第22話 正しい手続き
三日後の朝、協会澪浜支部の前の階段で律と落ち合った。
海側から風が来る。砂利がひとつ、靴の先を転がっていく。律はもう来ていて、手帳を胸に抱えたまま立っていた。眼鏡の奥の視線が、俺の足もとから顔へ上がる。
「おはようございます」
「ああ」
俺は一段下から階段を見上げた。白い石が十一段。手すりの塗装が、端のほうで剥げている。
「三日前の夜の数字は」
律は手帳を開いた。
「影の高さです。湾の上、四百二十メートルでした」
指が頁の一点を押さえている。押さえたまま、律は続けた。
「門圧計は、まだ揺れているそうです」
俺は振り返って、湾のほうを一度だけ見た。
建物と建物の隙間。その奥に、細い水平線が光っている。何もない空だ。雲もない。鳥もいない。
見ているうちに、目が疲れた。ただの空だ。空は、いつも何もない。
俺は前へ向き直った。
「行くぞ」
「はい」
階段を上がる。三段目で、律の靴の音が三歩後ろについた。
俺は扉を押した。重い。取っ手が冷たい。蝶番が低く鳴って、中の空気が外へ流れ出してくる。消毒液と、紙の匂いがした。
律が続いて入る。扉が背後で閉まる音が、やけに静かだった。
協会の一階は朝から紙の匂いがした。入札窓口の前に、大鳥さんが立っている。腕を組んで、壁の板を見上げていた。白髪混じりの角刈りが、照明の下で短く光る。
板には今朝の正門の入札結果が貼り出されている。黒潮が今日入るはずだった旧港のB級正門は、白鷺が押さえていた。数字が三つ並んでいる。落札額が、黒潮の出した額より僅かに上だった。
大鳥さんは板を見たまま、何も言わない。指先が二の腕を一度だけ叩いた。
律が三歩後ろで手帳を開いた。ペンは持っていない。ただ開いただけだ。
窓口の向こうで端末が鳴る。紙をめくる音が続く。誰かが低い声で「また白鷺か」と言って、すぐ黙った。
「灰塚迅さん」
登録課の窓口から真柴さんが俺を呼んだ。ひっつめ髪に銀縁の眼鏡。声はいつも通り平らで、感情の凹凸というものが最初から削られている。
俺が窓口へ歩いていくあいだ、大鳥さんは板を見たまま動かなかった。律が三歩後ろで手帳を抱え直す。
真柴さんは一枚の紙を掲げた。本部からの通知だ。
「読み上げます。等級未定の者が赤化門に入るには、現場の国家級指揮者の許可を要する」
一息で読み切って、紙を下ろす。
「第二十二条に、一項を加えます」
条の番号だけ言う。理由は言わない。この人はいつもそうだ。窓口の向こうで端末が鳴っている。
「白鷺さんの抗議文を受けて、本部が決めました」
それだけ付け足した。付け足しの声も、本文と同じ平らさだった。
(ふうん、と俺は思った)
等級未定。つまり俺のことだ。八日前は、等級なしのまま赤化の門をくぐれた。今日からは、誰かの許可がいる。
「そうか」
俺は言った。それ以上の言葉が出てこなかった。出てこなくても、真柴さんは困らない。
「結構です」
真柴さんは紙を二つ折りにして、記録簿のあいだに綴じた。ぱん、と乾いた音がした。それで終わりの音だった。
窓口を離れるとき、律が三歩後ろから小さな声で言う。
「これで、赤化の門には灰塚さんは許可なしでは入れません」
俺は答えない。答えないまま、板の前の大鳥さんの横を通り過ぎた。
律が三歩後ろで手帳を閉じる音がした。
そのとき、入札窓口のほうから白い装束の一団が出てきた。五、六人。先頭の男が俺の前で足を止めた。
白峰だった。色素の薄い髪。白いロングコート。殻は畳んでいる。襟の金の線だけが、照明の下で細く光った。
「灰塚くん」
穏やかな声だった。怒鳴らない。見下さない。それでいて、その声にはホールの空気をこっちへ寄せる力があった。
「今朝の通知、読んだかい」
「ああ」
「あれは、君のためでもあるんだ」
白峰は少しだけ首を傾けた。
「白鷺はね、門で人が死なないための組織なんだよ。だから門は正しい手続きで取る。誰が入って、誰が許可したか全部記録に残す。それが一番合理的だよ」
大鳥さんは入札窓口の前から動かなかった。腕を組んだまま、板のほうを向いている。
「総帥がね」と白峰は続けた。「鷲尾さんが、君に関心を持っている」
名前だけだった。名前だけ置いて、白峰は黙った。
俺はその沈黙を、二つ数えてから受けた。
「そうか」
白峰は俺の顔を見て、少しだけ笑った。目だけで笑う笑い方だった。
「うん。そう返すと思ったよ」
