
俺は殻読みを開いた。胸の下に浮かぶ数字。
7,500
指先が冷えた。目線だけを上げる。
傾いたビルの影の中から紋喰いが姿を現した。黒い殻は濡れて鈍く光り、額の下に赤い主核が脈打っている。水が巨体に沿って落ち、足元の水面が大きくへこむ。
(大きい)
圧で水が退いている。
眷属の群れが、紋喰いの周りに寄って整列する。二十体。赤い筋が波に揺れ、水音が低く唸るように続く。
紗夜が蒼域の端から羽刃を飛ばした。風切り板が二枚、水面を裂いて眷属の列を断つ。青白い軌跡が残り、三体が崩れて沈む。
「迅、散らせ」
「ああ」
狼の型のまま、水面を蹴った。影走り。黒い水の上を走りながら、牙走で端の眷属から刈る。一体、二体。水を割る音が速くなる。赤い筋がちぎれるたび、周囲の殻が連鎖的に崩れていく。
その時、気づいた。
紋喰いの足元の水面が内側へ寄っている。波が外へ広がらず、主核の周りに吸い寄せられるように小さく凹む。喰う前の癖だ。領域の縁を一度、引き寄せる。
(荷運びの六年で見た。あの引き寄せの後だ)
俺は牙を構えたまま、その歪みの終わりを待った。
歪みが終わる直前、俺は残殻を剥がした。
薄皮が俺の形のまま水面に残る。肩の高さ、前腕の角度、膝の沈みまで同じ。俺自身は三歩、横へ。
歪みが消えた。その瞬間、紋喰いの巨体が俺の残殻に喰いついた。
黒い顎が薄皮を噛み砕く。衝撃で水が割れ、泡が赤く弾けた。
俺はもう横にいた。影走りで水面を滑り、傾いたビルの壁へ。靴底が濡れた壁を蹴る。上へ、上へ。黒い水が眼下に遠ざかる。
(残殻は二十秒。次はない)
傾いた看板が、ビルの壁から剥がれかけて落ちてくる。鉄の枠が赤い空を背に回転しながら降ってくる。俺はその一歩を踏んだ。落ちている物の上は一歩だけ。沈む感覚を蹴りにして跳ぶ。
空返し。一度目で体を返し、二度目でさらに上へ。風を切る音だけが耳の奥で鳴る。
紋喰いの真上に出た。
黒い頭部。額の下で赤い主核が脈打つ。喰らいついた残殻の破片が、まだ口元に張りついている。
俺は真下を見た。黒い水面に、紋喰いの影が落ちている。巨体の輪郭が赤い空を映して歪んでいた。
(揺れが止まるのを待つ)
風がやんだ。水面が一度だけ、凪いだ。
俺は殻片を投げた。縫影。影に突き刺さる。波紋が消え、影が縫いとめられる。紋喰いの巨体が、その場で止まった。
〇・五秒。
落ちる。狼の型の狩り納め。牙のひれを逆手に構え真上から。首の付け根から背中へ向けて、継ぎ目を一閃。手応えは硬い粘土を断つ感覚だった。
主核は斬らない。額の赤い脈はそのまま残した。
止まったまま紋喰いが崩れはじめた。黒い殻が端から砂のようにほどけ、主核の赤がゆっくりと薄れていく。水面に、最後の光が落ちた。
その光の粒が、俺の殻へ流れ込んでくる。他の誰でもない、この墨色の継ぎ目にだけ。吸い込まれるように消えた。
【レベルが上がりました Lv.20→Lv.22】
◇
白鷺の本社、夜のオフィスに画面の光だけが満ちていた。
壁一面のモニターに、崩れていく紋喰いが映っている。黒い殻が端から砂のようにほどけ、赤い主核の脈がゆっくりと薄れていく。その手前に、墨色の背中が一つ。肩と前腕に牙の形のひれ。継ぎ目の線が琥珀色だ。
実況の声が、語尾を消した。
《——殻紋の、ない……殻装が——》
香坂はそこで止まった。言い直さなかった。言い直せないのだと、白峰には分かった。画面の端で、蒼域の青い膜がまだ張られている。その内側に白い隊が十人余り、膝をついたままだ。
白峰はソファの肘掛けに片腕を置いたまま、画面から目を離さなかった。白いロングコートの裾が、床に静かに垂れている。
「……一人で、か」
独り言だった。誰も答えない。隣で端末を操作していた幹部が手を止め、こちらを見たが白峰はもう何も言わなかった。
◇
水が静まった。赤は空の縁へ引いていく。
耳の奥で通信が鳴った。獅童の声だ。
「見ていた」
「……どうも」
俺は短く返した。それきり通信は切れる。説明しない人だ。
蒼域の青い膜が、端からほどけるように消えた。白鷺の隊員が水に手をついて立ち上がる。誰も言葉を出さない。ただ濡れた装備の音だけがする。
紗夜が水の上を歩いてきた。六枚の羽が背で小さく畳まれる。切れ長の目が俺の顔を見て、驚きのかけらもなく笑った。
「遅い」
紗夜は水を踏んで、少しだけ首を傾けた。
「それ、たまたま?」
前にも、同じ言葉を投げられた。俺は答えないまま、足元の黒い水を見た。
「いや」
間を置いて、息を吐く。
「……まあ、届いた」
紗夜は「ふうん」と小さく零した。
門の外では律が手帳を開き、今日の欄に「0」とだけ書いているはずだ。
【型を取得しました:???】
【解放条件:第三殻】
【記録を開示します】
【第七殻へ至れ】




