第20話 脱ぐ
牙が、首元に届く。
残殻。
薄皮が一枚、首の形のまま残る。
俺は三歩横にいた。
群れの頭の牙には、その薄皮だけが刺さっている。
俺は首の後ろに指をかける。
換装。
白の線が琥珀へ変わる。
肩のひれが外れ、牙の形に組み替わる。
〇・五秒。
殻が薄い。
群れの頭が振り返る。
俺はもう低い。
草の穂が風で倒れる。
その一瞬、首筋が露わになった。
狩り納め。
一閃。
前腕の牙が首の付け根を横に断った。
手応えが厚い。
それでも断てる。
牙が通ったあと、群れの頭の脚が一度だけ草を掻いた。
動かなくなった。
風が血の匂いを運んでいく。
視界の端に、白い文字が一行。
【レベルが上がりました Lv.16→Lv.17】
俺はそれを見て、一度だけ息を吐いた。
草が、静かに揺れた。
戸張が盾の陰から半分だけ顔を出した。
「……頭まで、っすか」
蔵前は何も言わず、盾鎚をゆっくり下ろした。柄が草を鳴らす。
大鳥さんが鼻で一度だけ笑った。
「帰るぞ」
◇
大鳥さんから電話が来たのは、二日後の昼過ぎだった。
「坊主。湾岸の三番。B級の正門だ。うちの枠で取った。名簿はうちの隊で出してある」
「今日はお前と記録係だけで入れ」
それだけ言って電話は切れた。
俺は律にだけ伝えた。
律は手帳を開いて、門の番号を書き写した。
「湾岸の三番ですね」
「ああ」
律は背負子を背負っていた。
俺の荷運び用の背負子だ。
空だった。
湾岸の三番の門は、埋立地の北端にあった。
青い光が、草の向こうに立っている。
風が海側から吹いていた。
膝までの草が一面に倒れ、また起きる。
律がストップウォッチを首から下げ直した。
「大鳥さんは、今日は来ないんですか」
「来ない」
「二人だけですか」
「そうだ」
律は頷いて、手帳を開いた。
「では、記録します」
門の青い光が、草の上をゆっくりと撫でていく。
「行くぞ」
「はい」
律が三歩後ろに続いた。
門をくぐると、空気が変わった。
風の音が消える。海の匂いも消える。
目の前に石の段々畑が斜面に何段も続いていた。
石垣は苔むしている。段と段の間に枯れた水車が一つ立っていた。羽根は回らない。軸のところで止まっている。
俺は足もとの石を踏んだ。乾いている。
振り返ると、門の口に律が立っていた。
律は門を越えなかった。ストップウォッチを両手で持って、口の外からこちらを見ている。
「灰塚さん、聞こえますか」
声は届いた。距離はある。
「ああ」
「行けます」
律はそれだけ言って、親指をストップウォッチのボタンに置いた。
段を下り始めると、石垣の隙間から甲虫が這い出した。
黒くて平たい。
背を重ねるように群れて寄ってくる。
一匹が俺の足首を噛んだ。
小さくても数が厚い。
次の段から、また湧く。
数は二十四。
俺は首の後ろに指をかけた。
換装。
白い線が琥珀へ変わる。
肩のひれが外れて牙の形に組み替わる。
群読み。
甲虫の群れの次の動きが全部見えた。
右の五匹は回り込む。
左の七匹は足を狙う。
真ん中の十二匹は一斉に跳ねる。
伏せ駆け。
足音を消して横へ入る。
牙走。
前腕の牙を低く流した。
右の五匹が跳ねる前に潰れる。
左へ。
牙が七匹の背を続けて断つ。
残り十二匹が跳ねた。
俺は半歩沈んで、その下を抜ける。
着地の腹へ、踵を落とした。
十二匹が石の上で動かなくなる。
風が止まっていた。
俺は立ち上がる。
首の後ろに指をかけて換装を解く。
肩の牙がほどけて、前腕のひれへ戻る。
琥珀の線が、白へ抜けていく。
殻の継ぎ目が静かに沈む。
足音がしない。
俺は段を下りた。
石は崩れていない。人が作った形のまま残っている。
三段目で足を止めた。
いちばん下の段に、石があった。
石だと思っていた。
その石が動いた。
甲羅だ。
苔の生えた石のような厚い甲羅。縁が丸い。大きさは人が二人ほども入る。
首が出た。
皺の深い首が、ゆっくりと持ち上がる。
脚が出た。前脚が二本、後ろ脚が二本。爪は太い。
