そして始まる、最後の花冠
暗闇に包まれる。オノが行った封は厳重で、一筋の光すら通さない。酸欠を防ぐためか、箱の内側を触ると呪符らしき感触があった。
「……これが。誘拐されるという体験」
「怖いこと言うな」
「かあさまも未経験だ。珍しいが、ひとはは寝る。クボも寝ろ」
「言われずとも」
目を閉じる。
だが。上下に揺れまくる環境の中で、当然眠れる訳もなく。胸に抱いたひとはは規則正しい呼吸をしている。
(童女、すごい)
これが順応性というものなのか。
睡眠は諦め、外の世界へと耳を澄ます。アニマの言うことが本当ならば、トシナ立はこれから上層へ向かうはずだ。下層に来た時、基底部の中はほとんど見なかった。時間が有り余る今は良い娯楽になる。
『巡回、お疲れ様です』
『ここだけの話ですからね。仕事をさぼってた、なんて』
トシナは呆れた。この門番たちは業務を放棄し、オノに任せていたらしい。そもそもおかしいと思っていた。ただの作業員が巡回という別作業を任せられるのは。
『あぁ。決して口外するな』
『分かってるよ。オレたちゃ死んでも喋らねぇからな!』
豪快な笑い声が響く。どうだか、と箱の中で毒づく。賄賂など下層では珍しくもないが、妙に苛ついた。狭い空間に押し込められ、ただただ暇だから気が立っているのだろう。
せめてもの癒しに、ひとはの頬を突っついてみたり。
普段なら決してしない行為だが、ひとはが寝ているなら別にいいだろう。バレてからかわれる心配もない。
(……)
ぷにぷにしていた。
すごく癒された。頬を寄せてみると、より心地いい。世界の娘を持つ人々は、こんな癒しが側にあるのか。
ひとははされるがままぷにぷにされ続ける。これなら長時間でも耐えられるんじゃないかと思い始めた時。
ガタンッ!
「……っ」
台車が大きく跳ねた。段差を無理やり通り抜けたような感覚だった。反射的に体が強張り、ひとはを抱き締める。
「……あさ?」
ひとはの寝ぼける口を押える。頭上から豪快な、オノのものではない声が聞こえてきた。今喋れば、中に人間がいることがバレてしまう。
『おい姉ちゃん、大丈夫か? 荷物、派手に飛んだぞ?』
『いえ、ご心配なく』
その言葉を最後に、会話は聞こえなくなった。
断続的な機械音が響く。エレベーターか。
ひとはは再び眠り始めたらしく、トシナの胸にくっついて離れなかった。
再び賑やかな倉庫を通り抜けると、石畳のような断続的な縦揺れが襲ってきた。
どのくらい経ったろうか。台車が止まった。光が差す。
立ち上がると、背中と腰が痛みを訴えた。ひとはもしかめっ面で腕を回している。
止まった場所は、どこかの路地裏だった。箱が積み重なり、ちょうど不審な物事があっても誤魔化せそうな場所だ。といっても、下層よりは遙かに清浄な空気。
……まさか、本当に上層に着いたのか。
困惑するトシナたちを気遣うこともなく、オノは指示を飛ばした。
「服を脱げ」
「……は」
呆然とする目の前に差し出されたのは、服一式。
「その汚れた服では不便だろう」
「……」
頷くのは癪だった。黒い線のタールみたいな液を浴びていても、自ら不潔だとは認めたくない。だが、下層の服のままでは到底いられない。上層の民は、油染みのついたシャツなど着ていないのだ。
選択肢はない。大人しく受け取る。
トシナは飾り気のない白いポロシャツとスキニータイプのズボン。ひとはは白いトレーナーと、紺色のオーバーオールだった。とても動きやすい。生地も今まで着ていたものとは比べられないほど。
「これも、神殿の選んだ服か」
「答える義務はない」
「センスわるげ。かあさまはいつも着物をくれた」
「任務が成功すれば、こいつが買ってくれるかもしれないぞ?」
オノは意地の悪そうな目でトシナを見る。トシナは鼻で笑うと、ブラウスに袖を通した。
「ホテルはここを出てすぐのウェブスター・インの204号室を使え。必要なものは置いてある。これはカードキーだ」
「やった、けいひで落とせる」
「では、私はここまでだ。成功を祈っている」
オノの口元は歪んでいた。
呪符をかざすと、跡形もなく消えていった……台車を残して。
言葉と態度が真逆だ。狭い箱に押し込めたやつの取る態度ではない。
苛つき、トシナは台車を蹴飛ばした。が、台車も空気に溶けるようにして消えていく。痕跡を決して残すことがない、特務の業……トシナにとっては、奴当たるものがことごとく消えていくだけだが。
「ひとは、行くぞ。あいつらの金で豪遊してやる」
「……クボ。悪事がみみっちい」
「何か言ったか?」
「なにも……」
ひとはのどこか憐れむような視線を振り切り、路地裏を出た。
これが、最後の任務となることは知らずに。




