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第33話 天井の狩り




四十六日目の朝。殻ログが零時に出した日課は【日課:壁面走行 3km】。俺は澪浜高架の側壁を走っていた。夜明け前の冷気が墨色の殻を撫で、足裏がコンクリートの継ぎ目を拾う。影はまだ薄い。走りながら、昨日の白峰の声を一度だけ思い出した。「その殻、何なの」——答えなかった。答える言葉を、俺はまだ持っていない。


側壁を三キロ。終えて歩道に降りたところで端末が鳴った。大鳥だ。


「坊主。うちの枠だ」


一拍。


「駅裏の立体駐車場の跡。B級」


短い。用件だけだった。俺は息を整えながら、高架の柱にもたれる。


「ああ」


端末が切れた。


  ◇


門の前には、青い光が縦に裂けていた。駅裏の立体駐車場の跡の入口に、光の面が一枚風もないのに揺れている。律は門の外に立ち、手帳を両手で抱えていた。


「気をつけて」


声は小さかった。


俺は頷いて、蔵前と戸張の横に並ぶ。黒潮の二人はすでに殻を閉じている。大鳥は入口の柱に背を預け、煙草を咥えたまま何も言わない。


門を抜けると空気が一変した。錆と油の匂い。傾いた斜路が螺旋に上へ続き、天井は低く柱が不規則に並んでいる。奥に、錆びた車が数台潰れたまま捨てられていた。


天井が、わずかに動いた。


平たい甲殻が柱から柱へ這っていた。天井に張りつき、脚を折りたたんだまま止まる。狼の型では、あの高さに届かない。


柱の影を踏んで斜路を上がる。足音を消し、柱の継ぎ目に手をかけて一度止まる。天井は低い。車の屋根のすぐ上を、平たい甲殻が十二体這っていた。脚の多い、百足に似た形だ。動きはゆっくりだが、止まると天井と見分けがつかない。


斜路の下に、蔵前と戸張がいる。盾を構え動かずに待っている。天井の甲殻はまだこちらに気づいていない。


俺は柱の陰に背をつけて、首の後ろに指をかけた。


換装。


殻が柔らかくなる。線が白から銀灰へ移り、前腕のひれが細い脚の形に組み替わる。半秒。皮膚の下で殻が軋み、骨の芯が一度冷えた。息を止めてやり過ごす。硬さが戻るのを待って、前腕を持ち上げる。銀灰の細い脚が、空気を掻くように開いていた。


【蜘蛛の型 糸引き/天井歩き/網読み/吊り落とし】


殻ログが一行だけ出た。俺は目で読んで、すぐ消す。


柱を蹴る。影走り。足裏がコンクリートを滑り、柱の面を駆け上がる。途中で足を止め、天井の影へ跳んだ。天井歩き。逆さに立つ。足裏が、天井の面に吸い付くように止まった。血が頭に下りる。視界が逆さのまま、甲殻の列が目の前を横切っていく。


甲殻はまだ動いている。脚を一本ずつ天井に突き立て、ゆっくりと進む。近づいても俺には気づかない。


俺は前腕から糸を引いた。


殻の細い糸が銀灰の脚の先から伸びる。柱の頭に一本。天井の梁に一本。張った糸が、かすかに震えた。網読み。糸の震えで、甲殻の位置が手に取るように分かる。三本目の糸はまだ引かない。


天井に逆さに立ったまま俺は息を整えた。斜路の下で、蔵前が盾を握り直す音が聞こえた。戸張は黙っている。


まだ斬らない。


柱の陰から、甲殻が一体出てくる。平たい背が天井を滑り、脚の先がコンクリートを叩く。まだ止まっている。俺は前腕の糸を柱と天井の間に張り直した。三本目。


天井を逆さに歩く。一体目。脚の継ぎ目へ薄刃を差し込む。前腕の縁が甲殻を裂き、平たい体が光の粒に割れた。粒は天井を滑り、消える。血はない。


二体目。柱の陰から出たところを背後から斬る。薄刃が頭と胴の境を断ち、甲殻が粒になる。三体目。梁の影から降りてきた一体の腹へ踵を振る。踵の縁が銀灰に光り、甲殻が割れて散った。


張り直し。糸が消える前に柱と天井へ二本、梁へ一本。網読み。残り九体の位置が震えで揃う。天井の中央で群れが固まっている。四体。西側の柱の影に三体。排水管の付け根に二体。俺は天井の影を渡り、西側の柱へ回った。


三体は柱の影で止まっていた。脚を畳み、平たい背を柱の面に沿わせている。俺は柱の頭から逆さに降り、一体ずつ薄刃を立てた。前腕の縁が甲殻を裂く。光の粒が柱を滑り、影の中に消える。音はない。


排水管の付け根の二体は、糸を張り直した直後に動き出した。天井を滑って中央の群れへ向かう。俺は梁の影を蹴り、天井歩きで先回りする。足裏が天井を滑り、逆さのまま一体の背へ落ちた。薄刃が背を割る。粒が散る。もう一体は脚を伸ばして壁へ逃げようとした。前腕の糸を壁と天井に張り、網読みで動きを拾う。壁の影を蹴り、逃げる甲殻の頭へ薄刃を突き入れた。光の粒が壁を滑り、下へ落ちていく。


