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第21話 墨色の人




目が覚めたのは、窓の外が白み始めた頃だった。


天井がある。灰町のアパートの天井だ。木目が三本、横に走っている。見慣れた三本だ。


体を起こすと肩と背中が少しだけ重い。殻の名残だ。殻を畳んでも、翌朝はいつもこうなる。筋肉痛とは違う。もっと内側の、骨の裏側みたいな場所がじんわりと熱を持っている。


(今日は、門に入らない)


そう決めていた。決めていたというか、大鳥さんの電話が来なければ入らない、というだけの話だ。俺は端末を枕元から拾った。


画面に一件。母からだった。


『無理しないで』


短い。毎週同じ文面だ。句読点もない。スタンプもない。絵文字もない。うちの母は、文字を打つときだけ異様に簡潔になる人だった。


俺は親指で返す。


『してない』


送信。すぐに既読がついた。母は朝が早い。既読のあとに何も来ない。それでいい。うちの母は、返事が来たらそれで終わりにする人だ。


端末を伏せて、窓へ目をやった。


カーテンは開けっぱなしで寝る。締め切ると朝が来ない気がするからだ。窓の向こうに、澪浜高架が見える。


高架は、この部屋からだと丁度まんなかあたりに走っている。灰色の柱が等間隔で立って、その上を太い梁が渡っている。朝の光を受けて、梁の腹がうっすら白い。まだ車は少ない。一台、二台。ヘッドライトが点いたまま、ゆっくりと東へ流れていく。


高架の向こうに、街がある。屋根が重なってその隙間から細いビルが何本か顔を出している。もっと向こう、霞んだあたりが湾岸だ。埋立地だ。昨日、俺はあそこに立っていた。


(昨日)


思い出そうとして、やめた。体がまだ覚えている。思い出す必要はない。腹の底に残っている疲れが、昨日の全部を代わりに語ってくれる。


窓ガラスに、俺の顔が映った。寝癖がひどい。右の髪が跳ねて、左が潰れている。顔色は悪くはない。良くもない。普通だ。


(普通でいい)


普通が、いちばん難しい。六年かけてようやく分かってきたことだ。


台所に立ってやかんを火にかけた。しゅうしゅうとガスが鳴る。その音を聞きながら、俺は窓のほうをもう一度見た。


高架の上を、今度は長いトレーラーが通っていく。


やかんが鳴った。火を止めて、湯をカップに注ぐ。インスタントの袋を破る。湯気が立つ。匂いが立つ。


窓の外、高架の向こうの空が少しずつ青くなっていく。


今日は、どこにも行かない。壁面走行の日課だけ済ませて、あとは寝転がっていよう。それでいい日だ。そういう日があってもいい。


俺はカップを持って窓際に座った。床に直接だ。冷たいが、すぐに慣れる。


高架を、また一台通っていく。今度は白い軽自動車だ。ゆっくりと、朝の速さで。


俺はそれを、湯気の向こうから眺めていた。


  ◇


高架の側壁は、朝の光でまだ冷たかった。


俺は歩道の端に立って、手のひらを壁に当てた。ざらざらしている。コンクリートの目が粗い。指先で二度、叩く。音は乾いていた。


(今日はここから)


日課だ。壁面走行、三キロ。連続二十九日。今日で三十日になる。三日に一度、能力が一つ上がる。三十は、三の倍数だ。


首の後ろで殻が閉じる。


俺は靴の底に体重を乗せた。影走り。靴が壁に吸い付く。そのまま二歩、三歩と駆け上がる。


下を見た。車道が詰まっていた。赤い尾灯が数珠みたいに連なって、ほとんど動かない。クラクションが一度鳴って、それきり黙った。


風が強い。海側から吹き上げてくる。壁に張り付いた体を、風が横へ押していく。俺は指先を目地に引っかけて、体を壁に戻した。


「ママ、あれ」


声がした。


歩道橋の上だった。手すりに手をかけた子どもが、こっちを指さしている。隣の親が、その手をそっと下ろした。


俺は壁を蹴った。上へ。四歩、五歩。風が耳の横を通っていく。車道の音が、下の方で細くなっていく。


帽子が飛んだのは、俺が五歩目を踏んだところだった。


歩道橋の上で子どもが手すりから身を乗り出していた。赤い帽子だ。つばが風を掴んで、宙へ浮いた。


(まずい)


