序章2:花井桂花
「はい、お腹出して。……ふむふむ。はいOK」
桂花は服を直し、医者に向き直った。医者の名前は慈円。神殿の医者をしている。彼は聴診器を桂花から離すと、朗らかな声で言った。
「花井くん。キミは素直に、ボクの言うことを聞いてくれるから助かるよ」
「そうですか? でも、お医者さんですし」
「昔、ボクが主治医を勤めた患者さんがいてね。小さな女の子だったんだけど、ひどいもんだった。お腹を見せてねって頼んでも暴れる暴れる。しまいにゃこのヘンタイ、なんて言われてさ。10才の女の子がだよ? どこでそんな言葉を覚えてきたんだってもんだよ。そんな彼女も今や大人の仲間入りをしているだろう。どうかな、今、彼女は素直にお腹を見せてくれると思うかい?」
「ど、どうですかね……」
桂花は額に汗が流れるのを感じた。慈円のマシンガントークはいつまで経っても慣れない。話題は昨日あったことから話題のニュース、そしてかつて担当していた患者のこと。この「言うことを聞かない女の子」の話は5回くらい聞いた。プライバシーとか守秘義務といったことが脳裏をよぎるが、大丈夫なのだろうか。
桂花の心配をさておき、ペンと紙がこすれる音が小さく鳴っている。慈円がカルテに書き込んでいっているのだ。
「うん。いつも通り健康体。神殿はホント体調管理が良いよね。大きな風邪や過労なんてことが全くない。平和すぎて医者には物足りないくらいだ」
「はは……」
物足りないのがちょうどいいんじゃないですか、なんてことは言えなかった。
「脚と目と……それから記憶が戻ってきてるなら、もっといいんですけど」
「そうだね。けれど、体のどこにも異常はない。やはり事故のショックによる、精神的なものなのかもしれないね」
「はい。早く治して出ていかないと……僕なんかがここにいて、申し訳ないです」
「こらこら。悲観してはいけない。どんな人間も世界に望まれた一人じゃないか……神殿のキャッチコピーなんだけど。それにへこんでちゃ、キミの周りの人もテンションが下がるってもんさ」
慈円は肩をばしばしと叩いてくる。声の調子からして、きっと良い笑顔だ。けれどこの医者、優しい声をして、結構力が強い。肩の骨が軋むのを感じ、桂花は慌てて頷いた。
「うむ。やはりキミの良いところは素直さだ。そんなキミに、はい」
慈円はテーブルの上に置かれていた袋を渡す。中身は分かっている。いつもの「赤い」薬だ。
「いつももらってますけど……この薬、なんなんですか?」
「前も言っただろう? 栄養剤と向精神薬を混ぜた薬だよ」
「でも、すごく赤いですよ」
「見えるのかい?」
「は、はい、うっすらと」
桂花は慌てて答えた。「あのこと」がバレてはいけない。
「色素だよ。桂花さんは弱視だから、よく分かるように念のため赤くしてあったんだ。白いほうが良いかい?」
「このままで大丈夫です。ほんとに、なんとなく気になって……」
一つ一つは小さくとも、集まればそれなりの大きさになる。白い薬包紙と赤い薬の色で、まるでピンクがかった……巨大な肉に見える。
特殊な視界の中、なぜかこの薬だけはよく見える。まるで大事なものであるかのように。
(何でだろう……)
分からないことだけが積み重なっていく。人間の脳とは不思議なものだから、考えても仕方ないこと……と割り切ろうとするが、第六感がそれだけではないと騒ぐ。
(ここで働かせてもらうだけでも、僕にはもったいないくらいだ)
……視界が純粋な暗闇であれば、まだここまでは悩まなかった。
まるで嘘のような世界に、桂花はいるのだから。
桂花はただ、慈円に「ありがとうございました」とだけ言い、医務室を去った。




