第3話:未来からの入稿データ
轟音と、視界を焼き尽くすほどの極彩色のモアレ(干渉縞)。
それが収束した直後、大宇宙印刷の工場内を満たしていたのは、先ほどまでの白亜紀の暴力的な湿気ではなく、どこか乾いた、微かにオゾンのような焦げ臭さを伴う空気だった。
プシュー……。
四色機のエアバルブから空気が抜ける音が、異様に静かな工場内に響き渡る。
「……止まったか」
高木裕太(34)は、コンソールパネルからゆっくりと顔を上げた。
彼が最初に行ったのは、タイムスリップの無事を確認することでも、周囲の安全を確保することでもない。排紙部に積まれた一番上のヤレ紙(損紙)を引き抜き、ルーペを叩きつけるように押し当てることだった。
「……クソッ。やっぱりトラッピング(インクの乗り)が甘くなってる。あのデカトカゲの咆哮の振動と、急激な湿度変化のせいだ」
裕太は忌々しそうに舌打ちをした。宇宙の危機よりも、目の前の紙面にインクが100%の濃度で定着していないことの方が、彼にとっては万死に値する大問題だった。
「い、生きてる……俺、食べられてない!」
パイプ椅子の裏から這い出してきた工場長(60)が、自分の全身をペタペタと触りながら歓喜の声を上げた。
「やったわ! 二度目の時空跳躍、大成功よ!」
クロエ・マクスウェル(現時点年齢不詳)が、トレンチコートの裾を翻してガッツポーズを決める。その傍らでは、巨漢の宇宙人アルバイト・鈴木さん(全部なぞ)が、何事もなかったかのようにパレットの上の紙束に空気を入れ、トントン、と小気味よい音を立てて紙の端を揃えていた。
「喜んでいる場合ですか」
工場内に、絶対零度の声が響いた。
事務服姿の若槻さん(39)である。彼女は乱れていたブラウスの第一ボタンを完璧に留め直し、手元のバインダーに挟まれた書類をペラペラとめくりながら、冷ややかな視線をスライド式シャッターの外に向けた。
「あの外の景色を見て、大成功と言えるあなたの神経を疑いますね」
若槻さんの言葉に、全員がシャッターの外へと目を向ける。
そこには、見慣れた足立区の風景があった。……いや、一見すると足立区なのだが、決定的に何かが狂っていた。
工場の目の前にあるはずの「タテイシ弁当」の看板は、なぜかギラギラと輝くネオン管で「タテイシ・サイバネティクス〜義体メンテ承ります〜」に変わっている。
空を見上げれば、見慣れた東京スカイツリーの代わりに、天を突くほど巨大な「四色ボールペン」のような建造物がそびえ立ち、空の色は通常のブルーではなく、どこか人工的なシアン(水色)100%のベタ塗りのような色合いをしていた。
「……どこだここは。足立区に似ているが、俺の知っている足立区じゃない。あんな悪趣味なタワー、岡崎社長の美学に反する」
裕太が目を細める。
「あら、ここは正真正銘の足立区よ。ただし、あなたたちがいた時間軸から『少しだけ版ズレした』パラレルワールドの足立区ね」
クロエが、未来型のホログラム端末を腕から展開し、空中に浮かび上がるデータを弾きながらあっけらかんと言った。
その言葉を聞いた瞬間、大宇宙印刷の面々の態度は一変した。
彼らはクロエをぐるりと取り囲み、工場の片隅にある事務所のすり減ったスチールデスクへと彼女を追い詰めた。
「ちょっと、何よその目……」
クロエが後ずさりする。
「パラレルワールドだぁ!?」
真っ先に噛み付いたのは、工場長だった。
「てめぇ、俺が今日納品しなきゃならない『キャバクラ・ギャラクシー』のポスターはどうなるんだ! あそこは今夜がグランドオープンなんだぞ! パラレルワールドの足立区に、俺のクライアントはいんのか!? 納品できなきゃ今月の家賃が払えねえんだよ!」
工場長にとって、時空の迷子になることよりも、手形が落ちないことの方がよほど恐怖だった。
「工場長、落ち着いてください。家賃の前に、もっと深刻な問題があります」
若槻さんが、銀縁メガネの奥の瞳をキラリと光らせて前に出た。
彼女はバインダーをクロエの鼻先に突きつけた。
「クロエさん。あなた、この工場を丸ごと別の次元に移動させましたね? つまり、現在のこの工場の電力供給元は、東京電力ではないということですか?」
「え? ま、まあ、次元の狭間のエネルギーを変換して稼働させてるから、電気代はかからないけど……」
「馬鹿なことを言わないでください」
若槻さんがピシャリと撥ね付ける。
「出どころの不明なエネルギーを無断使用しているとなれば、後でどんな税務・法務上のトラブルになるか分かりません。それに、現在の時刻です。タイムスリップ中の時間は『労働時間』に含まれるんですか? それとも『待機時間』? 異次元移動という特殊業務における危険手当の算定基準は? 私はね、36協定を遵守し、クリーンな労務管理を心がけているんです。時空が歪もうが、労働基準監督署の目は誤魔化せませんよ!」