そう思った時には、もう帽子は手すりを越えていた。


風は海側から吹き上げている。帽子は真横へ流れて、車道の上へ落ちていく。赤いのが、赤い尾灯の上を渡っていく。


俺は壁を蹴った。


落ちる。影走りは壁を走る能力だ。壁が無ければ、ただの落下だ。


(下に、トラック)


白い箱車が詰まって止まっている。俺はその側面に足を当てた。靴の底が鉄板を噛む。塗装が滑る。爪先で二度、蹴って上へ。


箱の屋根に出る。風が体を押す。帽子はもう三台先だ。


バスがいた。屋根が平たい。俺は箱車の屋根を蹴って、バスの屋根へ渡った。着地の音は風が消した。


帽子が落ちる。落ちながら、右へ流れていく。


道路脇の防音壁が近い。透明な板が、支柱の間に張ってある。俺はバスの屋根から跳んだ。防音壁の支柱に手をかけて、体を横へ振る。


(届くか)


届かせる。


支柱を蹴った。体が横へ飛ぶ。車道の真ん中、赤い尾灯の列の上を俺は斜めに落ちていく。


帽子が風に跳ねた。もう一度、浮く。


俺は左手を伸ばした。


指先が、つばを掴んだ。


掴んだ瞬間、体が下へ引かれる。帽子の軽さと、俺の重さは釣り合わない。だが掴んだものは離さない。


俺は落下しながら、右足を一台の軽自動車の屋根へ落とした。屋根が鳴った。誰かがクラクションを鳴らした。


俺は屋根の上で一度、膝を曲げて止まった。


風が帽子のつばを揺らしている。赤い布が、俺の手の中で震えていた。


歩道橋の上で子どもが口を開けていた。隣の親も、同じ顔をしていた。


俺は屋根から降りた。車の間を縫って、歩道へ。歩道橋の階段を上がる。


子どもは手すりに掴まったまま、動かなかった。


俺は帽子を差し出した。


「落ちた」


それだけ言った。


子どもは両手で受け取った。親が、俺の殻と帽子を二度見した。


「すみません、ありがとうございます」


「ああ」


俺は階段を下りた。


壁面走行の続きは、まだ残っている。


俺は壁に手を戻した。指先が目地を掴む。残りはまだある。


影走り。靴の底がコンクリートを噛んで、上へ。風が横から押す。押されるたびに、指先で受け直す。走る。走る。高架の梁が近づいて、頭の上を通り過ぎた。


端まで来た。折り返す。


下りは速い。蹴るたびに車道の音が近づいてくる。赤い尾灯、白い箱車、バスの平たい屋根。さっきまで俺が渡っていた場所だ。


歩道の端に足が着いた。音は出さない。


視界の端に、白い文字が二行。


【日課:壁面走行 3km(3000/3000)達成】


【連続30日:敏捷+1】


俺は息を整えてそれを見た。三十日。三日に一度の、十回目だ。


(地味に、積もってる)


