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CMYKの特異点〜四色機職人・高木裕太の時空見当合わせ〜  作者: 光闇居士-Twilight Master


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第2話:恐竜とドットゲイン

むせ返るようなシダ植物の青臭さと、極端に湿度の高い空気が、大宇宙印刷の工場内に流れ込んでいた。

足立区の排気ガスとインクの匂いが入り混じったいつもの空気とは、明らかに成分が違う。


開け放たれたスライド式シャッターの向こうには、鬱蒼とした白亜紀のジャングルが広がり、巨大なシダ植物の葉から滴る大粒の露が、未知の重力に引かれるように地面を穿っていた。


「……信じられない。本当に飛んだわ! 座標軸の同期、完璧じゃない!」


トレンチコートを着た謎の女、クロエ・マクスウェルが歓喜の声を上げる。彼女の持ち込んだ異常なアルミ版(CTP)が引き起こしたこの事態に、工場長は白目を剥いてパイプ椅子の上で卒倒し、無口な巨漢アルバイトの鈴木さんは、なぜか竹箒を両手で握り締め、シャッターの外をジッと見据えていた。


そして、菊全判四色機のエース・高木裕太(34)は。


「……最悪だ」


時空を超えたという宇宙規模の奇跡を前に、裕太の口から出たのは地の底から響くような呪詛だった。

彼は血走った目でジャングルを睨みつけると、そのままコンソールパネルに突っ伏し、頭を抱えた。


「おい、クロエとか言ったな。お前、自分が何をしたか分かってるのか」


「えっ? もちろんよ! 歴史のバグを修正するために、この工場ごと時空の歪みにダイブさせたの! 感謝してよね!」


「感謝だと? ふざけるな。この異常な湿気と温度差……紙が急速に水分を吸って、エッジが波打ってきている。いわゆる『波打ち(ウェービング)』だ。こんな状態で機械に通したら、シワが入るどころか、紙が伸びて見当ピントが狂うに決まってるだろうが!!」


裕太はバンッ! と操作盤を叩いた。


「俺がさっきまで、どれだけ繊細に湿し水のpH値を調整していたと思ってる! お前のせいで台無しだ! 岡崎社長がこの惨状を見たら、大宇宙印刷の看板を下ろせと言われるぞ!」


「ちょっと待って、怒るポイントそこ!? 私たち、今、白亜紀にいるのよ!? 恐竜の時代よ!?」


クロエが目を丸くして反論したその時。


——ズシン。


地面が、いや、工場全体が微かに揺れた。

排紙部に積まれたヤレ紙(損紙)の束が、サラサラと音を立てて崩れ落ちる。


ズシン。ズシン。


揺れは次第に大きくなり、ジャングルの奥から、それを押し退けるようにして「何か」が姿を現した。

体長10メートルは下らない。赤茶けた鱗に覆われた強靭な後脚と、不釣り合いなほど小さな前肢。そして、大宇宙印刷のシャッターを軽々と丸呑みできそうなほどの巨大な顎。


ティラノサウルスだ。


獲物の匂いを嗅ぎつけたのか、あるいは次元の歪みに引き寄せられたのか、白亜紀の頂点捕食者は、薄暗い工場の中を黄色い瞳でギョロリと覗き込んだ。


「ひぃぃぃぃぃっ!?」


いつの間にか意識を取り戻していた工場長が、パイプ椅子の影に隠れながら悲鳴を上げた。

「た、食べられる! 俺はまだ今月の売上目標を達成してないのに!」


「静かにして工場長! 刺激しないで!」


クロエが青ざめながら後ずさりする。


「おーい、誰か外のシャッター閉めてくれないか。風が入る」

裕太はウエス(布切れ)でインクローラーの汚れを拭きながら、ティラノサウルスを一瞥もせずに言った。


「高木! お前アホか! シャッターの前にアレがいるだろうが!」


「アレより紙のコンディションの方が大事でしょう。早くしないと、インクのタック(粘度)まで下がっちまう」


その時。

工場の奥、普段は誰も寄り付かない資材置き場の横にある、女性用更衣室のドアが「ガチャリ」と開いた。


「……ちょっと。さっきからドン・ドンと、何の騒ぎですか」


底冷えするような、恐ろしく通るアルトの声。

現れたのは、大宇宙印刷の紅一点であり、経理から労務まで工場の事務作業を一人で回す若槻わかつきさん(39)だった。

スマートなシルエットの事務服に身を包み、肩につく長さの黒髪をキッチリとまとめ上げた彼女は、銀縁メガネの奥の冷ややかな双眸で、工場内の惨状を睥睨した。


手には、着替える途中だったのか、ブラウスの第一ボタンを留めかけの状態で、制服のカーディガンが握られている。


若槻さんは、クールで仕事が早く、男ばかりのむさ苦しい工場において「絶対に逆らってはいけない氷の女王」として君臨していた。

彼女は、アラフォーという年齢に差し掛かり、「いい加減、このインク臭い職場と決別して、清潔で安定した出会いのあるまともな企業に転職すべきではないか」と毎日転職サイトを眺めている。

