第7章:見当ズレズレの恋バナ
男たちが「究極の特色」作りに没頭し、工房の中に顔料の粉塵と熱気が立ち込める中。
部屋の隅に置かれた長椅子で、深いため息をついている一人の女性がいた。
この絵のモデルであり、裕福な絹織物商人の妻、リザ・デル・ジョコンド(24)である。
「……はぁ。もう何時間も座りっぱなし。あのお爺さん(ダ・ヴィンチ)、私の顔を見てブツブツ言うばかりで、一向に絵が完成しないわ……」
リザが肩を落としていると、彼女の隣にスッと、冷たいグラスが差し出された。
「お疲れのようですね。冷たいレモネードです。糖分を補給してください」
「えっ……? ありがとうございます」
リザが顔を上げると、そこには、ルネサンスのフィレンツェには絶対に存在しない、洗練されたグレーの事務服に身を包み、銀縁メガネをかけた東洋の美女、若槻さんが立っていた。
若槻さんはリザの隣に優雅に腰掛け、自分もアイスコーヒーのストローを咥えた。
(……それにしても、鈴木さん。こんな16世紀のイタリアで、どうやって氷入りのレモネードとアイスコーヒーを用意したのかしら。後で絶対に領収書の出所を問い詰めないと)
「あの……シニョーラ(奥様)」
リザは、若槻さんの放つ「自立した知的な大人の女」のオーラに圧倒されながら、ぽつりとこぼした。
「私、最近悩んでいるんです。夫は裕福で優しいけれど、いつも絹の取引やお金の話ばかり。そして、この絵の先生は、私の顔をまるで『解剖学の実験材料』みたいに見つめるの。私という『人間』を、誰もちゃんと見てくれていない気がして……」
モナ・リザの憂鬱。
それは、若き人妻の、誰にも言えない孤独な恋の悩み(?)だった。
若槻さんはメガネのブリッジを中指で押し上げ、バインダーを開いた。
「なるほど。要するに、パートナーとの『投資対効果(ROI)』が見合っていないと?」
「アール・オー・アイ……?」
「ええ。あなたは自分の『若さと美貌』という最大資産を、旦那様の『財力』という資本に投資した。しかし、そこから得られる精神的なリターン(配当)がゼロに等しい。いわゆる、不良債権化しつつあるわけですね」
「ふ、ふりょうさいけん……? よく分かりませんが、私の心は満たされないのです」
リザは寂しそうに目を伏せた。
若槻さんは、チラリと視線を工房の中央へ向けた。
そこでは、裕太が顔やツナギを顔料まみれにしながら、「シアンが足りねえ!」「魂の深淵だ!」とダ・ヴィンチと怒鳴り合っている。
「……分かりますよ、あなたの気持ち」
若槻さんの声が、急に底冷えするようなアルトのトーンに変わった。
「男という生き物は、自分の仕事や興味のあること……例えば『インクの粘度』とか『機械の回転数』とか、そういう物理的なものにしか目がいかないんです。すぐ隣に、こんなに完璧に事務処理をこなし、有給休暇の管理までしてあげている女がいるのに。休日に食事に誘うこともなく、会話といえば『若槻さん、タイムカードのインクが薄いぞ』だけ。……馬鹿みたい。本当に、腹立たしいくらい、つまらない男」
若槻さんのペンが、バインダーの紙をギリギリと力強く引っ掻いた。
「えっと……シニョーラ? なんだか、私よりあなたの方が怒っていませんか?」
「ええ、怒っていますとも!」
若槻さんはリザの肩をガシッと掴んだ。
「リザさん。いいですか、コンプライアンス的に言えば、彼らの態度は立派な『モラルハラスメント』です。女の心境の機微を合わせようとしない男なんて、こっちから見限ってやりなさい! 領収書(証拠)は全部取っておいて、いざという時に慰謝料として請求するのよ!」
「りょうしゅうしょ……? い、慰謝料……?」
ルネサンスの純朴な人妻に、現代日本の世知辛い労務・法務知識が怒涛の勢いで叩き込まれていく。
「でも、シニョーラ……私は、あの人が好きなんです」
リザが頬を赤らめて言った。
「どんなにお金の話ばかりでも、私を愛してくれているのは分かるから……」
その言葉に、若槻さんはハッとして、掴んでいた手を離した。
(……私ったら、何を熱くなっているの。モナ・リザ相手に、自分のしょうもない愚痴を投影するなんて。これこそ見当ズレも甚だしいわ)
若槻さんはコホンと咳払いをして、ブラウスの襟を正した。
「……そうですね。結局のところ、私たち女は、そういう『どうしようもない男の不器用さ』ごと、帳簿のマイナスに計上して生きていくしかないのかもしれません。……本当に、割に合わない商売ですけれど」
若槻さんがふと優しく微笑んだその時。
リザの顔にも、それまでの憂鬱がふっと晴れ、神秘的で、どこか達観したような、あの有名な『微笑み(アルカイックスマイル)』が浮かんだ。
「ありがとう、東洋のシニョーラ。なんだか、少しスッキリしました」
「……ええ。お互い、せいぜい頑張りましょう」
完璧な女子トーク(内容は全く噛み合っていないが)が成立した瞬間だった。
(お茶が入りました)