壁から手を離す。俺は殻を畳んだ。手のひらが冷たい。腿を二度叩いて、歩道を歩いた。高架の下に古い自販機が一台ある。青い塗装が褪せて、下半分が錆びている。


百三十円。いつもの缶コーヒーだ。落ちてくる音が、やけに大きく響いた。


プルタブを起こす。しゅっ、と炭酸の抜ける音に似た息が出た。違う、これはコーヒーだ。


一口飲む。甘い。温い。うまいかと訊かれたら、うまいとは言わない。ただこの味だ。六年、同じ味だ。


俺は自販機の横に立ったまま、缶を持った。高架の上を車が一台通っていく。風が残りを海へ運んでいく。


  ◇


昼過ぎの高架下は風が抜けなかった。ベンチに座っていると、車の音が頭上で途切れずに鳴っている。俺は空になった缶コーヒーを足元に置いて、高架の柱の影を眺めていた。


律が来たのは、ちょうど日が柱の向こうへ傾きかけた頃だった。灰色のパーカーのポケットに両手を突っ込んで、小走りに近い早足で。


「灰塚さん」


律は俺の隣に腰を下ろすと、端末を出した。防水ケースが日光を鈍く返す。


「これ、見てもらえますか」


画面をこちらへ向ける。動画だった。


最初の映像は広場だ。封鎖線の黄色いテープが風に揺れている。その向こうを、墨色の殻装が横切る。歩く速度だった。人だかりの隙間から一瞬だけ背中が見えて、すぐ建物の影へ消える。十三日前、あの広場の端だ。


次の映像は、白鷺の赤化の門の出口だった。中継の切り抜きらしい。照明が白く焚かれた通路の奥から、墨色の殻装が出てくる。こちらは正面に近い。だが顔は映っていない。頭の殻の影と、肩のひれの輪郭だけがはっきりしていた。


二つの映像が繰り返しつながる。広場の背中。門の正面。広場の背中。門の正面。画面の隅に「墨色の人」と白い字幕が小さく出ていた。


律は再生を止めた。


「再生数、三百十二万四千です」


一度、そこで区切った。


「三百十二万四千」


二度目は、もっと小さな声だった。


律は端末を膝の上に置いたまま、高架の柱のほうを見た。車が一台、上の梁を軋ませて通っていく。


「十三日前の広場と、五日前の門です。繋いであります」


律はそれだけ言って手帳を開いた。ペンは持ったまま、まだ何も書かない。


風が足元の空き缶を揺らして、かすかな音を立てた。


画面から目を外した。高架の柱の上のほうで、鳩が一羽、羽を畳んでいる。


「たまたま映っただけだ」


俺は言った。言ってから、空き缶を拾った。


律は何も言わなかった。手帳を膝の上で開いたまま、静かにページをめくっていく。紙の擦れる音だけが、車の音の下で規則的に鳴った。


律の指が、ある日付のところで止まった。


「十八日前と同じ言い方です」


律は顔を上げなかった。黒縁の眼鏡の奥の視線は、手帳の一点に落ちている。


「外壁を走った動画を見せたときも、灰塚さんは、たまたま映っただけだと」


俺は缶コーヒーの空き缶を、指で二度回した。言い返す言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。


律はペンを抜いた。そしてその十八日前の行の下に、今日の日付を書き足した。日付の横に、何か短い記号を一つ。俺には読めない。


律は手帳を閉じた。


鳩が飛び立った。羽音が、高架の下にやけに大きく響いた。


  ◇


その夜、端末が一度だけ鳴った。


律からだった。


『これだけです』


短い文と、リンクが一つ。


市民が撮った動画らしい。澪浜湾の夜景だ。


開くと、暗い海と街の灯りが揺れていた。手ぶれがひどい。誰かが笑う声が入っている。


花火の試し打ちだった。


一発、二発。空に小さく開いてすぐ消える。


三発目が消えたあとだった。


湾の上の、何もない空が一瞬だけ縦に暗くなった。


門の形だった。


光じゃない。影だ。縦長の、輪郭だけの。


次の花火が上がって、影はもう無かった。


誰も何も言っていない。撮った本人も気づいていない。


俺はもう一度、再生した。


指先で巻き戻して、同じところで止める。


やはり一瞬だけ、暗い縦の線がある。


もう一度、再生した。


画面の隅で数字が動いていた。


再生数が、百、二百と増えていく。


俺は端末を伏せた。


天井の木目を三本、数えた。


窓の外で、高架の灯りがひとつまたひとつと流れていく。


また、鳴った。律からだった。


今度は数字だけだった。

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