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第19話 狼の型




抗議文が届いたのは、二日後の朝だった。


白鷺から協会へ。宛先は登録課。件名は「無断入門について」。


真柴さんが窓口の机にその紙を置いた。


窓口の机の上に、二枚の紙が並んだ。


一枚は白鷺の抗議文の写し。


もう一枚は協会の返答書だ。


真柴さんは銀縁の眼鏡を押し上げるでもなく、ただ紙の向こうに座っていた。


「返答は出しました」


平板な声が窓口の空気を滑っていく。


真柴さんは返答書の一番下を指先で示した。


「規程上、問題ありません。等級なしですので」


ただの一行だった。


それ以上は何も言わない。


理由も判断の経緯も何も。


俺は窓口の前に立ったまま、その一行を見ていた。


「……ああ」


律が隣で、返答書の一行をそのまま手帳に書き写す。


ペンの先が紙を走る音が、やけにはっきり聞こえた。


真柴さんは顔を上げた。


「以上です」


「次の方、どうぞ」


窓口の向こうで、番号札が一つ進む音がした。


俺は窓口から離れた。


律が手帳を閉じて、三歩後ろに続く。


廊下に出る。


蛍光灯が白い。


律が隣に並んだ。


「これで白鷺の抗議は、形の上では終わりですね」


「そうだな」


足音だけがしばらく続いた。


  ◇


大鳥さんから電話が来たのは、その日の昼だった。


「坊主、B級の正門だ。うちの枠で取った」


用件だけで、電話は切れた。


門は湾岸の埋立地にあった。


埋立地は風が強かった。


海側から吹き上げる風が、膝までの草を一面に倒していく。


門はその草の真ん中に立っていた。


青い光だった。


高架の門とは違う。


輪郭がまっすぐで、揺れていない。


黒潮の車列が三台、草を踏んで停まっている。


その前に、錆色の殻が立っていた。


大鳥さんだ。


俺は車列の横まで歩いて、足を止めた。


「坊主」


大鳥さんは振り返らない。


「来い」


それだけで、大鳥さんは門のほうへ歩き出した。


門の前に、黒潮の隊が集まっていた。


蔵前が盾鎚の柄で、俺の足もとの草を二度叩いた。


「灰塚、今日はここだ」


大鳥さんの、半歩後ろだった。


俺は背負子の紐を締め直した。


肩に食い込む重さが、いつもより軽い。


殻が肩と背中を覆っているからだ。


「荷を落とすな」


「ああ」


律が門の外でストップウォッチを構えた。


大鳥さんが門へ踏み込む。


青い光が錆色の殻を一瞬だけ白く染めた。


蔵前が続く。


戸張は隊の後ろの方にいた。


門をくぐる。


視界が青から、いきなり広い緑に変わった。


空が高かった。


風が草を倒し、波のように奥へ送っていく。


草は膝まで届く。


歩くたびに、さやさやと音がした。


門の口から奥まで、見通せた。


石柱が何十本も立っている。


倒れた石柱もあった。


草に半ば埋もれて、橋のように横たわっている。


その上を、白い小鳥が一羽渡っていた。


奥へ半分ほど進んだところで、大鳥さんが右手を上げた。


隊が止まる。


「坊主。上から見てこい」


顎で、石柱の列を示した。


俺は背負子を草の上に下ろした。


一番近い石柱の根元に、手を当てた。


乾いた石だ。


影走り。


靴の底が石に吸い付く。


俺は柱の側面を走り上がった。


草の匂いが下へ落ちていく。


柱の頂で、体を起こした。


次の柱まで、六歩ぶんの隙間があった。


俺は蹴った。


落ちる前に、向こうの柱の肩へ足を置く。


音は出ない。


三本目の柱は低かった。


頂から、倒れた柱が橋のように伸びている。


俺はそこへ渡った。


草の穂が腿を撫でていく。


柱が途切れる。


また柱。


また柱。


数えなくなった。


俺は柱から柱へ、影を拾うように走った。


柱の列が一度広がった。


俺は助走をつけた。


跳ぶ。


空返しは使わない。


まだ要らない。


向こうの柱の腹に、両足で着いた。


腹から走って、そのまま頂へ。


息は上がっていない。


背負子が無いと、体が軽い。


最後の柱はいちばん高かった。


俺はその頂で止まった。


草原が一面に広がっている。


門の口はもう遠い。


草の向こうに、低い丘がひとつ。


風が草を倒し、波のように奥へ送っていく。


ざあ、と鳴る。


その中で、一か所だけ。


丘の手前。


草が風と逆に揺れていた。


風は奥へ向かって吹いている。


そこだけ、手前に揺れる。


一度、揺れた。


止まった。


また、揺れた。


魔物の姿は見えない。


揺れ方はゆっくりだった。


何かが伏せている。


門から、あの揺れまで。


柱を、七本ぶん。


走って、二十息。


俺は柱の角を蹴った。


来た道を、逆に拾って戻る。


俺は最後の柱を降りた。


草の中に、背負子が残っている。


その横に、大鳥さんが立っていた。


「どうだ」


大鳥さんはこちらを見ない。


「奥に、一つ」


俺は言った。


「風と逆に、揺れる」


大鳥さんはしばらく黙っていた。


それから、顎を少しだけ上げた。


「伏せてやがるな」


「ああ」


蔵前が盾鎚の柄を、草に突いた。


「数は」


「見えなかった」


蔵前は眉の間を指で押した。


「一匹とは限らねえ」


戸張が後ろで唾を飲む音を立てた。


大鳥さんは門のほうを一度見た。


「もう一度、行けるか」


「ああ」


俺はまた柱の根元へ歩いた。


二度目は一度目より速かった。


柱から柱へ。


奥まで行って、戻って、また奥へ。


三度目に一番高い柱の頂に立ったとき、殻ログを開いた。


【殻装:第二殻】 Lv.16

型:狼の型(換装時)

補正:筋力×1.2 / 敏捷×1.3 / 殻硬度×0.8

型能力:[牙走] [群読み] [伏せ駆け] [狩り納め]

筋力 27 / 敏捷 37→38 / 殻硬度 17 / 共鳴 19

殻圧:1,010(換装時 1,144)

