第23話 坊主の門
二日後の朝、俺は汐留町のヤードにいた。
ヤードの真ん中に、黒潮の主力が集まっていた。
蔵前がいた。ヘルメットを小脇に抱えて、鈍い鉄色の盾鎚を足もとに置いている。その隣に戸張。紺のジャケットの袖をまくって、暗い橙の殻をまだ畳んだまま立っている。他に四人。見たことのある顔と、そうでない顔が半分ずつだ。全員が黙っている。
俺は輪の外側、コンテナの陰になる端に立っていた。
大鳥さんが来た。
「集まったな」
「今日入る門を言う」
「地下放水路。暗渠の門。B級の正門だ」
聞いたことがある。澪浜の地下放水路に開いた門で、B級の中でも最難関だと噂される場所だ。円筒の空洞で、音が長く響く。天井に排水管の口が並んでいて、足もとは水路。他のギルドは揃って見送ったと、どこかで聞いた。
「うちの枠で取った。今日、うちが入る」
それだけだった。理由も、覚悟も、励ましも言わない。大鳥さんはそういう人だ。認めるときほど、乱暴に短く言う。
蔵前が黙って盾鎚を担いだ。
戸張が唾を飲んだ。
「自分、行きます」
「当たり前だ。お前はうちの若手だろ」
戸張は背筋を伸ばした。それ以上何も言わなかった。
◇
黒潮の一行はヤードから湾岸の道を歩いた。三十分ほどで、放水路の点検口の前に着いた。
点検口の鉄の蓋が開いていて、地下へ階段が降りていた。
下から冷たい風が上がってくる。
水の匂いが混じっている。海の匂いとは違う。もっと閉じた、鉄と苔の匂いだ。風は途切れずに上がってくる。奥に、太い流れがある。音はまだ聞こえない。匂いだけが先に来ている。
大鳥さんが点検口の手前で足を止めた。端末を閉じて、ジャケットの内側へしまう。それから蓋の縁に立って、下を見た。白髪混じりの角刈りが風のせいで少しだけ乱れている。口にくわえた煙草には、火が点いていない。
律は点検口から離れた位置に立っていた。
門の外、点検口の外だ。ここから十歩ほど後ろ。コンクリートの壁を背にして、両手でストップウォッチを持っている。親指はまだボタンに置いていない。下ろしたまま、こっちを見ている。
(この門は、音を返す)
返ってくる音を、どう使うか。それだけを考えていた。
「坊主」
大鳥さんが階段の闇を見たまま言った。こっちは向かない。
「ここから先は、坊主の門だ。頼むぜ」
六年、この人は一度も俺に頼まなかった。雇って、使って、黙って俺の助言を採った。頼む、とは言わない人だった。
俺は一拍だけ置いた。
「ああ」
階段を下りた。背中で、ストップウォッチのボタンが鳴った。踏板が鳴るたび、その音が遅れて下から返ってくる。
前が開けていた。
門だ。
青い光が円い形で立っている。周りは暗い。暗いのに、その円の中だけが別の色をしていた。
首の後ろに指をかける。
殻が閉じる。
継ぎ目がぴたりと噛み合う。背中から肩へ、肩から前腕へ白い線が一気に走った。薄いひれが二枚、肩と前腕で小さく浮く。
門をくぐった。
空気が変わった。
円筒だった。
見上げると、天井がある。高い。高いというより、遠い。十メートルではきかない。二十、三十。暗さで距離が読めない。目を凝らすと、天井の面に継ぎ目が走っているのが分かった。コンクリートの板が円い形に組み合わされている。その継ぎ目が放射状に広がって中央で一点に集まっている。
継ぎ目のあいだに口が並んでいた。
排水管の口だ。円い穴が等間隔で天井を縁取っている。穴の縁は錆で赤い。どれも暗い。奥が見えない。
水路だ。円筒の底を黒く深い流れが横切っている。俺が立っているのは水路の縁の細い通路だ。幅は一歩半。壁際を水に沿って走っている。
俺は半歩、通路を進んだ。
靴の底がコンクリートを踏んだ。
音が出た。
その音が消えない。
壁に当たって跳ね返って、天井へ上がって円を描いて、また戻ってくる。俺の耳の横を通り過ぎて、背中のほうへ抜けていく。それから、また戻ってくる。
三度目に届いたとき、ようやく消えた。
大鳥さんが通路に立った。錆色の重い甲殻。肩のあたりがこの暗さでも鈍く光る。大鳥さんは音を立てないように立った。立って、円筒を見上げた。
「広いな」
短く言った。その声も、尾を引いた。
大鳥さんが円筒の奥を見た。
「門主は」
俺は首を振った。
「まだ」
「そうか」
蔵前が盾鎚の柄を握り直して、俺を見た。
「灰塚、先に行け」