鎧亀だ。
動きは遅い。遅いが、重い。
俺は殻読みを開いた。
胸の下に、数字が浮かぶ。
950
九百五十。
蔵前の四百十の倍以上だ。
俺の素の殻は千四十。狼の型なら千百七十九。
俺は段の上で、動かなかった。
鎧亀は首を伸ばしたまま、こちらを見ている。
目は黒い。瞬きをしない。
水車の羽根が、風もないのに一度だけ揺れた。
首の後ろに指をかける。
換装。
白の線が琥珀へ変わる。
肩のひれが外れ、牙の形に組み替わる。
〇・五秒。殻が薄い。
俺は段を蹴った。
伏せ駆け。
石の段を低く滑り落ちる。
苔が足の裏で潰れる。
鎧亀の横へ回った。
甲羅の縁に牙走を入れる。
連撃。
三度、四度。
牙が甲羅に当たる。
音は硬い。
石を引っかいたような音だ。
手応えは返ってこない。
甲羅の表面に、白い線が一本も入らない。
もう一度、縁へ入れる。
同じ音がした。
同じ手応えが返った。
俺は半歩下がった。
鎧亀は動かなかった。
首が引っ込む。
脚が引っ込む。
甲羅だけが石の段の上に残った。
苔の生えた石が、そこに一つ増えただけに見えた。
俺は牙を解かない。
息を整える。
風が段の上を渡っていく。
水車の羽根は、動かない。
俺は甲羅の縁を蹴った。
石の上に乗る。
苔が滑る。足の裏で潰して、爪先を立てた。
甲羅は動かない。
首の穴が、開いていた。
黒い。奥がある。
俺は前腕の牙を穴へ向ける。
狩り納め。
一閃。
牙が入る。
入って、止まった。
奥に硬いものがある。
皮だ。
乾いた、厚い皮。
牙はそこへ届いて、浅く食い込んだ。
手応えは返らない。
白い線が一本、穴の奥に走っただけだった。
俺は牙を引こうとした。
引くより先に、甲羅が動いた。
身をよじる。
石が軋むような音が、甲羅の下で鳴った。
足もとが傾ぐ。
苔が剥がれて、石の面が露わになる。
俺は爪を立てた。
立てた爪が滑った。
甲羅がもう一度よじれる。
俺は振り落とされた。
空中で体を返す。
空返しは使わない。
石垣が見えた。
石の角がある。
俺は背中から落ちた。
肩が石を打つ。
音が遅れて来る。
苔が背中で潰れる。
俺はいちばん下の段の平らなところで、片膝をついて止まった。
牙は解いていない。
息が浅い。
顔を上げる。
目の前で、甲羅が元の向きへ戻っていた。
首も脚も出ていない。
苔の生えた石が、そこに一つあるだけだ。
穴の奥に、白い線が一本。
それだけだった。
俺は膝をついたまま、牙を解かなかった。
甲羅の縁へ、もう一度寄った。
牙走を入れる寸前、鎧亀が動いた。
甲羅のまま、体ごと。
遅い動きではなかった。
重さがそのまま壁になって来る。
狼の型の殻は硬さを捨てている。
受ける選択が無い。
俺は両腕を前に出した。
その腕ごと、体が持っていかれる。
石垣に背中から当たった。
息が一度、止まる。
苔が潰れる匂いがした。
視界の端に白い一行。
【殻損傷率 31%】
門の口で、律が息を呑む音がした。
「灰塚さん」
声は届いた。返す余裕はない。
俺は石垣にもたれたまま、腕を見た。
琥珀の線が前腕から肩まで通っている。
線はまだ光っている。
だが、硬さは無い。
鎧亀は段の上で止まり、首を伸ばしてこちらを見ている。
瞬きをしない。
俺は牙を解かないまま、息を整えた。
狼の型は群れに強い。
硬い一体には弱い。
分かっていた。
分かっていて、選んだ。
この門主に、狼は合わない。
脱ぐ。
石垣にもたれたまま、鎧亀を見ていた。
荷運びの六年で甲羅の魔物は何度も見てきた。背負子を背負って、隊の後ろから。奴らは首を引っ込める直前と、前脚で叩きつける直前に必ず体重を後ろへ乗せる。その一瞬だけ、首が甲羅から伸びきる。伸びきった首は、甲羅の縁より外に出る。
だが、この腕では縫影が撃てない。
牙の形は殻片を折れない。
踵の薄刃も、今は牙に組み替わっている。
素に戻れば、二つとも戻る。
戻すなら、鎧亀が動く前だ。
首の後ろに指をかける。