音もなく現れた鈴木さんが、純白のテーブルクロスの上に、フィレンツェ名物『ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(Tボーンステーキ)』の炭火焼きと、キャンティ・クラシコ(赤ワイン)のボトル、そしてなぜか『サイゼ〇〇』のロゴが入った辛味チキンを並べていた。
「鈴木さん。このステーキ肉、ルネサンス期のフィレンツェの市場で、どうやって経費で落としたんですか。そもそも通貨が違うでしょうに」
若槻さんの冷たいツッコミに、鈴木さんは無言で親指を立て、極上の赤ワインをグラスに注いだ。
一方その頃、工房の外では。
「チャオ! ボンジョルノ! そこの旦那! 足立区発、最新の『キャバクラ・ギャラクシー』のポスターはいかがかな!? なんと今なら、メディチ家御用達の割引価格で……」
工場長が、通りすがりのフィレンツェの豪商たちにポスターを売りつけていたが、完全に不審者扱いされ、衛兵に槍を向けられて逃げ回っていた。(彼が歴史に干渉するバグは、幸いにして一切発生しなかった)。
「完成したぞ!!」
工房の中央で、裕太とダ・ヴィンチの雄叫びが重なった。
二人の顔は絵の具でドロドロだったが、その手には、妖しくも美しい、深みのある『ルネサンス・カスタム・インク(特色)』が入った壺が握られていた。
「クロエ! こいつを工場(大宇宙印刷)の四色機にぶち込むぞ!」
裕太は壺を抱えて走り出した。
「了解よ、ダーリン! 座標をダ・ヴィンチのキャンバスの表面にリンクさせるわ!」
クロエがホログラム端末を操作し、工房の空間と、次元の裏側に隠された大宇宙印刷の『排紙部』を同期させた。
裕太は工場のコンソールに飛び乗り、ダ・ヴィンチと一緒に練り上げた特色インクを機械にセットした。
「目標、マゼンタのバグに侵された『モナ・リザ』! インクキー全開! シリンダー、回転開始!!」
プァァァァン!!
機械が唸りを上げ、時空を越えてダ・ヴィンチのキャンバスに向け、極小の網点となって特色インクが射出されていく。
「おおおお……! なんという精密な筆さばき(?)だ! 光の粒がキャンバスに定着していく!」
ダ・ヴィンチが目を丸くして感嘆の声を上げる。
バグの放つ強烈なマゼンタ色に対し、裕太の射出したインクが、コンマ01ミリの狂いもなく重なり合っていく。
「見当、ピタリだ!! オーバープリント!!」
シュンッ……!!
光が収束した。
イーゼルの上のキャンバスには、もはや毒々しいピンク色の女の姿はなかった。
そこにあったのは、精緻なスフマート技法によって描かれた、深みのある色彩と、どこかシニカルで、それでいて全てを包み込むような優しさを秘めた『神秘的な微笑み』を浮かべる女性の肖像画だった。
「……Bravo! 完璧だ! これこそ、私が求めていた『魂の色彩』だ!!」
ダ・ヴィンチが涙を流してキャンバスに抱きついた。
「ふん。まあ、インクの粘度さえ合えば、グラデーションなんてこんなもんだ」
裕太はウエスで手を拭きながら、無表情で鼻を鳴らした。
「やったわね、ダーリン! これでモナ・リザの歴史は守られたわ!」
クロエが裕太に抱きつこうとするが、裕太はまたしても華麗なステップで回避し、クロエは顔料の粉の山に突っ込んだ。
若槻さんは、完成した絵の女性の顔を見て、小さく息を吐いた。
(……あら。あの微笑み、さっき私と話した時のスッキリした顔にそっくりじゃない。……まあ、歴史のバグの修正に少しは貢献してあげたってことにしておきましょうか)
バインダーを小脇に抱え直す若槻さんの口元にも、モナ・リザによく似た、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
「さて、次の仕事だ。クロエ、座標を出せ。こんな油と顔料の匂いが充満する場所に長居したら、工場の中の湿し水が腐っちまう」
裕太はすでに、次の「見当合わせ」に向けて機械のメンテナンスを始めていた。
「待ってくれ、東洋の職人よ!」
ダ・ヴィンチが裕太の背中に呼びかけた。
「君のその『印刷』という技術、本当に素晴らしい。もしよかったら、私の工房で一緒に……」
「断る」
裕太は振り返りもせずに言った。
「俺の帰る場所は、足立区の『大宇宙印刷』だけだ。それに、俺の社長は岡崎社長ただ一人だ。あんたの絵は悪くないが、機械の扱いが雑すぎる。出直してこい」
そのブレない冷酷なまでの職人宣言に、ダ・ヴィンチは呆気にとられた後、ワッハッハと豪快に笑った。
「君は本当に面白い男だ! Grazie、ヨータ!」
かくして、ルネサンスの天才と、経理の氷の女王が残した奇妙な足跡は、人類史上最高の名画の中に『究極のインクの乗り』と『少しのコンプライアンス精神』として、永遠に刻まれることとなった。
「鈴木さん、お茶だ!」
(無言で親指を立てる鈴木さん)
「おぉーい! 誰か俺を助けてくれー! 衛兵に捕まるぅぅ!」
(遠くから聞こえる工場長の悲鳴)。
時空空母・大宇宙号は、フィレンツェの美しい鐘の音を背に、再び次元のモアレの中へと姿を消していった。




