序章
視線は合わない。足は動かない。
姿も声も同じなのに、何もかもが違う。何もかもが、遠い昔のことだったようで。
■■■■の記憶すら、幻のよう。
あの人は変わらず、オレンジ色の芽吹く小花のように、素朴に笑っていた。こんな再会の仕方をしたのに、自分を迎えてくれる。
思考が分断される。
忘れていて。
覚えていて。
忘れていて。
どうか、「私」のことを覚えていないで。
「はじめまして。僕、花井桂花です」
あの人は、右手を差し出した。その手を握り、安心する。
あぁ、ちゃんと、忘れてくれていた。
■■■■は、笑顔を返した。
◆
「……どうしよう」
一睡もできぬまま、彼女は天井を見つめ続けていた。
時計の針は一秒ごとに時を告げ、緊張を増幅させていく。起床時間の5分前まで幾ばくもない。緊張に呻き、悶絶している時間は残されていないのだ。
少女が何を思おうが、冷酷に刻限は迫ってくる。
悩んでいても仕方ない、やるしかない……けれど、指の震えは抑えられない。
……いっそ断って、逃げてしまおうか。
「い、いやそんなの、絶対ダメだ」
そもそも不可能だ。
……足は動かないのだから。
「みんなが来るんだ、お父さんにお母さん、佐藤さんに……あと……」
そこで言葉が止まった。先ほどの緊張を退けるように、別の感情が広がっていく。
頬が赤く染まっていく。
「あと……ゆうきさんと……」
その名前を口にする度、ふわふわして、あったかくて、ちょっと楽しくなる。
あの人は、見てくれるだろうか。考えただけで、考えただけで。
「あぁぁぁぁもうダメだあ! またドキドキしてきたぁ!」
頭を抱え、彼女は叫んだ。それだけでは到底足らず、布団を手で掴んで振り回す。
失敗したら? ひょっとして嫌いになったら? その先は……怖くて想像なんてできない。
でも。
もし成功したとしたら。
喜んでくれる?
「……だったら、頑張って……みようかな。いや、みるんだ」
はだけた布団の下で、彼女は呟いた。
覚悟を決めたのを見計らっていたようなタイミングで、扉がノックされる。
「は、はいっ!」
応える声は震えていた。けれど、ありったけの勇気を込める。
プレッシャーに、負けないために。
◆
そこは薄暗い闇に包まれていた。
魔法陣と蝋燭、ありとあらゆる降臨のアイテムが並ぶ場は、ひとつだけ足りないものがある。
生贄だ。
オクニ・コウコは魔法陣を見つめる。焦ってはいけない。いずれこの中央に、相応しい捧げ物が現れる。
だが、焦らずにはいられない。一族が野望を抱いて、もう何度月日が巡ったのか。気付くと腕を激しく掻いていた。ローブに包まれた皮膚がひりひりと傷む。
「……神の様子はどうだ、コウコ」
暗闇の中で、もう1つ動く気配があった。長身の女だ。
「順調だよ」
中央には、奇妙な生物がいた。精肉機にかけたばかりのミンチに似ている。だが、ただの肉がこのような場所にあるはずがない。
コウコは近づくと、触手の先端を切り落とした。赤い粉が吹き上がる。コウコは極めて冷静に、袋へと入れていく。
「そちらは?」
「完了している」
小さなテーブルの上に、黒い珠があった。数は3つ。つるりとしていたが、世に空いた穴のごとく外気を吸い込んでいる。
女は手袋をはめる。呪い除けがされた特別な手袋だ。黒い珠を掴み上げる。
「頼んだぞ」
「あぁ」
女を見送ると、コウコはローブの襟を強く締めた。時が来るまでくるまで、ここは決して荒らされてはならない。自らの役目だ。
例え命に換えても、守らなければ。