換装を解く。
琥珀の線が白へ揺れる。
肩の牙がほどける。
前腕の牙がひれへ戻る。
〇・五秒。
殻が薄い。
それでも、足は動く。
石垣を蹴った。
影走り。
靴の底が苔の上を滑らずに噛む。
二段、三段、駆け上がる。
枯れた水車の柱を踏む。
軸を蹴って、羽根の先に足を置いた。
錆びた金具が鳴いた。
一瞬、水車ごと崩れる音がしたが、持ちこたえた。
そこから、さらに上へ。
空返しは使わない。
まだ要らない。
鎧亀が首を伸ばす。
黒い目が、俺の足もとを追ってくる。
前脚が浮く。
苔のついた爪が、段の石を掻いた。
体重が後ろへ乗る。
甲羅の縁が、石垣に擦れる音がした。
前脚が高く上がる。
その下、首の付け根が露わになった。
前脚が水車へ落ちる。
叩きつける寸前だった。
俺は前腕のひれの縁に指をかけた。
一枚、折る。
乾いた音がして、薄い殻片が手の内に残った。
鎧亀の影が段の石の上に落ちている。
前脚の下、甲羅の縁、首の根元。
その中の一点へ向けて、俺は殻片を投げた。
縫影。
殻片が影に刺さる。
刺さった影が止まった。
鎧亀の前脚が空中で止まる。
苔のついた爪が、水車の羽根の手前で動かない。
首が甲羅から伸びきったまま、止まっている。
〇・五秒。
水車の羽根を蹴った。
落ちる先は甲羅の上だ。
縁から体を反転させて、外へ落ちる。
逆さになった視界に、首の付け根がある。
甲羅との継ぎ目が、白く筋になって見えた。
踵を返す。
薄刃。
踵の縁が刃になる。
継ぎ目へ、上から叩き込む。
手応えが骨を断つ。
硬い音が一度鳴って、それきりだった。
俺は段の石の上へ落ちて、片膝をついた。
鎧亀の首が甲羅から離れる。
前脚が水車の羽根へ当たる。
羽根が軋んで、止まったまま傾いだ。
甲羅は動かない。
苔の生えた石が、そこに一つ増えただけに見えた。
風が段の上を渡っていく。
視界の端に、白い文字が一行。
【経験値を取得しました +2,060】
俺は一度だけ見て、息を吐いた。
門の口で、律がストップウォッチを止める音がした。
門の口から律が段を下りてきた。石を踏む音が近づいて、止まる。
律はストップウォッチを見たまま、秒を読んだ。
「四分十一秒」
律が、もう一度「四分十一秒」と繰り返した。
「B級の門主を、お一人で」
小さな声だった。
俺は返事をしない。
甲羅の下に手を入れる。
まだ温かい。
主核を一つ、拾い上げた。
律の背負子が空のまま待っていた。
入れる。
律が手帳を開き、ペンを走らせる。書き終えてから、顔を上げずに言った。
「色、戻しましたね」
「合わなかった」
律は頷かなかった。頷く代わりに、ペンを止めてもう一行書き足した。
俺は片膝から立ち上がった。
石の段が膝の裏に残る。
律が指でページを繰って、二列のところで止める。
「Lvは」
「十七」
律は「十七」と一度だけ繰り返して、ペンを走らせた。
殻圧の列は空いていた。
協会の計器で測るまで、書かない。
律はペンを止めて、顔を上げた。
「戻りましょう」
「ああ」
段を上がる。
苔が靴の底で潰れる。
水車の柱を横に過ぎる。
羽根は傾いだまま、止まっている。
段の数はもう数えない。
風が上のほうから下りてくる。
門の口の青が、まだ遠い。
門を出るともう夕方だった。湾岸の埋立地に風が残っている。草が倒れて、また起きる。律がストップウォッチを首から外して手帳に挟んだ。
そのとき端末が鳴った。真柴さんだった。
「協会の門圧計が澪浜湾の上で揺れています」
平板な声だった。
「門の出現は確認されていません」
それだけ言って切れた。俺は端末をしまう。
「灰塚さん」
律が湾のほうを見ていた。俺も見た。
夕方の海の上、何もない空がある。雲もない。鳥もいない。
その何もない空が一瞬だけ陽炎のように歪んだ。揺れた、というより向こう側がずれた。すぐに戻った。
律は何も言わなかった。手帳を開いたまま、ペンを持ったまま湾を見ていた。




