第1話:CMYKと湿し水の憂鬱
オフセット印刷とは、水と油の反発作用である。
非画線部に水(湿し水)を含ませ、画線部に油を乗せる。そのインクを一度ゴム製のブランケット胴に転写し、そこから紙へと圧をかけて刷り取る。このミクロの綱渡りのような物理現象を、毎時一万回転という暴力的な速度で制御し続けるのが、印刷オペレーターの仕事だ。
「いいか裕太。人生も印刷と同じだ。水と油、どっちに偏っても紙は破れる。絶妙な『見当』を見つけ出した奴だけが、美しい網点を刻めるんだ」
機械の轟音が鳴り響く工場内で、高木裕太(34歳)は、今はここにはいない偉大な男の言葉を脳内で反芻していた。
岡崎諒太。大宇宙印刷の親会社である「岡崎印刷」の三代目社長であり、この下町・足立区にある子会社「大宇宙印刷」を立ち上げた張本人。現在45歳。裕太と同じ工業高校の出身でありながら、若くして業界にその名を轟かせたカリスマだ。精悍な顔つき、豪快かつ繊細な経営手腕、そして何より、インクの匂いを誰よりも愛するその姿勢。裕太にとって、岡崎は単なる雲の上の社長ではなく、神であり、絶対的な羅針盤だった。
岡崎は工場長に全幅の信頼を置き、大宇宙印刷の現場には一切顔を出さない。しかし、裕太の心の中心には常に岡崎がいる。
(……だが社長、今日の湿し水は少しご機嫌斜めですよ)
裕太は黙々と、菊全判四色機のコンソールパネルを操作していた。中肉中背、黙っていればそこそこ整った顔立ちをしているが、その両目は獲物を狙う鷹のように、排紙部から吐き出されてくるヤレ紙(試し刷りの紙)の端に印字されたトンボ(見当標)を睨みつけている。
彼は左手に持った50倍のルーペを紙面に押し当て、シアン、マゼンタ、イエロー、ブラック――四色のインクが作り出す極小のドット(網点)の重なりを確認した。
「マゼンタがコンマ05ミリ、天(上)にズレてるな……」
独り言を呟きながら、操作盤のボタンを弾くように叩く。版のズレ、すなわち「見当ズレ」は、印刷において致命的なぼやけを生む。四色の網点が完璧な角度で重なり合った時のみに現れる「ロゼットパターン」と呼ばれる亀甲模様。それが美しく花開いているかどうかが、裕太の全てだった。
「裕太くん、次の紙、積んどいたよ」
背後から、地響きのような低い声がした。振り返ると、巨漢のアルバイト、鈴木さんが立っていた。本名、年齢、すべてが謎に包まれているが、紙揃え(印刷機に紙をセットする前に、紙束の間に空気を入れて裁断面を揃える作業)の技術に関しては、神がかり的な腕を持つ男だ。
「ありがとうございます、鈴木さん。……完璧な風入れだ。紙が喜んでる」
「……」
鈴木さんは無言で親指を立て、再びパレットの山へと戻っていった。
「おう高木! さっきのキャバクラのポスター、版の出力終わったぞ! パパッと刷っちまってくれ!」
事務所から缶コーヒーを片手に出てきたのは、60歳になる工場長だ。岡崎社長からこの工場を丸投げ……いや、一任されている男で、基本的には競馬とパチンコの話しかしないが、なぜか仕事を取ってくる営業力だけは異常に高い。
「工場長。パパッと、とは何ですか。いくらロットが少なくても、機械のインクローラーが温まり、タック(粘度)が安定するまでは……」
「わーかったわかった! お前は本当に岡崎社長の若い頃そっくりだな! 頑固というか、融通が利かないというか!」
「……光栄です」
裕太は表情を崩さず、新しいアルミ版(CTP)を版胴に巻き付ける作業に入った。
この15年間、高卒で入社して以来、裕太の生活は印刷機を中心に回ってきた。彼女ができたこともあった。「今度の休み、ディズニーランド行かない?」という誘いに対し、「その日は湿度が下がるから、紙の静電気対策で工場に行かないと……」と答えてフラれたのが半年前だ。
「君って、機械と結婚したほうが幸せなんじゃない? 全然面白くない」
別れ際に投げつけられた言葉は、裕太の心に1ミリのドットゲイン(網点の太り)すら生じさせなかった。面白くなくて結構。俺には、四色のインクと、岡崎社長の教えがある。
その時だった。
工場のスライド式シャッターが、ガコン! とけたたましい音を立てて開いた。
外の強風とともに、季節外れのトレンチコートを羽織った一人の女が工場に踏み込んできた。長い金髪を無造作に束ね、その手には、厳重にジュラルミンケースに保管された「何か」を抱えている。
「ここね! やっと見つけたわ、足立区の大宇宙印刷!」
女は、泥棒でも見るかのような目で工場内を見渡した後、裕太の四色機に目を留めた。
「完璧。素晴らしいコンディションのオフセット機。あなた、ここの機長?」
「……誰ですか。部外者は立ち入り禁止です。それに、シャッターを開けっ放しにしないでください。工場内の温度と湿度が変わると、紙が伸縮して見当が狂う」
裕太はウエス(布切れ)で手を拭きながら、冷たく言い放った。
「私はクロエ! クロエ・マクスウェル! そんなことより、今すぐこれを刷って!」
女――クロエは、ドンッ! とジュラルミンケースを操作台の上に置いた。