日課:壁面走行 3km(3000/3000)達成 ── 連続27日:敏捷+1

千十。


狼の型なら、千百四十四。


御堂は千百五十だった。


六つ、足りない。


狼の型はまだ一度も使っていない。


俺は殻ログを閉じて、奥を見た。


丘の手前の草が揺れた。


手前へ。


一度ではない。


草の穂が一斉に伏した。


その下から、背中が出た。


細長い。


低い。


草の高さの半分ほどしかない。


牙が長い。


口の端から、白い刃が二本外へ反っていた。


一匹の頭が上がる。


もう一匹、頭が上がった。


その隣。


その隣。


草の中から、頭が次々に生えてくる。


四十を超えた。


まだ出る。


群れは列を作らない。


草の下を低く走る。


背中だけが草の穂の間を縫って見える。


速い。


向きはひとつ。


黒潮の隊へ向かっている。


草の上で、鉄色の殻が動いた。


蔵前だ。


盾鎚の柄を草から抜く。


「牙鼬(きばいたち)だ!」


声が草原に割れた。


「固まれ!」


隊が動く。


戸張の橙が蔵前の背中へ寄る。


大鳥さんの錆色は動かない。


草の中に根を張ったように、立っている。


先頭の牙鼬が草を割って出た。


蔵前が盾を前に出す。


一匹目が盾に当たる。


音が遅れて来る。


二匹目。


三匹目。


蔵前の脚が草の上で半歩後ろへ滑った。


「横からも来るっす!」


戸張の声が上ずる。


俺は柱の上にいた。


動かなかった。


動くより先に、見ていた。


群れの走り方はひとつだ。


先頭が右へ切れば、後ろも右へ切る。


先頭が跳ねれば、全部が跳ねる。


「灰塚!」


蔵前が振り返らずに叫ぶ。


「降りてこい!」


俺は柱の上で、群れを見ていた。


先頭が右へ切る。


群れが右へ切る。


蔵前の盾の右側へ、列が曲がった。


一匹の胸の下に、数字が浮かぶ。


700


一匹で、七百。


蔵前の四百十より、上だ。


それが四十五。


素の殻で刈るには数が多すぎる。


俺は柱を蹴った。


落ちながら、首の後ろに力を入れる。


換装(かんそう)。


継ぎ目の線が白から琥珀へ変わる。


肩のひれが外れる。


前腕のひれも外れる。


空気の中で、殻が組み替わる。


ひれだったものが牙の形へ。


折りたたまれ、伸び、噛み合う。


着地。


草が膝を叩く。


組み替わりは、まだ終わっていない。


殻の硬さは、今だけ半分だ。


次の一歩を踏むより先に、左から影が跳ねた。


一匹が草の下から飛びついてくる。


左の前腕。


組み替わりかけの殻に、牙が食い込む。


殻の表面が削れる。


【殻損傷率 7%】


〇・五秒。


組み替わりが終わる。


痛みは短い。


爪で引っかかれたような熱が走って、すぐに引く。


俺は腕を引かなかった。


引けば、牙が深くなる。


換装の間は殻が薄い。


体で覚える。


「灰塚、無事か!」


蔵前の声がした。


俺は答えない。


噛みついた牙鼬の首を、逆の手で掴む。


首を折る。


牙が腕から外れた。


琥珀の線が前腕から肩まで通っている。


体が低い。


草の高さに目がある。


その目で、群れを見た。


群れの次の一歩が全部見えた。


右の三匹は次に左へ跳ぶ。


奥の五匹は蔵前の盾の下へ潜る。


見えたとおりに、群れが動いた。


俺は草の下へ沈んだ。


膝より低い。


背が草の穂より下だ。


伏せ駆け。


足音が消える。


右の三匹が跳ぶ。


俺はその下を抜けた。


牙が背中の上を掠める。


