かつて生贄にされた少女は、メリケンサックで神を討伐します
黒い線が散る。
漆黒の線は、メリケンサックに穿たれ、コールタールの液体となって飛び散った。
トシナは軽く拳を振る。メリケンサックの「穢」をポロシャツの袖で拭う。黒い生地は、物質ならざるモノの穢れも吸い込んでくれた。
「かみ。もういない」
「……了解」
短く答えると、相棒であるひとはと共にアジトへ向かう。
水道管の中の一室だ。水の流れる音だけが響く、静寂の場所。表向きは事務所として造られているが、内部は神を封じて守る御所。事務所の形をした小さな神殿。神の社。
「神」と呼ばれる黒い線を殴り倒す。それが敏奈とひとはの日常である。身を焦がすことは何もない。ただ線を倒し、静寂のみが支配するこの場所に戻るだけ。
ただ、時間が過ぎていく。
線との戦いは単なる日常。
この、感覚すら無いような静寂も、いつものもの。
静寂に浸っていたトシナを呼び戻したのは、童女の足音だった。小さく呟く。
「おかえり、ひとは」
「ただいま」
ひとはがドアを開けて入ってくる。トシナがぼんやりしている間、いつの間にか外に出ていたらしい。
幼女である彼女は背が小さいため、しがみつかねばドアノブを回せない。ドアにしがみついた格好で、子猫のように足をぷらぷらさせながら入ってきた。
町を転げ回ってきたのだろう、サイドアップだか頭の横で1つに結んだ髪もぼさぼさになっている。幼い頃からショートカットを継続してきたトシナには、分からない苦労だ。ひとはを相棒に加えて、ようやく思い出した事実の1つ。
ひとはの手には、一冊の本が抱えられていた。聞く前に、彼女はどこか誇らしげな顔で見せつけてきた。
「トシナ。もらった」
表紙には『遠い海へ』と書かれている。
「そんなのどこの誰が持ってたんだ。本なんて貴重だろ」
「しらないひと」
「知らない奴からモノをもらうな……何度注意したら治るんだ」
「ひとはがびゅーでぃふるがーるになったら」
「遅すぎる。ほら、ヘンなもんじゃねぇか確認するから、ちょっと見せてみろ」
表紙は古びた上に、あちこち汚れ、破れ、見覚えがなければ判別も危うかっただろう。めくると、やはり見えにくいが穏やかなタッチの挿絵が入っている。
(……懐かしいな)
トシナはこの本を読んだことがある。上層の子供なら、一度は読んだことがあるのではないかという有名な本だ。
記憶も朧気な頃、両親の膝の上で。
初等部に上がった頃、「あいつ」と一緒に。
……けれど、もう関係の無いことだ。何もかも。
夢想に引き込まれていたトシナを現実に引き戻したのは、幼女の声だった。
「よんで」
「気が向いたらな。その前に髪を直すぞ」
言うと、ひとはは素直に側頭部を見せた。髪をまとめ、ゴムでくくり直す。鮮やかな赤い髪が、ぴょこんと跳ねる。
誰かなら、このひとときを穏やかな時間と形容するのだろうか。切り裂くように、歪んだ鐘が鳴り響いた。
『任務だ』
合成音声が平穏の終わりを告げる。
「にんむだ、にんむだ。またわるいやつをなぐれるぞ」
物騒なことを言い、ひとはがパイプ椅子に勢いよく座る。かさついた椅子からまた一枚、合成皮がめくれて落ちていった。
「またおちてった」
「我慢しろ、ひとは」
『上層で、神の気配があった。討伐しろ』
「上層?」
「たかいとこ」
「行けるのか、そんな場所まで」
トシナたちの困惑を置き、合成音声は続ける。
上層とは、塔が中心にあるこの世界で、名の通り上の階層だ。下層の住民は夢にしか語れない。神という超常存在が関わっていれど、下層の民が行けるのか。
『上層への到達方法はこちらで用意する。オノという者に『ミズマンジュウ』と伝えろ。『オニマンジュウ』と答えれば確定する。後はオノが指示する。然る後、3日間の調査を行え』
「雑だなぁ……」
「おおあきれ」
仕事ながら呆れてしまう。そんな簡単に上層へ行けてしまうなら、下層で七転八倒している人々は何なのか。
けれど、これは任務だ。
トシナが存在できる、唯一の理由だ。
選択肢はとうの昔に存在しない。
「行くぞ、ひとは」
「いすのしゅうりがまだ」
「ほっとけ。手で押さえても直らない」
破れた皮は、手遅れであることを示すように、もう一枚床へと落ちていった。




