第24話 入れない門
三十六日目の朝、殻ログに白い文字が残っていた。
【日課:走破 20km】
俺は灰町のアパートを出て、湾岸の道を走った。
海沿いの道は、昨日までと違っていた。
協会の車両が何台も止まっている。白と青の車体に、警告灯。係員が反射材のついた上着を着て、柵を組み立てている。柵は高さが胸まである。海側の歩道に沿って、等間隔に置かれていく。まだ開いている隙間から、海が見えた。
店のシャッターが半分以上下りていた。海沿いの食堂も、釣り具屋もコンビニも。開いているのはシャッターを下ろし忘れた一軒だけで、店の前を若い店員が箒で掃いていた。
電柱には貼り紙がしてある。
「澪浜湾岸 立入制限区域」の文字。その下に、細かい字で期間と協会の連絡先。紙の端が海風にばたばた鳴っていた。
空は晴れていた。雲が高いところで細く流れている。
(三日後、あの空に門が開く)
俺は海沿いを離れ、内陸側の歩道へ入った。足音だけが続く。アスファルトを蹴る音が規則的に返る。呼吸も乱れていない。
汐留町のヤードの前を通った。黒潮のトラックが二台、止まっていた。運転席に誰もいない。荷台にはロープと空のコンテナ。ヤードの奥で、蔵前らしい声が何か怒鳴っていた。
俺はそのまま走り抜けた。
折り返しの堤防まで来て引き返す。海側はもう通らなかった。路地を抜け、高架下をくぐり灰町へ戻る。街のあちこちで、封鎖の準備が進んでいた。いつもの道が、少しずつ知らない道になっていく。
アパートの前で足を止めた。
膝に手をついて、息を吐く。
視界の端に、白い文字が二行。
【日課:走破 20km(20/20)達成】
【連続36日:筋力+1】
体の芯に、かすかな熱が残っていた。
三十七日目、黒潮は埠頭の倉庫街へ入った。
B級の正門。海風が吹き抜ける倉庫の並びに、青い光が立っていた。蔵前が盾鎚を担ぎ、戸張がその後ろに続く。俺は首の後ろで殻を閉じて、先頭で門をくぐった。
中は倉庫だった。床に水が薄く張っている。天井の梁に、人の形をした黒い殻が三体ぶら下がっていた。動くと関節が逆に曲がる。音を立てずに梁を伝って降りてくる。
(足場は水。影は割れている)
梁の影が水面に落ちている。俺は壁を蹴って梁へ上がった。影走り。殻の連中が振り向くより先に、前腕の薄刃を一番近い一体の首へ通す。手応えは粘土を断つようだった。
二体目が腕を伸ばしてくる。逆関節の指先が俺の肩を掠める。空返しで体を返し、梁の裏側へ。三体目が梁の上を走って追ってくる。足音がしない。影だけが動く。
(影が動けば、そこが道だ)
梁の影を踏んで加速する。追ってくる殻の影が乾いた梁の上に落ちた。俺は殻片を投げた。縫影。影が止まる。〇・五秒。その間に梁を蹴り、逆さまに落ちながら踵の薄刃で三体目を断った。
門主は倉庫の奥、水の下から現れた。長い首が水面を割る。目が三つ、縦に並んでいる。俺は水の上を走り、首の付け根へ回り込む。縫影は使わない。影が三つに割れている。代わりに空返しで二度向きを変え、薄刃を首の継ぎ目へ振り下ろした。
【経験値を取得しました +2,544】
殻を畳んで門を出ると、律がストップウォッチを止めた。
「十九分四秒です」
「十九分四秒」
短く返す。律は手帳に書き込みながら、ちらりと海のほうを見た。柵の向こう、湾の空はまだ静かだった。
三十九日目の朝も、日課は走破だった。
【日課:走破 20km(20/20)達成】
【連続39日:筋力+1】
海沿いの道はもう柵で塞がれていて、俺は内陸を回った。街が少しずつ痩せていく。
◇
昼、協会澪浜支部に呼ばれた。律と二人で会議室の扉を開ける。
細長い机だった。長谷部支部長が奥に座っている。白髪が穏やかで、ネクタイが少し曲がっている。その右に真柴さん。ひっつめ髪、銀縁の眼鏡。手元に分厚いファイル。左に鬼頭。ジャージの上に協会のベスト。腕を組んで、まっすぐ俺を見た。
