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第3章 記憶の亡霊たち

「あの時、桜の花びらが舞い散る中で、あなたは彼の手を握り返せなかった」


カフェの窓際席で、アリスと名乗った上層区画の女性は、リンの手元に置かれたカップから立ち上る湯気を見つめながら言った。高級な生地のコートに身を包んだ彼女の声は、懐かしさに震えていた。


「私はその記憶を購入して、もう何度も体験している。あの午後の陽射しの温度、制服の袖に付いた桜の花弁の感触、そして胸の奥で渦巻いていた想い——全て」


リンはコーヒーカップを持つ手を止めた。記憶市場の顧客と実際に対面するのは初めてだった。アリスの瞳には、まるで古い恋人を見つめるような温かさがあった。


「なぜその記憶を選んだのですか」


「私自身にはそんな青春がなかった。生まれた時から決められた相手との政略結婚が待っていて、恋愛など許されなかった」アリスは指先でカップの縁をなぞった。「でも、あなたの記憶の中で、私は初めて恋を知った」


テーブルの向かい側で、見知らぬ女性が自分よりも鮮明に過去を語る光景は奇妙だった。リン自身、その桜並木での出来事はぼんやりとしか思い出せない。記憶の抽出処理によって、元の体験は薄れてしまっていた。


「私、その時の彼の名前も覚えていません」


「ユウ。彼の名前はユウよ」アリスの表情が柔らかくなった。「彼があなたに渡そうとしていた手紙には、来年の春まで待ってほしいと書いてあった。でも、あなたは答えを急かしてしまった」


リンは椅子の背もたれに身を預けた。自分の記憶が他人の中でより鮮明に、より大切に保管されている現実を前に、言葉が見つからなかった。


「最近、変な記憶が混じっていませんか」リンは話題を変えた。「私が体験していないはずのものが」


アリスの手が一瞬止まった。「何を意味しているの」


「人工的に作られた記憶。政府が何らかの目的で流通させている可能性があります」


沈黙が二人の間に落ちた。カフェの雑踏の音だけが空間を満たしていた。アリスは周囲を見回してから、声を潜めた。


「実は、私も気づいていた。あなたの記憶の中に、明らかに時代が合わない技術や建物が映り込んでいることがある」


「他の購入者はどうですか」


「みんな薄々感じている。でも、誰も声に出さない。記憶市場に依存しすぎているから」アリスは立ち上がった。「あなた、本気で調査する気があるの」


リンは窓の外を見つめた。下層区画の灰色の建物群の向こうに、上層区画の光るタワーが見えた。自分の記憶がそれらすべての階層で売買され、消費され、そして何者かによって操作されている可能性がある。


「私には協力できる人脈がある」アリスが名刺を差し出した。「記憶市場の流通ルートや、政府の研究施設へのアクセスも」


リンは名刺を受け取った。高級な紙の手触りが、これまでとは違う世界への扉を暗示していた。


「やりましょう」


アリスの唇に微笑みが浮かんだ。「あなたの記憶を通じて知った勇気が、今度は本物のあなたに宿っているのね」


カフェを出る時、リンは振り返った。自分の過去を愛する他人を残して、未来への調査に向かう。記憶の真実を探る旅が、今始まろうとしていた。



地下ラボの換気扇が低く唸り続けている。ドクター・ミナトの指がキーボードを叩く音だけが、この密閉された空間に響いていた。


「接続完了。ただし、十五分が限界だ」ドクター・ミナトが振り返る。「それ以上は検知される」


リンは端末画面に映し出された暗号化されたファイル群を見つめた。政府の記憶管理システムの中枢データベース。アリスが手に入れたアクセスコードがなければ、一生辿り着けなかった場所だ。


「まずは天然記憶の流通データから」アリスがリンの肩越しに画面を覗き込む。「私が疑問に思っていた部分を確認したい」


ファイルが展開される。そこには想像を超える情報が並んでいた。


『天然記憶認定プログラム』『人工合成記憶品質管理表』『貧困地区記憶サンプル採取計画』


リンの指が震える。


「これは......」


「見ろ、リン」ドクター・ミナトが別のファイルを開く。「市場に出回っている天然記憶の九十三パーセントが人工合成品だ。しかも政府認定のマークつきでな」


画面には詳細な製造工程が表示されている。感情の調合、記憶の断片化、そして——人格特性の調整項目。


「従順性パラメータ」「反政府的思考抑制レベル」「消費欲求増強度」


アリスが息を呑む。


「人格操作......本格的な洗脳じゃない」


「貧困地区の記憶採取はどうだ?」リンは次のファイルに手を伸ばす。


データが展開された瞬間、リンの膝が崩れそうになった。


『記憶品質検証用サンプル採取対象地区一覧』


そこには自分の住んでいた地区の名前があった。そして、住民たちの詳細なプロファイル。カイの名前も、ユウの名前も。


「私たちは......実験材料だった」


声が出ない。画面の文字が霞んで見える。


「リン」ドクター・ミナトが椅子を回転させる。「これを見ろ」


新しいファイルには、より恐ろしい真実が書かれていた。


『人格調整済み記憶の長期投与実験』


対象は富裕層。期間は十年から二十年。目的は「理想的市民」の創出。


「支配層は自分たちの子供にさえ、合成記憶を植え付けている」アリスの声が低くなる。「完璧にコントロールするために」


リンは画面に釘付けになった。実験結果のグラフが示すのは、記憶操作による人格変容の成功率。そして、副作用として報告される「オリジナル人格の消失」。


「これは......人間を作り替えてる」


「そうだ。そして最も効率的な方法を見つけるために、君たちのような貧困層を利用している」ドクター・ミナトがファイルを切り替える。「サンプルとして」


新たに開かれた文書に、リンは自分の調査対象者としての詳細データを発見した。記憶商人としての活動記録、心理分析、そして——


『要注意人物』


マークが赤く点滅している。


「君は既に監視対象だった、リン」


画面の隅でチャットウィンドウが開く。アリスのハッキングツールが警告を発している。


『システム侵入検知。追跡開始まで残り三分』


「急げ!」アリスが叫ぶ。「最重要ファイルをダウンロードしろ!」


リンの手が震えながらも、『人格操作プロジェクト総括』フォルダを選択する。数百のファイルがダウンロード開始の表示を出した瞬間——


地下ラボの扉が爆音と共に吹き飛んだ。


黒いスーツの男たちが突入してくる。先頭に立つのは、リンが一度だけ見たことのある顔。


政府エージェント・タカハシ。


「記憶商人リン。君の調査活動は本日をもって終了だ」


タカハシの声は機械的に響く。その瞳に宿るのは、まさに合成記憶によって調整された人格の冷たい光だった。


リンの手は、まだダウンロード中のUSBメモリを握りしめている。進捗バーは八十七パーセント。


「君が何を見たのか、我々は全て把握している」


タカハシが一歩前進する。


九十二パーセント。


「そして君が何者なのかも」


九十八パーセント——。


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