一匹目の背に足を置く。


跳ぶ。


二匹目の頭を蹴る。


着地せずに、三匹目の横へ。


牙が走る。


琥珀の線が草の中で光った。


三匹が崩れる。


音は草が受けた。


奥の五匹が蔵前の盾の下へ潜ろうとしていた。


その手前へ先回りする。


草を裂いて、横から出た。


牙走(きばばしり)。


低い位置から、連撃を入れる。


刃が五匹の脚を順に断つ。


五匹が草に沈む。


左から二匹が来て、石柱の陰へ逃げた。


倒れた石柱の上へ跳ぶ。


柱の先で体を返す。


下から跳びかかってきた一匹の背を踏む。


その背を蹴って、前に出た。


三匹が同時に跳ねる。


俺は草の中で一度、体を沈めた。


牙が空を噛む。


三匹の腹が並んだ。


前腕の牙を横へ引く。


三匹、落ちる。


蔵前の盾の前で、橙の殻が動いた。


戸張だ。


盾を半歩、前に出す。


動かなくていい。


そう思ったが口には出さない。


群れの後ろから、五匹が蔵前へ向かう。


俺は石柱の影に入る。


影から影へ。


草が風で倒れる。


その一瞬だけ、五匹の背が並んで見えた。


俺は最後の柱を蹴った。


低く跳ぶ。


五匹の真ん中へ落ちる。


着地と同時に、前腕の牙を回す。


四匹が一息で草に沈んだ。


五匹目が振り返って牙を向けた。


俺は半歩、右へずれる。


牙が空を切る。


首へ、一閃。


草を蹴った。


伏せ駆け。


背が草の穂より下になる。


右の四匹が、次に左へ跳ぶ。


俺は右へ入った。


四匹が跳ぶ。


その下を抜けて、着地の腹を横へ引く。


四匹が草に沈む。


起き上がるより、次だ。


奥の三匹が、俺の背を追って曲がる。


曲がる先を、俺はもう踏んでいた。


振り返らずに、牙走を後ろへ流す。


三匹が草の上で止まる。


止まったまま、動かない。


左から二匹。


さっき石柱の陰へ逃げた二匹だ。


柱の影から出てくる。


待っていた。


一匹目の首を、横へ引く。


二匹目が跳ぶ。


跳ぶ高さを、俺は先に読んでいた。


半歩、沈む。


牙が上の空を噛む。


腹の下から、刃を上へ入れる。


二匹目が崩れる。


草が血の匂いを隠していく。


二十を過ぎた。まだいる。


群れの輪が、もう歪んでいる。


先頭が右へ切る。


後ろがついてこない。


ついてこない列を、俺が横から刈る。


蔵前の盾の前に、まだ五匹。


盾の影へ潜る寸前を、横から断つ。


五匹が草に沈む。


俺は顔を上げた。


草の向こうに、まだ背中がある。


まだ、いる。


草の上で、錆色の殻が動いた。


大鳥さんだ。


一歩も動かず、群れの向こうを見ていた。


声は出していない。


群れはもう残り少ない。


次の一歩だけを見る。


右から四匹。


俺はまた草の下へ沈んだ。


四匹の脚が並ぶ。


牙走。


四匹、沈む。


残りは三匹。


倒れた石柱を蹴る。


三匹の背が一列に見えた。


前腕の牙を横へ引く。


三匹、落ちる。


俺は立ち上がった。


草原が静かになった。


風の音だけが奥へ流れていく。


戸張が盾を下ろしたまま言った。


「……全部っすか」


誰も答えなかった。


視界の端に、白い文字が一行。


【経験値を取得しました +3,150】


俺は一度だけ見て、顔を上げた。


門の口のほうを見る。


青い光の向こうに、白い殻が立っていた。


重装だ。


兜にバイザー。


御堂晃だった。


手に白い封筒を持っている。


あの抗議文の写しだろう。