「座りなさい」
長谷部さんが言った。主語はなかった。俺たちは座った。律は俺の斜め後ろ、椅子の端に浅く腰かけている。
長谷部さんは一枚の紙を机の真ん中へ滑らせた。湾の地図だ。赤い線が何重にも引かれている。
「湾岸は封鎖する」
短かった。
「封鎖も突入も、国家級だけだ」
俺は地図を見た。赤い線の内側に、街があった。いつも走っている道があった。
「規程は規程だ。今回は入れない」
長谷部さんが地図から顔を上げて言った。声は穏やかだった。だからこそ、その言葉は机の上にぺたりと貼りついたように残った。
真柴さんが手元のファイルを開く。紙を一枚、指先で押さえた。
「本部通知の許可を出せる国家級指揮者は、まだ澪浜に着いていません。到着予定は、今夜です」
律が手帳を持つ手を、膝の上で一度だけ握り直した。俺の斜め後ろで、小さな音がした。
俺は地図の赤い線を見た。線の内側に、走った道があった。コンビニがあった。大鳥さんが煙草を落とした砂の上も、たぶんあの中だ。
「そうか」
それだけ返した。
鬼頭が腕を組んだまま、口を開いた。
「記録する」
「どうも」
鬼頭はそれ以上何も言わなかった。長谷部さんも、真柴さんも、何も足さない。勧めもしない。慰めもしない。ただ、できることをそれぞれの机の上でやっている。
それが、あの人たちのやり方だった。
長谷部さんが先に立った。椅子を引く音が一つ。地図を畳んで、ファイルの端を揃えてそれから扉へ向かう。三歩で部屋を出る人だ。誰も引き止めない。引き止める言葉を、この部屋の誰も持っていない。
律が椅子から立ち上がった。鞄を開けて、紐で綴じた束を出す。紙の束だ。表紙に日付が並んでいる。俺が走った日と、門をくぐった日と殻圧の数字が、律の字で埋まっている。
律は束を机の真ん中、真柴さんの前に置いた。
「九日目に百五十三。今朝、千百四十です」
真柴さんが顔を上げた。銀縁の奥の目が、束の厚さを確かめるように一度だけ動く。
「誤差の範囲じゃありません」
律の声は震えていなかった。丁寧語のまま、語尾だけがまっすぐだった。
真柴さんは何も言わない。束を引き寄せて、親指で端をめくった。紙がぱらぱらと鳴る。めくって、閉じて両手で抱えた。
「記録簿、四冊目です」
それだけ言って真柴さんは机の横を抜けた。扉の前で一度、俺のほうを見た。眼鏡の奥でまばたきが一つ。それから廊下へ出た。
扉が閉まりかけて、止まった。
支部長室の扉が開く音がした。
「……預かる」
長谷部さんの声だった。短くて、低い。
「本部に上げる」
扉が閉まった。廊下の音が遠くなる。律が鞄の紐を握ったまま、俺の斜め後ろで小さく息を吐いた。鬼頭は腕を組んだまま、天井のほうを一度見てそれから立ち上がった。
◇
同じ日の夕方、澪浜から遠く離れた天霧マテリアル殻装研究所の一室は、白い壁と白い机だけの部屋だった。窓の外は暮れかけている。灯りはなく、モニターの数字だけが青白く光っている。
早瀬が画面を指でなぞって読み上げた。
「主任、また上がっています。千百四十」
榊は椅子を半分だけ回して並んだグラフを見た。穏やかな声のまま、しばらく数字を目で追っていた。
「跳ね方が、整いすぎていますね」
早瀬は何も言わなかった。指を画面から離して、次の折れ線へ静かに移した。
◇
三十九日目の夜。
俺と律は、封鎖線の柵の外に立っていた。
柵は高く、白く、等間隔で夜を区切っている。向こう側は明るかった。協会の照明が何台も並び、湾岸の道を昼のように照らしている。係員が無線を握り、白鷺の隊が国家級の随伴として整列していた。白い装備が照明に浮き上がっている。白峰の姿はない。中継の機材が並び、レンズが湾の空へ向いている。
風が吹いた。海の匂いがする。
律が三歩後ろで端末を見ていた。白い画面の数字を確認して、静かに言う。