短い言葉だった。ヘルメットの下の目は冗談を言っていない。
大鳥さんは何も言わない。止めもしない。
俺は全員を見た。蔵前。戸張。四人。大鳥さん。
「三歩、空けてついて来てくれ」
自分から人に指示を出したのは、いつ以来だろう。
蔵前が頷いた。戸張が頷いた。
俺は前へ出た。
通路を進んだ。
後ろから、黒潮の足音が続く。蔵前の重い靴音。戸張の速い靴音。大鳥さんの、ゆっくりとした靴音。全員分のそれがそれぞれ違う高さで尾を引いて、空洞の中で混ざり合っていく。
(先頭は、後ろより静かだった)
俺の音だけがいちばん短い。音を立てないように歩いているからじゃない。自然と、そうなっている。六年、隊のいちばん後ろで背負子を揺らしながら歩いてきた癖だ。気配を消すのが俺の荷運びだった。
曲がり角を曲がると、円筒の奥が開けていた。
天井を見た。二体、逆さに張りついている。
翼が薄い。膜の向こうに天井の継ぎ目が透けて見える。体は小さい。だが翼を畳んだ幅だけで、俺の背丈を超える。
天井蝙蝠。
そのとき、排水管の口から黒い粒が溢れた。
小さな蝙蝠の群れだ。
(音を立てるな)
心の中でそう唱えてから、俺は半歩、通路を蹴った。
影走り。
靴の裏が壁に吸い付く。そのまま二歩、三歩と駆け上がる。壁は冷たい。蹴るたびに、かすかな音が立つ。
天井が近い。
継ぎ目の溝が手の届くところまで来ている。俺は指先を溝に引っかけて、体を逆さにした。頭が下を向く。足が天井を踏む。靴の底がコンクリートの目地を噛んだ。
逆さのまま、走る。
蔵前が動いた。
盾鎚を振る音がする。鈍い音だ。鉄が空気を噛んで、何かを叩き潰す。一匹二匹。音が重なる。その音が空洞に尾を引いて、天井まで届く。
俺は走り続けた。
天井の継ぎ目を逆さのまま。右の天井蝙蝠が翼を広げかけた。薄い膜がびりびりと震える。目が開く。黒い目が逆さの俺を映す。
(遅い)
その目が俺を捉えるより先に、俺は天井を蹴っていた。
体が天井から離れる。
逆さのまま、天井蝙蝠の翼の上へ出る。翼が俺の足の下で波打つ。
踵を返す。
薄刃。
踵の縁が刃になる。狙うのは翼の付け根だ。天井に張りついた胴と、翼を繋ぐ細い関節。あそこを断てば、こいつは落ちる。
踵を振り下ろす。
硬い音がした。骨を断つ音だ。翼の付け根がぱきりと鳴って薄い膜がだらりと垂れる。
天井蝙蝠が傾いだ。
逆さのまま、翼をばたつかせる。片翼だけになった体が天井を離れて落ちていく。
俺は天井を蹴った。
影走り。落ちる蝙蝠を避けて継ぎ目へ戻る。靴の底がまたコンクリートを噛んだ。
俺は落ちる蝙蝠を追わず、溢れた小蝙蝠の群れを一度だけ突っ切った。散った羽音が壁に返る。
二体目が翼を広げた。
俺は継ぎ目に指をかけたまま、一歩だけ横へずれた。
翼の付け根が目の前にある。天井に張りついた胴と、膜を繋ぐ細い関節。白い筋が暗さの中に見えた。
薄刃。
硬い音がした。骨を断つ音だ。さっきと同じ音。同じ手応え。翼の付け根がぱきりと鳴って薄い膜がだらりと垂れる。
落ちていく天井蝙蝠が小蝙蝠の群れの中へ突っ込んでいく。羽音が一瞬だけ大きくなった。それから、水の上に落ちる音がした。鈍い音だ。膜が水を打って、しぶきが上がる。しぶきの音が壁を這って遅れて返ってくる。
俺は逆さのまま継ぎ目に指をかけて、息を整えた。
そのとき水路の水面の下で、何かが動いた。
音だった。水の下で、重いものが、ゆっくりと身を翻す音。水を押しのける音。俺はそれを天井の上で聞いた。
音は水路の壁に当たって返ってきた。
だが、返り方が違う。
さっきまでの音は円筒の壁に当たって円く返ってきていた。平たく返る空洞もあった。だが今の音は一箇所だけ遅れて返ってきた。
一箇所だけ。水路の右岸の壁の、水面のすぐ下。そこだけ音が遅れて返ってくる。
(そこに、何かいる)
天井の継ぎ目から足を離した。
体が落ちる。音が遅れて返った、あの場所へ向かって。
(落ちている最中は、走れない)
俺は足を伸ばした。
靴の底が水面に触れる。
沈まない。
水の上の影を靴が噛んだ。
視界の端に、白い文字が一行。
【影走り Lv.7】
俺はそのまま走った。
水の下で、門主が背を丸めた。
水面が持ち上がる。
盛り上がった水が割れて、黒い背が現れた。
長い。どこまでも長い胴だった。水面を割って背を出す。その背には節がある。節の継ぎ目が一筋だけ薄く光る。黒い背に、その線だけが骨の色をしていた。