あの紙を、わざわざここまで運んできたらしい。


御堂は門の外に立ったまま、中へ入らなかった。


入らなくても見える。


兜のバイザーがゆっくりと俺のほうを向く。


俺は草の中から、それを見返した。


数字は見ない。


見なくても分かっている。


千百五十だ。


琥珀の線がまだ腕に残っている。


換装は解かない。


解く理由がまだ無い。


蔵前が盾を下ろした。


「白鷺の……御堂さん?」


戸張が盾の陰から首を出す。


「A級っすか」


「そうだ」


大鳥さんが動いた。


草を踏んで、門の口へ向かう。


俺はその背中を、三歩後ろから追った。


大鳥さんが門の口の手前で足を止める。


御堂も動かない。


「黒潮の大鳥だ」


大鳥さんが言った。


「門の管理者は、うちだ」


御堂は口を開いた。


開いて、閉じた。


兜のバイザーの下で、何か言おうとしている。


声が出ない。


白い重装の肩がわずかに上下した。


それきり、また止まった。


大鳥さんは急かさなかった。


腕を組んで、待っていた。


草が風で倒れる。


御堂の手が封筒を持ち上げた。


「……これを」


それだけだった。


声は兜の内側で半分ほど消えた。


大鳥さんは封筒を受け取った。


裏も表も見ない。


上着の内側に、そのまま入れた。


「預かった」


御堂は頷かなかった。


兜が少しだけ下を向いた。


それから、御堂のバイザーが俺のほうへ向いた。


一度だけだった。


俺は何も言わなかった。


御堂も何も言わなかった。


白い重装が向きを変える。


門の外へ、歩き出した。


背中が青い光の向こうへ消えていく。


しばらく、誰も喋らなかった。


戸張が小さく息を吐いた。


「……あの人、何しに来たんすか」


蔵前が盾鎚の柄を草に突いた。


「届け物だ」


「届け物って」


「見ただろ」


蔵前はそれ以上言わなかった。


戸張が俺の腕を見た。


「灰塚さん、さっきの、何なんすか。色が変わって」


「たまたまだ」


門の外から、律の声がした。


「今日は、まだ一回です」


何を数えているのかは、訊かなかった。


大鳥さんは上着の内側を一度だけ押さえた。


それから、振り返った。


「坊主」


俺は顔を上げた。


「今日のことは、うちの報告に書く」


大鳥さんはそれだけ言った。


「ああ」


そのときだった。


奥の丘の上で、草が鳴った。


風と逆に。


丘の上に、一匹だけ牙鼬が立っていた。


さっきまでの群れより、二回りは大きい。


胸の下に、数字が浮かぶ。


880


群れの頭だ。


群れが崩れても動かなかった。


俺はそれを見て、今さら気づいた。


さっきの戦いの間、ずっと見られていた。


俺の腕の、琥珀の線を。


群れの頭は走らなかった。


丘の上に立って、俺の殻の光だけを見ていた。


丘の上で、群れの頭の前脚が草を踏んだ。


静かだった。


群れの速さではなかった。


低い。


草の穂が体の前でだけ割れる。


まっすぐ、こちらへ。


蔵前が盾を上げる音がした。


戸張が息を呑む音がした。


俺は動かなかった。


光が揺れれば、来る。


首の後ろに指をかける。


換装を解く。


琥珀の線が白へ揺れる。


肩の牙がほどける。


前腕の牙がひれへ戻る。


〇・五秒。


殻が薄い。


草が割れた。


群れの頭が跳んだ。


牙が墨色の首元に届く。


俺はそこへ誘っていた。

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