「二十二時五十分です」
俺は柵の向こうを見た。照明に照らされた海。その上の空はまだ黒く、何もない。星も雲もない。ただ空気だけが張りつめている。
俺は、殻ログを開いた。
視界の隅に、白い文字が並ぶ。いつもは通知だけを流すその表示を、全部、順に。
【殻装:第二殻】 Lv.19
等級:―(測定不能)
第二殻 脱皮まで:Lv.30
筋力 29→31 / 敏捷 42 / 殻硬度 19 / 共鳴 22
未割振:0
殻圧:1,140
能力:[影走り Lv.7] [空返し Lv.5] [薄刃 Lv.5] [残殻 Lv.4] [縫影 Lv.2]
常時:[殻読み]
型スロット:1 [狼の型]
日課:走破 20km(20/20)達成 ── 連続39日:筋力+1
律がこちらを見た。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ、いつもより真剣だった。
「……何か、変わりますか」
俺は空を見たまま、答えた。
「まだ、何も」
律は小さく頷いて、手帳を胸の前で握った。
夜の海が、静かに凪いでいる。
二十三時を回ったころ、封鎖線の外側に協会の車が一台、静かに停まった。白と紺の車体だ。警告灯は回していない。ドアが開いて、獅童が出てきた。着物の上に協会のコート。白髪の短髪に無精髭。足もとが砂を踏む音だけが、夜に残る。
俺は首の後ろで殻を閉じ、殻読みを一度だけ開いた。獅童の胸の下に、数字が浮く。
5,600
(国家級)
獅童は柵の手前で足を止めた。照明の白を半分だけ浴びて、残り半分は夜のまま立っている。それから、こちらを一瞥した。目が合った。長くはない。一秒にも満たない。
「そうか」
獅童はそれだけ言った。声は低く、砂に吸われた。
「……どうも」
俺はそれだけ返した。獅童はもうこちらを見ていない。柵の向こうの空を見ている。口は動かない。説明しない人だ、と俺は思った。大鳥さんより短い。
車の反対側からもう一人降りた。鷹宮紗夜だ。協会の白と紺の制服。黒髪のショートボブが、海からの風に少しだけ揺れている。係員が駆け寄って、頭を下げて封鎖の配置を早口で説明し始めた。紗夜は端末を片手に、頷きながら数字を確認している。切れ長の目は、柵の向こうの配置図の上にあった。
俺のほうは、見ない。
分かっていた。分かっていて俺は律の三歩前で、ただ立っていた。
柵の向こうに、足場を三つ数えた。白い柵の支柱が照明を受けて落とす影。中継機材の架台が作る四角い影。そして、止めてある協会車両の屋根が地面に落とす、平たい影だ。
(どれも、届かない)
律が端末の画面を見ていた。
「二十三時四十分です」
その声の終わりに、空が裂けた。
音はなかった。黒い空の真ん中が縦に一本、まっすぐに割れる。割れ目の中はもっと黒い。黒いのに、奥がある。吸い込むような暗さだ。
照明が一瞬、負けた。
数秒後、割れ目の縁から赤が滲んだ。血管が広がるように、細い線が何本も外へ伸びていく。赤はゆっくりと濃くなり、門の内側を端から染めはじめた。
獅童が動かない。コートの裾も動かない。
俺は柵の支柱の影を見ていた。
影が、揺れていた。
協会の放送が湾岸に流れた。
「赤化を確認。閉門まで推定三十分」
紗夜が端末を係員に押しつけ、首の後ろに指をかけた。蒼鷹が閉じる。瑠璃色の継ぎ目に青白い光が走り、背に六枚の薄板が開く。獅童もコートを脱ぎ捨て、灰褐色の殻を閉じた。岩のような巨体が一段膨らむ。
二人が跳んだ。風圧で柵が鳴る。
係員が無言で腕を振った。白鷺の隊が揃って首の後ろに指をかけ、白い殻を一斉に閉じる。十数人が地を蹴り、獅童と紗夜の背を追って門へ吸い込まれていった。
俺は柵の切れ目から、内側に一歩だけ入った。靴の底が白線を踏む。もう一歩は踏まない。踏んだら、たぶん戻れなくなる。