にもかかわらず、彼女がこの大宇宙印刷を辞められない理由は、ただ一つ。


(……高木くん。今日も相変わらず、いい横顔してるじゃない)


菊全機の前でルーペを握る、印刷バカの高木裕太。

彼の、機械に向かう時の異常なまでの集中力と、無駄のない筋肉の動き、そして時折見せる職人としての矜持。それに惹かれている自分を、若槻さんは誰よりも疎ましく思っていた。


(顔はいいのに、口を開けば『今日のシアンはご機嫌斜めだ』とか『紙の目が合わない』とか。私という女がすぐそばにいるのに、一度だって食事に誘われたこともない。私がこの職場で彼を見つめ続けるのは、人生の無駄遣いよ。ええ、全くの無駄遣い。わかってるわ……)


心中でそんな葛藤を抱えながら、若槻さんはメガネのブリッジを中指で押し上げた。

そして、シャッターの前に鎮座する巨大なティラノサウルスと、目が合った。


「グルルルル……」

ティラノサウルスが、威嚇するように低い唸り声を上げる。


「……工場長」

若槻さんは、一切の感情を排した声で、パイプ椅子の影の工場長を呼んだ。


「は、はいぃぃっ! 若槻くん、逃げて! 食べられる!」


「月に一度の害虫駆除業者には、大型爬虫類のオプションはつけていませんよ。経費削減のためです。あと、そこの見慣れないコートの女性。部外者の立ち入りは許可していませんが、入館証は?」


「えっ? あ、私? クロエ・マクスウェルだけど……ていうか、状況分かってる!? 恐竜よ!? タイムスリップしたの!」


クロエが必死に状況を説明しようとするが、若槻さんは溜息を一つ吐き、手元のバインダー(いつの間にか持っていた)に何かを書き込んだ。


「タイムスリップ。結構です。で、このシャッターの歪みと、工場の基礎部分に生じたクラック(ひび割れ)の修繕費は、クロエさんの所属する機関に請求すればよろしいですか? ざっと見積もって、修繕費と休業補償で800万円というところですね」


「は、はっぴゃく!? いや、私はただ歴史のバグを……」


「バグの修正は結構ですが、こちらの資金繰りにバグを生じさせるのは勘弁していただきたい」


その冷徹な詰問にクロエがタジタジになっている間にも、事態は悪化の一途を辿っていた。

ティラノサウルスが、工場内の異様な匂いと機械音に苛立ちを募らせ、ついに巨大な頭を工場内へと突っ込んできたのだ。


ドンッ!!


強烈な頭突きが、入り口付近のパレット(紙を積む台)に直撃する。

積まれていた数千枚の白い紙が、吹雪のように宙を舞った。


「キャアアアッ!」

クロエが悲鳴を上げる。


工場全体が震度4クラスの揺れに見舞われた。


その瞬間。

「てめぇぇぇぇぇっ!! 何してくれとんじゃあああああ!!」


ティラノサウルスの咆哮をかき消すほどの、クロエの鼓膜を破るような絶叫が響き渡った。

裕太は目を血走らせ、スパナを片手に印刷機の横から飛び出してきた。


「高木くん! 逃げて!」

若槻さんが思わず叫ぶ。

しかし裕太の目は、恐竜の巨大な牙ではなく、印刷機から吐き出されてきた一枚のヤレ紙(試し刷り)に向けられていた。


「おい見ろ!! 今の振動のせいで、版胴の回転がコンマ数ミリ狂ったぞ!!」


裕太はルーペを紙面に叩きつけるように押し当て、ブルブルと震えながら叫んだ。


「インクの転移量が変わっちまった! 網点が潰れてる! ドットゲインだ!! こんな見当ズレのクソみたいな印刷物、大宇宙印刷の名前で出せるか!! お前のせいだぞ、このデカトカゲ!!」


ティラノサウルスによる捕食の危機よりも、自らの印刷物の「ドットゲイン(網点の太り)」による品質低下にマジギレする裕太。

そのあまりに狂ったプロ意識あるいはただのバカに、若槻さんは一瞬、心臓がトクンと鳴るのを感じた。

(……馬鹿ね。死ぬかもしれないのに。でも、そういうブレないところ……本当に、ムカつくくらいカッコいい)


「グルァァァァァッ!!」

裕太の剣幕に怒ったのか、ティラノサウルスが工場内へ完全に足を踏み入れ、裕太に向かって巨大な顎を開いた。


「裕太!」

クロエが叫んだその時。


(……作業の邪魔です)