白い装束の一団が、背後の扉へ流れかける。律が三歩後ろで、ペンを握ったまままだ何も書いていなかった。
「なら、別の門だ」
俺は白峰の背中に言った。
白峰が足を止めて振り返る。色素の薄い髪が、ホールの照明の下で揺れた。
「そう。それがいいと思うよ」
白峰は笑った。また目だけで。
そのときだった。
「坊主」
入札窓口の前から大鳥さんの声が飛んだ。端末を見たまま、顔は上げない。
「硝子の森。うちの枠だ。今開いた」
白峰は目だけで笑ったまま一瞬だけ動きを止めた。後ろの隊員が端末を覗き込んだ。白峰はその隊員を片手で制して、俺のほうへ向き直る。
「そう」
それだけ言って、白い装束の一団は扉へ流れていった。
律が三歩後ろで息を呑んだ。俺は振り返った。
大鳥さんはそれ以上何も言わない。端末を戻して、腕を組んだ。
同じ時刻に開いた、別のB級正門だ。
(開いた、今)
俺は律を見た。
「行くぞ」
「はい」
律が手帳を閉じる。靴音が三歩後ろについた。協会の扉を押す。外の風が、紙の匂いを後ろへ押し返した。
◇
硝子の森の門は、埋立地の南の外れに開いていた。
門の口の外に、中継の機材が並んでいる。三脚が二本。撮影の人が一人、レンズをこちらへ向けていた。その隣に、律が立つ。
「入りますか」
「ああ」
律は門を越えない。ストップウォッチを両手で持って、親指をボタンに置いた。
「行けます」
俺は首の後ろで殻を閉じた。継ぎ目が、ぴたりと噛み合う音がした。
門をくぐる。空気が澄んで、冷たい。音がよく響く。靴の底が石を踏む音が、二度、三度と遅れて返ってくる。
中は、ガラスの樹だった。
幹も枝も透き通っている。向こう側が見える。見えるのに、奥が読めない。光が枝という枝で折れて、視界のあちこちに細かい虹を作っていた。
足もとに、割れた枝が散らばっている。踏むと鳴る。鳴ると、どこかで何かが動く。
(静かに、か)
視界の端に、白い文字が一行。
【日課:無被弾撃破 60】
俺はそれを見て、息を一つ吐いた。六十。一度も触れられずに、だ。
門の外で、律がストップウォッチを押す音は聞こえない。聞こえないが、たぶん押している。
ガラスの枝が足もとで鳴った。
その音に応えるように森の奥がざわめく。細い虫が湧いてくる。体がガラスだ。羽根も脚も透き通って、光を細かく散らしながら寄ってくる。数は多い。だが遅い。
俺は首の後ろに指をかけた。
換装。白の線が琥珀へ変わる。肩のひれが牙の形に組み替わる。〇・五秒、殻が薄い。
群れが迫る。
伏せ駆け。ガラスは踏まない。割れた枝の上を、音を立てずに滑る。牙走。前腕を低く流す。一匹。二匹。羽根だけが宙に残って、きらきらと落ちていく。
右から来る。左へ抜ける。上から来る。半歩沈む。牙が背を断つ。触れさせない。一匹も。数は数えない。数えれば遅れる。
奥からまた湧く。枝の隙間を縫って、細い光の帯が幾筋も寄ってくる。ガラスの幹を蹴った。影走り。幹を伝って上へ。群れが下で渦を巻く。落ちる。牙を広げて、渦の中心へ。
着地。割れる音が一度だけ遅れて鳴った。ガラスの破片が、足もとで細かく跳ねる。
残りは三匹。二匹。一匹。
最後の一匹が羽根を止めて、ぱらりと落ちた。
森が静かになる。澄んだ空気が戻ってくる。俺は首の後ろに指をかけて、換装を解いた。琥珀の線が白へ抜けていく。肩の牙がほどけて、前腕のひれへ戻る。
息を一つ吐いた。
(五十九)
数えていない。数えていないが、分かる。最後の一匹が落ちる前に、俺の目はもう次の動きを探していた。探して、何もなかった。
殻ログは出ない。日課の文字も、まだ白く浮かんだまま消えない。
ガラスの樹が、根元から割れた。
音は遅れて届く。ぱきりではなく、ぐしゃりに近い。枝が散る。光が折れる。森の空気が、一瞬で尖った。
倒れた樹の向こうから、門主が出てきた。
玻璃蟷螂だ。
全身が透き通っている。脚も腹も胸も、光を通して後ろの景色を歪ませる。鎌だけが、やけに硬そうだった。薄い刃の内側に、細かい鋸の影が走っている。
俺は殻読みを開いた。胸の下に、数字が浮かぶ。
900
九百。俺の素の殻は千五十。数字だけなら、負けていない。
(換装は、しない)
素の第二殻で行く。この門主に、狼は要らない。
玻璃蟷螂が動いた。鎌を振る。そばの樹が根元から割れて傾いた。二本目。三本目。振るたびに樹が倒れる。倒れた樹が、次の樹を巻き込んで砕ける。ガラスの破片が、細かい雨みたいに降ってくる。