「えぇぇ……時空の危機なのに労基気にするの!?」
クロエはドン引きしていた。
若槻さんは内心、舌打ちをしていた。
(全く……こんなぶっ飛んだ事態に巻き込まれて。私はただ、定時で上がって、休日はヨガ教室に行って、普通の恋愛をして、このインク臭い男社会から抜け出したかっただけなのに)
そう思いながら、チラリと裕太の方を見る。
裕太は、そんな若槻さんの視線に気づく様子もなく、ただ腕を組み、鬼のような形相でクロエを睨み下ろしていた。
(……でも、この馬鹿みたいに真面目な男が、どう動くのか。それだけは、少し気になるのよね)
「裕太……あなたなら分かってくれるわよね? 宇宙の危機なのよ?」
クロエが助けを求めるように裕太を見上げた。
裕太は深くため息をつき、静かに口を開いた。
「……お前、さっきから『版ズレ』だの『バグ』だの言っているが。そもそも、この宇宙の仕組みはどうなっているんだ。納得のいく説明をしろ」
クロエはゴクリと唾を飲み込み、ホログラム端末を操作して空中に巨大な地球、いや、宇宙の映像を投影した。
「いい? 驚かないで聞いて。あなたたちが生きているこの宇宙は……高次元の存在によって『印刷された』巨大な出版物なのよ」
「……ほう」
裕太の眉がピクリと動く。
「宇宙を構成する素粒子も、光も、重力も、すべてはシアン(C)、マゼンタ(M)、イエロー(Y)、ブラック(K)の四色の極小のドット(網点)の配列によって記述されているわ。完璧な見当合わせによって、この立体的な世界が仮構築されているの」
「なるほど、道理で」
裕太は深く頷いた。
「俺がさっき紙の上の網点を見たとき、宇宙の真理に触れたような気がしたのは、そういうことだったのか」
「いや、それはただの職業病だと思うけど……」クロエがツッコミを入れるが、裕太は聞いていない。
「続けて」と若槻さんが促す。
「で、その高次元のデザイナーが作った『宇宙』という完成データに、今、謎の勢力が干渉しているの。私は彼らを『デリート(白紙化教団)』と呼んでいるわ。彼らは歴史の様々なポイントに介入し、元のデータを改ざんしている。その結果……」
「色のバランスが崩れ、時空の見当ズレ(版ズレ)が起きる、というわけか」
裕太が腕を組んだまま言った。
「その通り! ズレが限界を超えれば、宇宙はドットの構造を維持できなくなり、真っ白な『ヤレ紙』に戻ってしまう。つまり、世界崩壊よ。だから私は、あなたのような完璧な見当合わせができる天才オペレーターと、その四色機が必要だったの! あなたの技術で、時空のモアレを相殺するのよ!」
クロエは熱弁を振るい、工場長も若槻さんも、その途方もないスケールの話に息を呑んだ。
さすがの若槻さんも、宇宙が消滅するとなれば労基署どころの話ではない。
(宇宙が消滅したら、私の厚生年金の掛け金はどうなるの!?) という別の恐怖は湧き上がったが。
全員の視線が、高木裕太に集まる。
世界の命運は、この偏執狂的な印刷バカの肩に懸かっているのだ。
彼なら、熱い正義感で立ち上がってくれるはず――。
「……ふざけるな」
裕太の口から漏れたのは、地を這うような低い怒りの声だった。
「え?」
クロエがキョトンとする。
「ふざけるなと言っているんだ!!」
裕太はバンッ!! とスチールデスクを叩き割らんばかりの勢いで殴りつけた。デスクの上のペン立てが飛び跳ね、鈴木さんが淹れてくれていたお茶が少しこぼれる。
(鈴木さんは無言でサッと台拭きで拭いた)。
「宇宙が印刷物だろうがなんだろうが構わねえ。だがな、お前の話が本当なら、その高次元の『デザイナー』とやらは、無能の極みだ!!」
裕太は目を血走らせ、クロエの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「いいか! 既存のデータに後からバグが生じて版ズレが起きた? それを直すために、俺たち現場のオペレーターに『印刷機側でなんとかしろ』と丸投げしているってことだろうが!!」
「えっ、あ、いや、そういう言い方をされると……」
「印刷業界の絶対ルールを教えてやる。一度刷ったものに修正が入るなら、それは『再版』だ! 再版で色味が変わったり、バグがあるなら、まずはDTP(データ作成)の段階で元データを完璧に直すのが筋だろうが!!」