柱の糸が一本細くなって消えかけていた。三十秒。張り直そうとして、指が遅れた。その隙に甲殻が一体、糸の震えから外れて天井を離れ、斜路の下へ落ちかける。俺は梁の影を蹴り、逆さのまま追いかけた。薄刃を前腕の縁に通す。落ちる甲殻の背を横から裂くと、光の粒が斜路の下へ散った。粒は蔵前の盾の前に、白く降りかかる。戸張が天井を見上げたまま固まった。蔵前が盾を半歩、下げる。糸はもう三本とも消えていた。


張り直し。三本目を柱に絡めて、残り三体の位置を確かめる。天井の中央で止まっている。俺は天井を逆さに歩き、群れの真上へ出た。


三体が、背を寄せて並んでいた。脚を畳み、天井と見分けがつかない。俺は息を詰め、一体ずつ薄刃を差し込んでいった。前腕の縁が甲殻を裂くたびに、光の粒が天井を滑って消える。最後の一体が脚を伸ばした。俺は踵の縁を振り抜く。甲殻が割れ、粒が斜路の下へ散った。


十二体。粒はすべて消え、天井に何も残らない。


張り直しの回数は四回。


斜路を上り切った屋上は柱も天井もない。空が近い。黒い甲殻が低く飛んでいた。翅がある。膜が薄く光を透かし、羽音が低く唸る。脚は六本、腹が長い。胸の下に数字が浮いた。


1300


俺の殻圧は千二百四十。差は六十。近い。だが屋上には糸を張る面がない。柱も梁も天井もない。翅の風が前腕の糸を流す。蜘蛛の型の糸は届かない。


門主が旋回した。翅の先が空気を裂き、俺の影が屋上のコンクリートに薄く落ちる。影はある。だが走る面が広すぎる。糸で網を張れない。狼の型にも戻さない。戻す暇はない。


屋上で、門主が低く突っ込んできた。翅の風が前腕の糸を流し、張りかけた一本が撓んで切れた。脚の先が脇腹をかすめ、殻が削れる。冷たい衝撃が腹の奥まで抜けた。


糸は張れない。ここでは勝てない。


俺は斜路の口へ下がった。一歩、また一歩。門主が翅を打って向きを変える。低く、俺の頭の高さを滑る。脚の先がコンクリートを掠めた。俺は影を踏んで斜路の暗がりへ跳んだ。天井が低い。壁がある。梁がある。糸を張る面が戻る。


門主が斜路の口へ近づく。翅の風が暗がりへ流れ込む。俺は壁の影に張りつき、前腕の糸を天井と壁へ張った。三本。網読み。糸が震える。門主の位置が手に取るように分かる。


門主の頭が、斜路の口に入った。


翅が壁に当たって止まる。脚が暗がりを探る。俺は糸の震えを読みながら、息を殺した。


六本の脚の先がコンクリートを叩き、そのたびに俺の影が揺れた。


俺は壁の影に張りついたまま、前腕の糸を天井の梁へ一本だけ残した。網読み。糸の震えが手のひらに伝わる。門主の頭が斜路の口をくぐり、翅が半分だけ暗がりに入ったところで止まった。脚が床を探り、俺の位置を測っている。


糸を手繰る。天井の梁から体を預け、逆さのまま門主の真上へ滑った。翅の膜がすぐ下で光を透かしていた。付け根——胸と翅の継ぎ目が、薄い膜の下で白く透けている。


吊り落とし。


糸を緩めた。体が落ちる。翅の付け根へ、前腕の薄刃を振り下ろす。銀灰の縁が膜を裂き、継ぎ目を断つ。片翼が根元から折れて、膜がひらりと暗がりを舞った。


門主が傾いだ。翅を失った巨体が斜路の床へ落ち、甲殻がコンクリートを打って鈍い音を立てる。脚が六本、ばらばらに空を掻いた。


俺は床に足をつけ、間を置かずに踏み込んだ。頭と胴の継ぎ目が、暗がりの中で白く光っている。薄刃を振り抜く。継ぎ目が断たれ、門主の体が光の粒に崩れた。粒は斜路の壁を滑り、俺の殻の線へ吸い込まれていく。


【経験値を取得しました +1,360】


粒が消えて、斜路に何も残らない。翅の膜の切れ端だけが、床の隅で微かに揺れていた。


俺は首の後ろに指をかけた。殻が畳まれる。線が銀灰から白へ戻り、前腕の細い脚が薄いひれに組み替わる。硬さが抜けて、肩の重みが軽くなった。


斜路の下から、蔵前の声が上がった。


「終わったか」


俺は息を整えて、短く答えた。


「ああ」


  ◇


「……天井、歩いてたっす」


戸張が盾を下ろしながら言った。蔵前は黙って盾鎚を下ろす。重い音が一度、コンクリートに落ちて止んだ。


大鳥が煙草をくわえたまま、こちらを見た。


「坊主。また殻が変わったな」


「ああ」


それだけ答えた。大鳥はそれ以上聞かなかった。火のついていない煙草を、ただ咥えている。


律がストップウォッチを止めた。


「四十一分三秒です」


数字を二度は言わなかった。声は落ち着いていた。


帰り道。駅裏の細い路地を抜けるあたりで、律の端末が一度だけ鳴った。律は足を止め、画面を開く。しばらく黙って読んで、それから端末をこちらへ向けた。


画面に短い文面が浮かんでいた。差出人の名と、用件の一行。


『灰塚迅様 研究協力のお願い 天霧マテリアル殻装研究所 主任研究員 榊』


律が画面を覗き込み、小さな声で言った。


「天霧マテリアルです」


俺は端末を受け取り、画面の最後の名を見た。


「……天霧」

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