表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第2章 人工の痕跡

深夜の記憶処理工場に、機械の低い唸り声だけが響いていた。リンは三十三番目の処理ブースに一人座り込み、ホロスクリーンに映し出された数列を睨んでいた。十二時間のシフト勤務を終えてから、既に三時間が経過している。


「また来やがった」


リンはマウスを握る手に力を込めた。七日連続で現れる異常値。記憶データの特定セクションに現れるノイズパターンは、どの処理工程でも除去できない。公式マニュアルには載っていない現象だった。


画面を横にスクロールすると、異常値の分布が明確になる。記憶の感情的強度が高い箇所に集中していた。喜び、怒り、悲しみ——人間らしさの核心部分に、まるで意図的に埋め込まれたかのような規則性。


「人工的すぎる」


リンは椅子の背もたれに身を預けた。自然発生するノイズなら、こんなに綺麗なパターンは描かない。誰かが意図的に仕込んだものだ。問題は、その目的が何なのかということだった。


工場の向こう側から、夜勤の作業員たちの足音が聞こえてくる。リンは急いでデータを外部メモリに保存し、画面を消去した。証拠隠滅とは言わないが、今はまだ他人に知られるべきではない。


翌朝、リンは上司のオフィスのドアを叩いた。カイは相変わらず整然とした机の前に座り、複数のホロスクリーンを同時に操作していた。


「おはよう、リン。今日は早いな」


「異常データの件で報告があります」


カイの手が一瞬止まった。ほんの僅かな動作だったが、リンは見逃さなかった。


「座れよ。コーヒーはいるか?」


「結構です」


リンは準備してきた資料をカイの机に置いた。グラフ、数値表、パターン解析結果——全て昨夜の三時間で作成したものだった。


「七日間継続して観測された異常です。記憶データの感情的中枢部に集中したノイズパターンで、自然発生の可能性は極めて低い」


カイは資料をざっと眺め、肩をすくめた。


「よくあることだ、リン。記憶データの処理過程で生じるバグの一種だよ。君が心配するようなものじゃない」


「でも、このパターンの規則性は——」


「規則的に見えるのは、処理システムの特性だ。機械が作り出すノイズには必然的に一定のパターンが生まれる」


カイの説明は流暢すぎた。まるで事前に用意していたかのような返答。リンは資料を見つめながら、違和感を飲み込んだ。


「分かりました。過度な心配だったようです」


「君の真面目さは評価している。だが、時には大局を見ることも大切だ」


オフィスを出る際、リンは振り返った。カイは既に別の作業に没頭していたが、その表情には安堵に似たものが浮かんでいた。


昼休み、リンは工場の屋上に上がった。街の向こうに見える記憶市場の高層ビルが、正午の陽射しに光っている。あそこで毎日、無数の記憶が売買されている。幸せな記憶、悲しい記憶、恋愛の記憶——人間の内面が商品として値段を付けられ、取引されていく。


ポケットの中で、記憶抽出サービスの宣伝メールが着信音を響かせた。『あなたの記憶、百万クレジットで買い取ります』。毎日送られてくるスパムメールだったが、今日は削除せずに開いた。


「百万クレジット」


リンは呟いた。現在の年収の五倍に相当する金額。この金があれば、工場を辞めることも、別の街に移住することも可能だった。記憶市場の闇を探ることもやめて、普通の生活を送ることができる。


しかし、記憶を売るということは、自分の一部を永久に失うということでもあった。どの記憶を売るにしても、それは二度と戻ってこない。リンは大学時代の友人の顔を思い浮かべてみた。輪郭が曖昧になり始めている。記憶は時間とともに薄れていくものだが、人工的に抜き取られた記憶は、まるで最初から存在しなかったかのように消える。


午後の作業中、リンは何度もカイの言葉を反芻した。「よくあることだ」。その一言に込められた確信は、経験に基づくものではなく、知識に基づくもののように聞こえた。まるで、この異常について事前に知っていたかのような口調だった。


夕方、シフトが終わると同時に、リンは再び異常データの解析を始めた。今度は別のアプローチを試してみた。ノイズパターンを音声信号として変換し、周波数解析にかける。


結果は予想以上だった。ノイズには明確な周期性があり、人工的な信号である可能性が更に高くなった。これは単なるバグではない。誰かが意図的に仕込んだマーカーか、それとも隠されたメッセージなのか。


リンは椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げた。この発見を追求すれば、記憶市場の暗部に踏み込むことになるかもしれない。政府の関与、企業の陰謀、個人情報の悪用——どれも想像したくない現実だった。


ポケットの中で、また着信音が響いた。今度は記憶買取業者からの直接電話だった。リンは通話ボタンを押した。


「はい、リンです」


「お疲れ様です。メモリーバンクの田中と申します。弊社の記憶買取サービスにご興味はございませんか?」


「金額はいくらですか?」


「お客様の記憶の内容にもよりますが、最大で百万クレジットまで可能です。特に感情的価値の高い記憶でしたら——」


リンは通話を切った。しかし、受話器を置く手は震えていた。百万クレジット。その金額が頭の中でループしている。


深夜、工場の静寂の中で、リンは最後の決断を下した。異常データの調査は一旦保留にする。カイの「よくあることだ」という言葉の裏に何があろうと、今は知らない方が良いかもしれない。代わりに、記憶を売って新しい人生を始める。百万クレジットという現実的な選択肢を選ぶ。


リンは記憶買取業者の連絡先を再び開いた。指がホロキーボードの上で躊躇していたが、やがて決意を固めたように動き始めた。



眩しい白光が天井から降り注ぐ廊下を、リンの足音が規則正しく響いた。上層区画の医療施設は下層区画とは別世界だった。空気清浄機の微細な振動音すらない完全な静寂。床に映る自分の影がくっきりと輪郭を描いている。


