第6章:ルネサンスの特色(ダヴィンチとの遭遇)
バチィィィィン!!
極彩色の閃光とともに次元のトンネルを抜け、時空空母「大宇宙印刷」は新たな歴史の座標へと錨を下ろした。
四色機の駆動音がゆっくりと静まり返ると、開け放たれたスライド式シャッターの向こうから、それまでの足立区の排気ガスとも、19世紀ロンドンの石炭の煤とも違う、全く新しい空気が工場内に流れ込んできた。
乾いた風が運んでくるのは、アルノ川の穏やかな水鏡の匂い。オリーブオイルとニンニクを熱した香ばしい香り。そして、なめし革と、石畳を叩く馬蹄の音、遠くで鳴り響くサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘の音だった。
「……到着よ! 座標軸固定、16世紀初頭、イタリア・フィレンツェ! ルネサンスのど真ん中よ!」
クロエがトレンチコートを翻し、ホログラム端末を空中に展開した。
「16世紀初頭のフィレンツェ……。芸術と商業が爆発的に交差した、人類史上最も美しい時代の一つですね」
若槻さん(39)が、スチールデスクの上で埃を被ったバインダーをハンカチで叩きながら、冷ややかな視線を外に向けた。
「クロエさん。今回はイタリアですか。当時のフィレンツェはメディチ家の影響力が強いはず。まさか、ルネサンス期の複雑な関税やギルド(同業者組合)の税制を無視して、モグリの印刷業を営む気じゃないでしょうね? 私、フィレンツェ共和国の徴税役人に追われるのは御免ですよ」
「だ、大丈夫よ若槻さん! 私たちはあくまで『次元の裏路地』にいるから、こちらの工場そのものは現地の人には見えない仕様になってるわ!」
「おおっ! イタリア! 花の都フィレンツェ! イターリアの女は情熱的だって言うからな!」
工場長(60)がパイプ椅子から飛び起き、手鏡でハゲかけた頭をチェックし始めた。
「おい高木! お前もいつまでも油まみれで機械なんか弄ってないで、ナンパしに行くぞ! 足立区の伊達男の力を見せてやるんだ!」
「……工場長。インクの溶剤で脳細胞がやられたんですか。俺は機械のセッティングで忙しい。それに、ナンパなら言葉の通じる時代でやってください」
高木裕太(34)は、外の美しいルネサンスの風景など一瞥もせず、四色機のインク壺をスパナでカンカンと叩いて点検していた。
「あ、言葉の心配なら大丈夫よ! 今回も『超高精度・言語翻訳デバイス』を耳に入れておいてね!」
クロエが全員にインカム型のデバイスを配る。
「それでクロエ。今回の『バグ』はなんだ」
裕太がウエスで手を拭きながら振り返った。
「ええ。今回の標的は、人類史上最も有名な絵画……レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』よ!」
クロエがホログラムで、誰もが知るあの名画を空中に投影した。しかし、その映像を見て裕太は眉をひそめた。
「おい。なんだこの色は。全体がマゼンタ(赤紫色)のベタ塗りじゃねえか。シアンとイエローの版が抜けてるぞ」
「その通りよ、ダーリン! デリート(白紙化教団)の奴ら、今度はダ・ヴィンチのキャンバスに直接『カラーバランス崩壊バグ』を仕掛けたの! このままじゃ、モナ・リザが『全身真っピンクの不気味な女の絵』として歴史に残ってしまうわ! ダ・ヴィンチの工房に潜入して、あなたの手で正常な色を『見当合わせ』してちょうだい!」
「……全身真っピンクだと? 芸術以前の問題だ。そんな色被り(カラーキャスト)のひどい印刷物、俺の網膜が許さねえ」
裕太はスパナをポケットにねじ込み、ズカズカとシャッターの外へ歩き出した。
「行くぞ。そのダ・ヴィンチとかいう素人デザイナーに、色の基本を叩き込んでやる」
フィレンツェの路地裏を抜け、裕太とクロエ(と、なぜかついてきた若槻さん)は、ダ・ヴィンチの工房へと潜入した。
工房の中は、得体の知れない機械の設計図、解剖学のスケッチ、そして強烈な顔料と亜麻仁油の匂いが充満する、カオスな空間だった。