低い、地鳴りのような声が響いた。

いつの間にか、ティラノサウルスの鼻先に、巨漢のアルバイト・鈴木さんが立っていた。

手には竹箒を持っている。


「鈴木さん! ダメだ、食われるぞ!」工場長が叫ぶ。


鈴木さんは竹箒をポイと捨てると、ティラノサウルスの巨大な下顎の下に潜り込んだ。

そして。


「フッ……!!」


鈴木さんの全身の筋肉が、作業着を破らんばかりに異常に膨張した。皮膚の下で、青白い光が脈打つのが見えた。

彼は両腕でティラノサウルスの顎と首の付け根を抱え込むと、大根でも引っこ抜くかのような気軽さで、体重8トンを超える白亜紀の王を、ふわりと宙に浮かせた。


「……は?」

クロエの口から間抜けな声が漏れる。


「シィィィッ!!」

鈴木さんはそのまま、美しいブリッジの姿勢から、ティラノサウルスを後方へと投げ飛ばした。

完璧な軌道を描いたジャーマン・スープレックス。


ドッゴォォォォォン!!!


シャッターの外、白亜紀の湿った大地に、ティラノサウルスが背中から叩きつけられた。

地響きとともに巻き起こる土煙。

白目になり、ピクピクと痙攣するティラノサウルス。


工場内は、水を打ったような静寂に包まれた。


「……す、鈴木くん」

工場長が震える声で言った。

「君、履歴書の特技欄に『紙揃え』としか書いてなかったけど……」


鈴木さんは何事もなかったかのように作業着の埃を払い、無言で親指を立てた。


「やっぱりね。彼、ただの人間じゃないと思ってたわ」

クロエが興奮気味に言った。

「あの筋繊維の出力、地球外生命体よ! たぶん、時空監視局から派遣された監視員ね!」


宇宙人。

その衝撃の事実に、若槻さんは小さくため息をつき、手元のバインダーのメモを修正した。

(アルバイト(宇宙人)。時給1,200円は安すぎるわね。労基に目をつけられる前に、特殊手当名目で時給を150円上げておきましょう。税務調査が入ったら面倒だし)


パニックになることもなく、淡々と経理処理を脳内で進める若槻さん。


一方、鈴木さんの超絶アクションのおかげで命拾いした裕太は、ティラノサウルスが気絶したのを確認すると、すぐに印刷機のコンソールへと戻っていった。


「おいクロエ。さっさと元の時代に戻るぞ。こんな湿度の高い場所にいたら、紙が全部パーになる」


「わ、分かってるわよ! でも、どうやって!? 座標の計算には時間が……」


「計算なんか要るか」

裕太は冷たく言い放ち、インクキーの調整ボタンを凄まじい速度で弾き始めた。

「お前が持ってきたあの変な版。あれは、C、M、Y、Kの四色が完全に重なり合った『見当』の真ん中に、時空のゲートを開く仕組みになってるんだろうが」


「え? なんで分かったの!?」


「ルーペで見りゃ一目瞭然だ。さっきの震動でズレた版を、俺が手動で合わせる。完璧なロゼットパターン(網点の花模様)ができた瞬間、また時空が跳躍するはずだ」


裕太は誰の許可も得ず、印刷機のメインスイッチを入れた。


プァァァン!

再び、重厚な駆動音が工場内に響き渡る。


「おい、高木! 大丈夫なのか!? また変な時代に行ったりしないだろうな!」

工場長が叫ぶ。


「知るか。俺はただ、完璧な印刷物を刷るだけだ。岡崎社長も言っていた。『迷ったら、基本に帰れ』と。俺の基本は、ピントの合った美しい網点だ」


ズドッ、ズドッ、ズドッ、ズドッ。

紙が吸い込まれ、猛烈な速度でローラーが回転し始める。


「インクのタック、ヨシ。湿し水、ヨシ。……見当、合わせる!!」

裕太がダイヤルを微調整した瞬間。


再び、機械の排紙部から眩い虹色の光が放たれた。

空間が歪み、工場の景色がグニャリと捻じ曲がる。


「ちょっと! まだ修繕費の請求先を聞いてないわよ!!」

光に包まれながら、若槻さんがクロエの襟首を掴んで問い詰める。


「きゃあああ! 後で、後で払うから!! 領収書切ってあげるから!!」


「鈴木さん! 次の紙、積んどいてくれ!」

(無言で親指を立てる鈴木さん)


「高木ぃぃぃ! 帰ったらキャバクラのポスター急ぎだからなあああ!」


それぞれが己の役割(?)と欲望を叫ぶ中、大宇宙印刷は再び時空のモアレへと飲み込まれていった。


印刷機の轟音の中、裕太は無表情のまま、ルーペ越しに紙の上の宇宙を覗き込んでいた。

どれだけ世界がバグろうとも、彼が見つめるのはただ一つ、寸分の狂いもない四色の網点だけだった。

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