「おいおいネーチャン、飛び込みの営業か? うちは今、キャバクラのポスターで忙しいんだが……」
工場長がニヤニヤしながら近づくと、クロエはケースを開けた。中には、分厚い札束と、異様な光沢を放つ4枚のアルミ版(CTP)が入っていた。
「これでこの工場を半日貸し切るわ。お釣りは要らない」
「……喜んでお受けしましょう! おい高木! キャバクラは後回しだ! このネーチャンの版を特急で回せ!」
「工場長。順序というものが……」
「社長ならこう言うはずだぜ?『金払いのいい客は神様だ』ってな!」
「……岡崎社長は、そんな下品な言い回しはしません。『ビジネスの血流は止めるな』です」
裕太はため息をつきながら、クロエが持ち込んだ版を手に取った。
その瞬間、指先に奇妙な静電気が走った。
「……なんだこの版は。画線部の処理がおかしい。それに、親水層のテクスチャが……まるで生き物みたいに微細に動いているように見える」
「気づいた? さすが一流の職人ね」
クロエはニヤリと笑った。
「それはただのアルミじゃないの。『超次元構造体』を平面に落とし込んだ特殊なマトリクスよ。いいから、CMYKの標準インクで、フルスピードで回して。一枚だけでいいから」
「一枚だけのために菊全機を回すだと? ヤレ紙(損紙)だけで数百枚は出るぞ」
「いいから! 時間がないの!」
クロエの切羽詰まった声に、裕太は舌打ちをしつつも、作業に取り掛かった。不思議な版だが、印刷工の血が騒ぐのも事実だった。未知の版を、いかに美しく刷り上げるか。
(社長。俺の腕の見せ所ですね)
シアン、マゼンタ、イエロー、ブラック。
各ユニットのシリンダーに版をセットし、自動洗浄を終えたブランケットを確認。インクキーを調整し、給紙装置のスイッチを入れる。
プァァァン!
ブザー音が鳴り、印刷機が重厚な回転音を上げ始めた。
ズドッ、ズドッ、ズドッ、ズドッ。
紙が吸盤に吸い上げられ、機械の内部へと吸い込まれていく。
「速度、毎時1万2千回転まで上げる」
裕太がダイヤルを回した瞬間、異常は起きた。
機械の駆動音が、突然「キィィィィン」という耳鳴りのような高周波に変わった。
「なんだ!?」
排紙部から飛び出してきた紙を見て、裕太は目を疑った。
紙の上にインクが乗っていない。いや、乗ってはいるのだが、CMYKの四色が紙から数センチ浮き上がり、空中で立体的な幾何学模様――モアレを形成していたのだ。
「おい、高木! なんだこの光は!」
工場長が叫ぶ。機械全体が、眩い虹色の光に包まれていた。
「クロエさん! あんた、この版に何の細工をした!」
「細工じゃないわ! 歴史のバグを上書きするための『パッチデータ』よ! この宇宙の座標軸と、四色の網点を同期させてるの!」
意味不明なことを叫ぶクロエ。
だが、裕太の目には別の問題が映っていた。
光り輝き、空中に浮かび上がる四色のインク。その重なり合いを凝視した裕太の職人魂が、爆発した。
「ふざけるな!! シアンがコンマ1ミリズレてるぞ!! こんな見当ズレのクソみたいな印刷物、大宇宙印刷の名前で出せるか!!」
裕太は空間が歪み、重力が狂い始める中、コンソールにしがみつき、見当合わせのダイヤルを死に物狂いで回し始めた。
「バカやめて! 座標が狂う!!」
「俺の!! 見当は!! 狂わねええええ!!」
バチィィィィン!!
目を開けていられないほどの強烈な閃光が工場を包み込んだ。
インクの匂いが消え、代わりに、むせ返るような青臭い土の匂いと、異常な湿気が鼻を突いた。
機械の回転音がゆっくりと停止していく。
「……おい。機械を急停止させると、ローラーに傷がつくんだぞ」
裕太はフラフラと立ち上がりながら、コンソールについた埃を払った。
「やった……飛べたわ!」
クロエが歓喜の声を上げる。
裕太がふと顔を上げると、そこは足立区の住宅街ではなかった。
工場のスライドシャッターの向こうには、鬱蒼と生い茂る巨大なシダ植物のジャングルが広がっていた。空には翼竜が飛び交い、遠くからは地鳴りのような咆哮が聞こえる。
ズシン、ズシン。
巨大な足音が近づいてくる。開け放たれたシャッターから、巨大なティラノサウルスが、興味深そうに工場の中を覗き込んできた。
工場長は白目を剥いて気絶し、アルバイトの鈴木さんはなぜか箒を構えて臨戦態勢をとっている。
「……信じられない」
裕太は呆然と呟いた。
クロエは得意げに胸を張った。
「驚くのも無理はないわ。ここは中生代白亜紀。私たちは時空を超えたのよ!」
「違う、そうじゃない」
裕太は血走った目で、ティラノサウルスとジャングルを指差した。
「こんなに湿気があって風が吹き込んだら、紙が波打っちまうだろうが!! 早くシャッターを閉めろ!! 印刷ができなくなる!!」
彼の関心事は、時空の危機でも恐竜の脅威でもなく、ただひたすらに「紙のコンディション」だった。
岡崎社長、あなたならどうしますか。こんな極端な温湿度環境下で、どうやってインクのタックを維持すればいいんですか――。
四色機職人・高木裕太の、気が狂うほど真面目で、宇宙一スケールの大きな見当合わせの旅が、今、強制的にスタートした。