その中央で、長い髭を蓄えた初老の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが、頭を抱えて唸っていた。
「Dio mio……! なぜだ! なぜ私の愛するリザの微笑みが、こんな毒々しい赤紫色に染まってしまうのだ! 私はラピスラズリの青と、アンバーの黄土色を混ぜて、完璧なスフマート(ぼかし技法)を描き出そうとしたのに!」
イーゼルの上に置かれた描きかけの『モナ・リザ』は、クロエの言う通り、異常なマゼンタ色の光を放ち、周囲の色彩を強制的に赤紫に書き換えていた。
「……そりゃそうだろうな」
裕太が、ダ・ヴィンチの背後から呆れたような声を出した。
(翻訳デバイスにより、完璧なルネサンス・イタリア語として響く)。
「あんた、顔料の練りが甘いんだよ。そんなシャバシャバの油で溶いた色を重ねたって、下のマゼンタが透けて見えるだけだ。インクのタック(粘度)を計算してない証拠だな」
「な、何者だ君たちは!?」
驚いて振り返るダ・ヴィンチ。しかし彼の目は、裕太の着ている『大宇宙印刷』のロゴが入った作業着に釘付けになった。
「おお……なんという機能的で無駄のない衣服だ。それに、その手についた黒い染み。君、ただ者ではないな? どのギルドの職人だ?」
「足立区の、四色機専属オペレーターだ。……あんたがダ・ヴィンチか。あんたが描こうとしてるその『スフマート』ってのは、要するにCMYKの網点のパーセンテージを滑らかに変化させる『グラデーション』のことだろ?」
裕太はキャンバスに顔を近づけ、50倍のルーペをピタリと当てた。
「ほら見ろ。マゼンタの網点が異常に太ってやがる(ドットゲイン)。これじゃ、いくらシアンやイエローを上から重ねても、色が濁るだけだ」
「網点……? グラデーション……? 何を言っているのか全く分からんが……」
ダ・ヴィンチは目を輝かせた。
「君の言う『パーセンテージ』という概念、非常に数学的で美しい! 私は人間の魂の揺らぎを、輪郭線をなくすことで表現しようとしているのだ! この赤紫色は、宇宙の真理が私に与えた試練なのかもしれない……!」
「魂だの真理だの、寝言はRGBモニターの前だけで言ってろ」
裕太は冷酷に切り捨てた。
「色が濁るのは物理現象だ。バグのせいでマゼンタが暴走してるなら、それを相殺するだけの強力な『特色』を作るしかねえ」
「特色……?」
「そうだ。シアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの四色じゃ表現できない色。俺のいた岡崎印刷の社長はこう言っていた。『世界に無い色なら、自分で練って作れ』とな」
裕太はダ・ヴィンチの顔料棚から、ラピスラズリ(青)、孔雀石(緑)、そしてクルミ油を無造作に引っ張り出した。
「おい髭のおっさん。あんたの天才的な観察眼で、この女の肌の『本当の色』の配合比率を言ってみろ。俺が完璧な粘度のインクに練り上げてやる」
「おお……! 君という男は、なんという合理的かつ野蛮なアプローチをするのだ! 気に入った! ならば、光の屈折率を考慮して、緑の顔料をベースに……」
ルネサンスの万能の天才と、足立区の偏執狂的印刷職人。
二人は芸術と工学という全く違う言語を話しながらも、「究極の色を生み出す」という一点において完全に意気投合し、顔料を混ぜ合わせるカオスなセッションを開始した。
「違う! オイルが多すぎる! これではトラッピング(インクの定着)が甘くなる!」
「馬鹿を言うな異国の友よ! 空気遠近法を表現するには、この透明度が必要なのだ!」
「透明度を持たせつつ定着させるのが職人の腕だろうが! 貸せ!!」
「……なんなの、あの二人。言葉のキャッチボールが全然成立してないのに、すごいスピードで『謎の特殊インク』が完成しつつあるわ……」
クロエが呆然と呟いた。