俺はその音を聞いていた。
(決まってる)
樹が割れる順番だ。鎌は右から左へ流れている。次に倒れるのは、左から三本目の二股に割れた若い樹だ。
俺はまだ斬りかからない。
破片を踏まない。音を立てない。樹と樹のあいだを、斜めに進む。
玻璃蟷螂が、また鎌を振り上げた。
左から三本目が、根元から鳴った。
その樹が、根元から傾き始めた。
俺は駆けていた。傾いた幹の上を、影走りで。倒れ切る前の幹だけが走れる面だ。落ちていく途中のものは走れない。だが、まだ傾いているだけの幹は走れる。
靴の底が樹皮を噛む。ガラスが鳴る。幹がさらに傾く。俺は傾きに合わせて足を速めた。幹の先が迫る。枝が分かれている。二股の若い枝だ。
跳んだ。
枝を踏む。しなる。その反発だけで足りた。体が宙へ出る。玻璃蟷螂の背が下にある。透き通った背中。向こうの景色が歪んで見える。
降りる。
背の上に乗った。足の裏で硬さを確かめる。硬い。滑る。爪先を立てた。鎌の付け根が目の前にある。薄い刃の内側、鋸の影が走っている。
(ここだ)
踵を返す。薄刃。踵の縁が刃になる。付け根へ叩き込む。手応えが骨を断つ。硬い音が一度鳴って、鎌が垂れた。
もう片方。
体を反転させる。空返しは使わない。背の上で半歩、踏み替えただけだ。もう一つの鎌の付け根へ、同じ重さで叩き込む。
二度目の硬い音。
玻璃蟷螂が崩れた。前脚から順に、透き通った体が森の床へ沈んでいく。鎌が二本、ガラスの破片の上に落ちて軽い音を立てた。
俺は背から降りた。足もとで割れた枝が鳴る。
一度も触れられていない。
息を整える。澄んだ空気が肺に入って、冷たい。森が静かになる。光だけが、まだ枝のあちこちで折れていた。
視界の端に、白い文字が四行。
【日課:無被弾撃破 60(60/60)達成】
【連続33日:共鳴+1】
【経験値を取得しました +3,860】
【レベルが上がりました Lv.17→Lv.18】
門の外に出ると、空気がまた変わった。海の匂いが戻ってくる。律がストップウォッチを止める音がした。
「三十八分です」
律はそう言って、もう一度「三十八分」と繰り返した。三脚の向こうで撮影の人のレンズがこちらを向いている。赤いランプが点いていた。俺は首の後ろに指をかけて殻を畳んだ。継ぎ目が静かに沈む。
撮影の人がカメラから顔を上げて、「B級を一人で、三十八分って……」と俺に声をかける。
「ああ」
俺はそれだけ返す。たまたまだ、とは言わない。海風が首筋を撫でていく。
律は手帳を開いてペンを走らせた。顔を上げずに言う。
「今日はゼロです」
「数えるな」
律はペンを止めない。
「記録はします」
そう言って、ようやく顔を上げた。眼鏡の奥の視線が、俺の肩のあたりを一度だけ見て、また手帳へ戻る。
門の外で三十分あまりが過ぎた。律は三歩下がった位置に立ち、端末の攻略中継を開いていた。画面には二つの門が並んでいる。旧港の白鷺の門と、目の前の硝子の森の門だ。
白鷺の門から白い装束の隊が出てくる。整った列だった。実況の香坂が穏やかな声で言う。
「白鷺第一攻略隊、一時間十二分……黒潮の門、三十八分で——」
語尾が消えた。香坂はそこで一度息を呑んだようだった。中継の音が小さくなる。律は端末を見たまま何も言わない。
画面の下を、コメントが流れ始めた。
《黒潮はやっ》
《三十八分て》
《白鷺より三十四分早い》
《あの墨色の人か?》
《映ってないぞ今の》
律は黙って、その画面を俺のほうへ向けた。
風が海から来て、パーカーの裾を揺らした。律はストップウォッチのボタンに親指を置いたまま、門の青い光を見つめていた。
しばらくして、白鷺の白い指揮車が門の前へ滑り込んできた。停車の音がやけに静かだった。降りてきたのは白峰一人だった。他の隊員は車の中に残っている。白峰は自分の端末を一度だけ見下ろした。中継の攻略時間を確認したのだろう。それから顔を上げた。
穏やかな笑みは、もうなかった。
「……灰塚」
呼び捨てだった。「くん」が消えていた。声色は変えていないのに、その二文字だけで空気の質が変わった。海風が草を倒し、また起きる。
「湾の門は白鷺が取る。国家級の指揮下でね」
言い切って、白峰は口を閉じた。付け足しも、笑みも合理的という言葉もない。
俺は返事をしなかった。湾のほうを見た。
白峰も同じほうを見ていた。