裕太の怒りは、宇宙の危機に対するものではなく、「入稿データの不備を現場の職人の腕でカバーさせようとするクライアントの甘え」に対する激しい憤りだった。
「RGBのモニター上で適当に作った色を、そのままCMYKに変換して『なんか色がくすんだんですけど〜』って文句言ってくる素人デザイナーと同じだ! おまけに塗り足し(裁ち落とし用の余白)もねえ、フォントのアウトライン化もされてねえようなクソデータを寄越しやがって! 現場のオペレーターが、どれだけ機械のインクキーと湿し水を微調整して、そのクソデータを『見れるレベル』に引き上げていると思ってんだ!!」
裕太の魂の叫びに、工場長がボロボロと涙を流し始めた。
「た、高木ぃ……! お前、立派になったな……! そうだ、その通りだ! クリエイター気取りの連中は、いつも現場の苦労を知らねえんだ!」
「工場長は黙っててください。あなたがいっつも、そういう無茶な案件ばかり安値で取ってくるから高木くんが苦労してるんでしょうが」若槻さんが冷たくツッコミを入れる。
「クロエ!!」
裕太はビシィッとクロエを指差した。
「元データ(元の宇宙)を作った奴に言え! 『再版ならデータを直して再入稿しろ』と! 俺は、不完全なデータを誤魔化して刷るような真似は、岡崎社長の顔に泥を塗ることになるから絶対にやらねえ!!」
「だ、だから! その元データにアクセスする権限が、未来の私たちにも無いのよ!」
クロエは半泣きになりながら訴えた。
「デリートの連中が、マスターデータに強力なプロテクトをかけちゃったの! だから、物理的に時空を遡って、歴史の各ポイントで起きた『版ズレ』を、あなたの四色機で直接『上書き(オーバープリント)』して修正していくしかないの! お願い、ダーリン! あなたの『見当合わせ』の腕がないと、宇宙は白紙になっちゃうのよ!!」
クロエは裕太の足元にすがりついた。
裕太は深く息を吐き、腕を組んで目を閉じた。
(……社長。岡崎社長なら、こんな時、どう言いますか)
彼の脳内に、カリスマである岡崎諒太の精悍な顔が浮かぶ。
『いいか裕太。三流のオペレーターは、クソデータを見て文句を言って終わる。二流は、言われた通りに刷って責任を逃れる。だが、一流は違う。どんなクソみたいなデータが来ようと、機械とインクの限界を引き出し、デザイナーが頭の中で思い描いていた”理想の色”を、紙の上に具現化して黙らせる。それが、俺たち岡崎印刷の血を引く職人の意地だ』
裕太は目を開けた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「……仕方ねえ」
裕太は作業着の袖をまくり上げながら、クロエを見下ろした。
「無能なデザイナーの尻拭いをしてやるのも、現場の職人の仕事だ。ただし、俺は妥協しない。時空のズレだろうが歴史の改ざんだろうが、コンマ01ミリのズレも許さねえ。宇宙の端から端まで、完璧なロゼットパターンを刻み込んでやる」
「ダーリン……!」クロエの顔がパッと明るくなる。
「ただし」
裕太はクロエに顔を近づけた。
「この仕事が終わったら、その高次元のデザイナーとやらに、特急料金とデータ修正費込みで、通常の3倍の請求書を回す。いいな?」
「……フッ。言ってくれますね」
背後で、若槻さんが小さく笑みをこぼした。
彼女はバインダーを閉じ、メガネをクイッと押し上げた。
「クロエさん。そういうことなら、経理の私から正式に契約書を作成させていただきます。支払い通貨は日本円、もしくはそれに準ずる普遍的価値のある貴金属で結構です。宇宙の存亡に関わる案件ですから、着手金として50%は頂きますよ。……工場長、これで今月の家賃どころか、自社ビルが建ちますね」
「うおおおおおっ!! 若槻くん、愛してる!! 高木、気合入れて回せぇぇぇっ!!」
工場長が狂喜乱舞してシャドーボクシングを始めた。
鈴木さんは、新しいお茶を人数分注ぎ直し、無言で親指を立てた。
裕太は、そんなカオスな工場の面々を背に、愛機である菊全判四色機へと歩み寄った。
パラレルワールドの足立区の異常な空気が、シャッターの外から吹き込んでくる。
「紙のコンディション確認。インクの補充。鈴木さん、紙揃え頼む」
(コクッ)
「クロエ、次の『修正ポイント』の座標を出せ。一気に刷り上げるぞ」
かくして、資金繰りと労務管理と異常な職人魂に突き動かされた大宇宙印刷の面々は、宇宙のバグを「物理的な印刷」で修正するという、前代未聞の社外業務(時空旅行)へと本格的に乗り出すのだった。
どんな時代に行こうとも、彼らのブレない態度は変わらない。
なぜなら彼らは、足立区が誇る、最高で最強の「印刷屋」なのだから。




