交差する金木犀
「……うげ」
桂花は心臓を押さえた。
心臓が不気味に動いた。骨と肉の中で、まるで別個に生きているかのようにぐんにゃりと動いた。幸いにもすぐに収まったが、余韻のように激しく鼓動している。微かに脂汗が滲んだ。
ただ、昼休みの散歩として外に出ただけなのに。
「八鶴さん、帰りませんか。僕、ちょっと体調崩したみたいで……」
八鶴の返答がない。
いつもならすぐ帰ってくるのに。
首を巡らせて上を見ると、彼女は唇を噛み締めてあらぬ方向を見つめていた。彼女にしては珍しいほど、感情の溢れ出して……怒りが溢れ出ている。
「……しくじったか」
「や、八鶴さん?」
声をかけた途端、爆発音が響いた。
「うわっ!」
周囲から悲鳴が上がる。爆発は立て続けに何度も爆発は起こっていく。現場から逃げてきたのだろう、何人かが通りの向こうから走って来る音が聞こえた。
彼らは口々に言う、爆発物だ、事故だ、テロだ、と。
混乱はあっという間に広がり、穏やかだった町はあっという間にざわめき始める。冷静さを取り戻したらしい、八鶴の声がする。
「みなさん、落ち着いて下さい! 何があったのですか」
「カフェで、何かが爆発したんだ」
「黒い何かで」
「すっげー煙が出てた!」
「見たことがない。古代兵器では!?」
「……分かりました。早急に対処しますので、皆様待機をお願い致します」
だが、爆発は終わらない。
八鶴が顔を寄せ、桂花に囁く。
「桂花様。これより私は一般人の避難誘導に向かいます」
「は、はい!」
桂花は頷いた。一人で、車いすで街を走ったことはない。不安はあるが、今は緊急事態だ。できるかできないかを話している暇はない。
八鶴は片膝をつくと、車いすに何かを取り付け始める。
「桂花様、これから車いすで空を飛んで下さい。これで先に神殿までご帰還下さい」
「そ、空を飛ぶ!?」
「加速装置です。一時的に空を飛んだ心地で疾走することができます」
「し、知ってますけど! そ、そんなの初めてで……」
「操作は変わりません」
「う、うぅ……」
そんなことを言われても。
肘掛けを握り締めていると、八鶴は桂花に目線を合わせた。
「あなたは神殿の職員なのです。一般人のために、今はできることをなさって下さい」
「や、八鶴さん……」
車いすの肘掛けを握りしめる。
そうだ、ダメダメな僕だからこそ、こんな非常時に頑張らないでどうする。みんな怖いんだ、僕だけが怖がる訳にはいかないんだ!
「分かりました、先に行ってます!」
「では、ご無事で」
八鶴が背を向ける。桂花は唇を噛み締め、小さく深呼吸した。肘掛けに着けられたボタンを押す。
途端。
ブォワァァァァァ!
「はいっ!?」
聞いたことのない駆動音がした。車いす全体が、微細な振動を始める。それはやがて、脚全体を震わすバイブレーションへと変わっていく。
「こ、これやばいんじゃ……」
冷や汗と共に呟くが、やると言ったのは自分だ。八鶴を信じ、ブーストパックが無事に作動するのを待つしかない。
駆動音が限界まで高まった時。
体が浮いた。
「ひええええええええええええええええええっ?!!?」
凄まじい勢いで、白い線が通り過ぎていく。無数の赤い点が目の前を飛び回っていく。
しまいには。
「う、上えええええっ!?」
視界が俯瞰図に変わった。それはつまり、空中に浮いているということで。どさりと落ちたのは、幸運にも誰もいない路地だった。
「ま、ま、まままままままま……」
まさかの空中浮遊まで。
加速装置、すごすぎる。
ばくばく鳴る心臓を確認。とりあえず、桂花は生きている。手足が吹っ飛ぶこともなく生存している。とにかく。今やるべきことは。
「か、かえりゃないと……」
車いすのモーターを操作すると、ちゃんと前に動いてくれた。空を飛んだことなどなかったかのように。
心臓の音に混じって、炸裂音がもう一度響いた。再び悲鳴があちこちから響く。不穏なことに風も強い。金木犀の香だけが、微かに安心させてくれる。
「……あれ」
花に混じって、おかしな匂いがある。
腐臭。
肉が腐った、酸っぱい……けれど、それだけではない。
「なんだ、この匂い……」
ガスとも灰とも違う。しかし、どこかで知っている匂い。……分かるのは、早くここから離れたほうが良いということだ。
車いすは順調に、桂花を神殿へと運んでいく。
と。
「……ひとは……ない」
「そう……か」
会話が聞こえ、桂花は視線を向けた。そちらにはただ人混みがあるだけだ。声的に、幼い少女と若い女性の会話。
ブレーキを引き、車椅子を止めた。
(何で。はやく、帰らないといけないのに)
考えをまとめるよりも早く、モーターは動き続ける。桂花はハンドルを握り、車いすの方向を変えようとした。
知り合いはいない。なのにどうして、こんなに気を惹かれたのだろう。
(今の声、誰だろう。知りたい……!)




