まるで絵画のような視界
1年前、花井桂花は事故に遭った。
たまたま入ったアラガミ地域郊外の廃墟が崩落。
それによって引き起こされたのは、記憶の一部欠落、視力の低下、下半身の不随。
事故に遭った1年前の10の月から、翌年の4の月まで……半年間の記憶がない。老朽化した建物の崩落に巻き込まれたらしい。気が付いたら神殿直属の病院で眠っていた。
半年間のことが思い出せないだけで、その他のことは問題ない。自分のこと、家族のこと、学校のこと。友達の話題が見当たらないのは、単に桂花に友人と呼べる人がいないだけ……そんな認めたくないことも覚えている。
いったい何をしてきたのか分からないのは不安だけれども、きっと他の日々と同じように日常を過ごしていたのだろう。本で読むみたいに、謎の組織に狙われていたとか、事件の手がかりを掴んでしまったとか、そんなことはない。
容姿は平凡。記憶力は悪い。頭の回転も遅い。むしろ、平均よりちょっと下。
だが、そんな自分でも信じられないことがあった。曰く、倒壊した建物を神殿が所有していたとかで、臨時職員として雇用されることになったのである。
神殿とは上層の最高責任者が集まる場所。もちろん一般職員も、厳しい試験をパスしてしか働けないというのに。
事故はとても不幸だったが、職業の面では好転した。
足が動かないのは辛い。走ることも歩くことも出来ず、日常生活には補助を必要とする。車椅子が唯一の移動手段だ。
短期の記憶喪失と足の不随……しかしそれよりも、気になる症例が桂花を悩ませていた。それがなければ、完全な事故として納得できたかもしれない。
……全て白と黒で染められている、そんな嘘みたいな視界でないのなら。
桂花は目が見えない。一年前に遭った事故が原因で、うっすらと人影や色が見える程度の弱視……ということになっている。
実際は違う。
人も木も空も家も、全てを黒一色で塗り潰し、白い線で縁取ったような世界。時折、生命のような赤い点が見える。
知識のない桂花でも分かる。これはふつうの視界ではない。まるで絵の中にいるようだ。暗闇の世界、薄霞かかった視界ならともかく、白と赤しか見えなくなる、という症例はない。
この半年間、何度も慈円や八鶴に話そうとした。だが、こんな超常の現象を誰が信じてくれるのだろうか。頭を打ったが故の幻覚と片付けられてしまわないだろうか。
結局、視力がとても弱くなっているということしか伝えられていない。
(言ったらみんな、僕を嘘吐きってバカにするんだろうな)
学年が上がるたび憂鬱だった。解答を間違えるたび、かけっこでビリを取るたび、いつもバカにされてきた。友達がいないのも、そのせいだろう。
神殿で働きだしてからは、蔑まれることも笑われることもないが、特に親しくする人もいなかった。身の回りを世話してくれる人はいるが、彼女もどこか一歩引いている。
……誰かに言うのは、もうしばらく後にしよう。
決めた時、ノックの音がした。
「桂花さま。出勤の時間でございます」
「は、はい、八鶴さん」
ドアが開く音がして、すらりとした長身の女性が入ってくる。桂花の身の回りをしてくれる職員……三戸名八鶴さんだ。
さっきも、診療所から桂花を送り届けてくれた。週に1回、桂花は神殿内の診療所で診察を受けている。
桂花の反応もそこそこに、八鶴さんはクローゼットから服を取り出す。神殿の制服、黄緑のブラウスとスカートだ。
桂花がブラウスのボタンを留めている間、八鶴さんはスカートを履かせてくれる。そして髪ゴムを取ったようだ、桂花の髪を梳き、三つ編みにしていく。
「あ、八鶴さん、それは僕がしますよ。というか、いつも僕がしてるし……」
「いえ、時には私にさせて下さい。女性にとって髪型は大事でしょうが、たまには」
「はい……」
髪が手際よくまとめられていくのを感じる。左側が終わると、今度は右側。雑談を挟むこともなく、淡々と編んでいく。そっと手で確かめてみると、乱れのないなだらかな編み込み。
すごい、僕がしたのよりもきれいになってる気がする。
八鶴さんの顔が間近に迫る。うっすらと見える無機質な表情に一つ括り。三つ編み、のように見える。
(三つ編みなんてどこで覚えたんだろう。ひょっとして、憧れてるのかな)
そうだとしたら、少し微笑ましい。
いつも仕上げには、金木犀の飾りを付ける。小さな花が、3つ集まった小さなアクセサリー。桂花のお気に入りだ。目がほとんど見えなくなっても、これは付けておきたかった。
桂花とは金木犀の別名でもある。町が地上にあった時代から脈々と受け継がれてきた、歴史ある木……それが金木犀なのだ。この季節になると、香りの良い花を咲かせる。神殿の中庭にも大きな金木犀があるから、その香りを感じるのが桂花の楽しみでもあった。
「できましたよ」
「あの、八鶴さん」
「なんでしょう」
「いつも、ありがとうございます」
「仕事ですから。礼はいりません」
あまりにそっけない返事。桂花は心の中で溜息を吐いた。
八鶴さんは仕事が丁寧だし、細かいことをすぐに気づいてくれる良い人なのだが、どうにもこうにも全てが機械的だ。すべては仕事上、担当職員という役割がなければ無関係ですよ、といった雰囲気がにじみ出ている。
少ししょんぼりした桂花を気にすることもなく、八鶴さんの押す車椅子が動き出した。




