第5話 緊張の底なし沼
シャワーを浴びた後で水道水を飲んでいると愛依が話し掛けてきた。
ちょうど頭の中で水道代の計算をしている所なので邪魔されたくは無かったが愛依を無視する訳にはいかない。
「ちょっと相談があるんだけど……」
なぜかいつもと態度が違う。何かあったのだろうか。いや、新しいゲームをねだっているだけか? 今回はしおらしい作戦だろうか? 浅はかな奴だ。節約のゾーンに入った俺が安易な作戦で篭絡される訳がない。
「新しいゲームは買わないからな。何か欲しいのなら誕生日の三か月前に交渉しろ。値段、理由、どのように運用するのかをメールに纏めて送って来い。検討してやる」
「違うわよ!」
「じゃあ何だ? もしかしてまたネットの友達に嫌な事でも言われたのか? だとすれば気にするな。相手は顔も名前も知らない奴らだろ? 家族の俺は一生お前を嫌ったりしないから安心しろ」
愛依が配信すると少なからず誹謗中傷を受ける。以前も喋るな気持ち悪いや嫌いだなこいつなどのコメントを書かれて酷く落ち込んでいた。キャラクターは明るくて前向きでも中身は臆病な愛依のままだ。兄として全力で味方になってあげなくてはならない。
「じゃなくて! その……あんたに配信を手伝ってもらいたくて……」
愛依のキャラクターであるメイメイちゃんが困った表情をしている。
こういう表情も出来るのかと感心してしまった。
「……俺が?」
「登録者の人からのお願いなんだけど……占いのコーナーを作りたいのよ。あんたの力を使えば相談してくれる人も喜んでくれると思って……」
愛依は俺の未来が視える能力を知っている。ただ、未来が視えるせいで中学時代からインチキ占い師というあだ名を付けられている事は知らない。
他人の未来を視えるのはいい事なんて無い。顔とテーマが決まれば俺の意思に関係なく脳内に映像が流れてくる。未来を知っているのは得でも何でもないのだ。俺はドラマや映画が全く面白くない。人と話していても楽しくはない。どういう展開になるのか、何を言おうとしているのかが分かってしまう。
他人は凄い能力だと羨ましがるかも知れない。俺としては変わって欲しいくらいだ。
「悪いけど俺は手伝えない。その人の未来が視えても良い未来が訪れない可能性もある。わざわざ教えてやるのは可哀そうだ。気を使って嘘を付くのも俺には出来ない」
「完璧に言い当てなくていいから! 少しだけ相談に乗ってあげるだけでいいの!」
「無理だ。やるなら自分で勝手にやれ」
「……お願い……お兄ちゃん……」
お兄ちゃん! 愛依が俺の事をお兄ちゃんって言った!? はえッ!?
愛依が三年ぶりに俺を兄扱いしてくれたので心臓が飛び跳ねた。
何だこの感情……頭がふわふわする……驚きか? それとも嬉しいのか? 落ち着け。息を整えろ。これは愛依の作戦だ。圧倒的高揚感を抑えろ。このままでは兄の威厳が失われる。そうだ。そうだよ。冷静に対処すればいい。いつもの事だ。
簡単だよな俺。俺なら出来るよな俺。頑張れ俺。
自分を落ち着かせて断ろうとすると悪魔が囁いてきた。
これはチャンスなのではないか、と。
俺の目的は愛依を普通の社会生活に戻すことだ。お願いを交換条件にして部屋を出て貰うのどうだろうか。いや、いきなり部屋を出るのは可哀そうだ。なら俺と面と向かって会話をするというのはどうだろう。俺も愛依の顔色を見て元気なのかを知りたい。
瞬時に脳内裁判を終えた後で愛依に判決を申し渡す。
「じゃあ部屋を出て被り物をせずに俺の前でお願いするのなら受けてやる」
言ってからすぐに後悔が襲ってくる。これは卑怯なのではないでしょうか?
弱みに付け込んで愛依を陥れようとしていませんでしょうか? 俺は詐欺師なのか。犯罪者予備軍なのか!?
いや待て待て待て待て。冷静になれ。愛依が断る可能性が高いではないか。
引きこもりのプロである愛依が簡単に姿を現すはずがない。だとすれば交渉は決裂。俺の詐欺罪が無効となる。晴れて無罪になるのだ。
「……分かった」
ほらやっぱり断った。良かったー。愛依がお兄ちゃん何て言うから動揺してしまったではないか。精神力を鍛え直す必要があるな。
ってあれ? もしかして分かったって言った?
「マジ?」
すると廊下の方でガチャリと扉が開く音がした。
どうやら本気らしい。俺は緊張でカラカラになった口の中を潤すように水道水をがぶ飲みした。慌てるな。普通に接すればいい。顔は半年以上見ていないがいつも会話をしているではないか。兄として普通に対応すれば問題ない。
普通を意識するあまり異常に緊張感が高まっていく。俺は緊張の底なし沼に飛び込んでしまったようだ。