(これが暗渠の主か)
俺は水面を走った。
胴が動いた。
水が壁を打つ。
打った音が遅れて返る。
(右岸)
次は右だ。
俺は背に並んだ。
今は、音を聞く。
水の下で、門主が一度だけ深く沈んだ。
水面が静かになる。
静かになった瞬間がいちばん怖い。
(来る)
水路の真ん中から、黒い背が垂直に立った。
水の柱が上がる。
俺は横へ跳んでいた。
水柱が壁を打つ。空洞が揺れた。遅れて、天井から錆がぱらぱらと落ちてくる。
水柱が崩れた。
門主の背が水面へ倒れた。
俺は水面に着地した。
背が目の前にある。
節の継ぎ目が一筋だけ、薄く光っていた。骨の色だ。暗い水の上で、その一筋だけが線として見える。
(あれだ)
だが、水面は揺れている。門主の胴が倒れた反動で、水がまだ静まらない。揺れる水面に背の影が落ちて、細かく割れている。影が割れれば、縫影の狙いも定まらない。
前腕の縁から、薄い殻片を一枚はがして握った。角を掌で一度確かめる。
縫影は〇・五秒だ。
(一瞬でいい)
一瞬で、乗る。
水面の揺れが一度だけ緩んだ。影の割れ目が寄って、一筋の線に戻る。
その瞬間を狙って、俺は殻片を投げた。
縫影。
殻片が背の影に刺さる。
刺さった影が止まった。
門主の胴が止まる。水を押しのける動きがその場で固まる。節と節のあいだの光が動かない。周りの水だけがまだ揺れていて、止まった胴との境目で細かく跳ねている。
〇・五秒。
走った。
水面を蹴って背へ。靴の底が黒い節を噛む。滑る。爪先を立てて、もう一歩。節と節のあいだを渡る。継ぎ目が足の下にある。薄く光る線がまっすぐに伸びている。
踵を返す。
薄刃。
踵の縁が刃になる。
振り下ろす。
手応えが骨を断つ。硬い音が一度鳴って、それきりだった。節の継ぎ目が光る線の上で割れた。割れた線から、水が噴き出す。黒い水が細く高く上がる。
門主が動いた。
止まった〇・五秒が明けて胴が跳ねる。跳ねた拍子に俺は背から振り落とされた。水面が下にある。俺は足を伸ばして、水を踏んだ。
影走り。靴の底が水を噛む。沈まない。着地の衝撃で波が立ち、波が壁を打ち遅れて返る。
背が崩れた。
節という節が割れた継ぎ目から順にほどけていく。長い胴が水の上でばらばらになって、重い音を立てて沈んでいく。沈むときに水を押しのける音がした。低い。低くて、長い。長い音が空洞を一周して、二周してようやく消えた。
俺は水の上に立ったまま、息を吐いた。
視界の端に、白い文字が二行。
【経験値を取得しました +4,562】
【レベルが上がりました Lv.18→Lv.19】
通路の上で、戸張が蔵前の後ろから顔を出した。口が開いていた。何か言おうとして、言葉が出てこないらしい。蔵前は盾鎚を下ろして、ヘルメットの下で一度だけ頷いた。大鳥さんは腕を組んだまま、何も言わなかった。言わないかわりに、鼻で一度だけ笑った。
俺は水面から通路へ上がった。靴の底がコンクリートを踏む。その音がさっきまでよりずっと短く返ってきた。
俺は首の後ろに指をかけて、殻を畳んだ。
継ぎ目が静かに沈む。
戸張がようやく口を開いた。
「……見えなかったっす」
「ああ」
俺はそれだけ返した。
◇
階段を上がる。
点検口から外へ出た。
光がいきなり顔を叩く。
律がコンクリートの壁を背にして立っていた。
律は小さく頷いてストップウォッチを止めた。
「三十三分八秒です」
「三十三分八秒」
B級の最難関。地下の門。黒潮の主力が揃って入って、この時間だ。
そのときだった。
黒潮の全員の端末が同時に鳴った。
通知の音が湾岸の道に重なって鳴った。
俺も端末を取り出した。画面に、協会の通知が一件。
『澪浜湾上空に門の出現を予測。門圧、国家級相当。開門は四日後の夜。国家級の招集を決定』
大鳥さんの口から、くわえていた煙草が落ちた。
煙草は地面で小さく跳ねた。
蔵前が眉を寄せて端末を見たまま動かない。戸張は息を呑んで、何か言いかけてやめた。
律が手帳を握ったまま俺を見る。眼鏡の奥の視線が一瞬だけ揺れていた。
俺は端末をしまった。
湾のほうを見る。
空はまだ明るい。雲もない。鳥もいない。
何もない空が昼前の光をそのまま返していた。
風が海から吹いて草を倒し、また起こす。
煙草の火が砂の上で細く消えた。