「こちらです、リンさん」


白衣の看護師が振り返る。笑顔は完璧に計算されていた。リンは頷き、案内に従った。


手術室の扉が開く。中央に据えられた白い手術台。周囲を取り囲む医療機器は見たこともない高級品ばかりだった。ドクター・ミナトが振り返る。


「準備はよろしいですか」


「はい」


リンの声に迷いはなかった。カイのため。アリスのため。この選択に後悔はない。


「では、手術台へ」


冷たい金属の感触が背中を伝う。頭部固定装置が慎重に調整される。天井のライトが眼球を直撃し、リンは目を閉じた。


「麻酔を開始します」


針が血管に滑り込む。意識が薄れていく中、リンは最後の思考を手放した。カイの笑顔。アリスの寝顔。二人のために、自分は——


***


目覚めたのは豪華な個室だった。


窓の外には上層区画の景色が広がっている。青空。白い雲。下層区画では決して見ることのできない光景だった。ベッドのシーツは絹のように滑らか。枕は羽毛の柔らかさ。


「お目覚めですね」


看護師が微笑みかける。手には栄養ドリンクと高級な果物が載ったトレイ。


「手術は成功しました。しばらくこちらで療養していただきます」


リンは起き上がろうとして、めまいに襲われた。看護師が慌てて支える。


「無理をなさらずに。まだ体が本調子ではありません」


差し出された果物に手を伸ばす。甘い香りが鼻腔をくすぐった。一口齧ると、舌に広がる甘味。下層区画の合成食料とは比べものにならない。


「美味しい?」


「はい」


返事は素っ気なかった。自分でも驚く。なぜだろう。このような贅沢を味わえることに、もっと感動があってもいいはずなのに。


***


三日後、ドクター・ミナトが病室を訪れた。


「調子はいかがですか」


「問題ありません」


「そうですね。データを見る限り、非常に良好です」


ミナトが椅子に腰掛ける。表情は医師特有の冷静さを保っていた。


「約束通り、100万クレジットを口座に振り込みました」


「ありがとうございます」


リンの反応は平坦だった。100万クレジット。下層区画の住民にとっては夢のような金額。なのに、実感が湧かない。


「明日から中層区画での新生活です。準備はできていますか」


「はい」


「何か質問は?」


リンは首を振った。質問すべきことはあるはずなのに、思い浮かばない。というより、質問する気力が起きない。


ミナトは立ち上がり、扉に向かった。振り返ることなく、つぶやく。


「順調ですね」


***


中層区画行きの高速エレベーターは無音で上昇した。


窓の外を流れる景色。下層区画の薄暗い街並みが遠ざかっていく。カイやアリスがいる世界が小さくなっていく。


胸の奥に何かがあるような気がしたが、それが何なのかわからなかった。


エレベーターが停止する。扉が開くと、中層区画の街並みが目に飛び込んできた。清潔な道路。整然と並ぶ店舗。行き交う人々の服装も下層区画とは違う。


政府エージェント・タカハシが出迎えた。


「リンさん、お疲れさまでした。新居をご案内します」


歩きながらタカハシが説明する。


「こちらが新しい住所です。2LDK、バス・トイレ別。上下水道完備。もちろん、電気も24時間供給されます」


建物の前で立ち止まる。下層区画のバラックとは雲泥の差だった。


「鍵をお渡しします。何かご不明な点があれば、いつでも連絡してください」


タカハシが名刺を手渡す。リンはポケットにしまった。


「それでは」


タカハシが去っていく。一人きりになったリンは、建物を見上げた。ここが新しい家。100万クレジットで購入した新生活。


なのに、足取りは重かった。


***


室内は想像以上に広かった。


リビング、キッチン、寝室、浴室。全てが清潔で機能的。冷蔵庫には食料が詰まっている。テーブルには歓迎の花束。


「すごい」


言葉は出たが、感情は伴わない。客観的事実として、確かにすごい環境だ。しかし、それ以上の何かが欠けている。


ソファに腰を下ろす。柔らかい座り心地。下層区画の硬い床とは大違いだ。


窓の外を眺める。通りを歩く人々。みんな豊かそうに見えた。清潔な服。整った髪型。表情にも余裕がある。


自分もその一員になったのだ。100万クレジットを手に入れ、中層区画の住民となった。


なのに、満足感がない。達成感もない。ただ、事実として新生活が始まっただけ。


冷蔵庫から食材を取り出し、料理を作る。下層区画では考えられない新鮮な野菜。高級な肉。調味料も豊富だった。


完成した料理は見た目も美しい。味も申し分ない。しかし、食べ進める手は機械的だった。


食事を終え、皿を洗う。すべてが整然としている。効率的で無駄がない。理想的な生活環境。


ベッドに横になる。高級マットレスが体を包み込む。枕の感触も最高だ。眠りにつくには申し分ない環境。


目を閉じる。しかし、眠れない。何かが足りない。何かが欠けている。でも、それが何なのかわからない。


***


翌朝、散歩に出かけた。


中層区画の街並みは美しかった。植栽が丁寧に手入れされている。建物の外壁も定期的にメンテナンスされているようだ。


歩いていると、見知らぬ女性が近づいてきた。


「おはようございます」


親しげな口調だった。リンは立ち止まる。


「おはようございます」


「お元気そうで何よりです。最近、お見かけしませんでしたが、どちらかにお出かけでしたか?」


女性の顔に見覚えはない。しかし、明らかにリンのことを知っているような話しぶりだった。


「すみません、どちら様でしょうか」


女性の表情が一瞬曇る。そして、すぐに笑顔を取り戻した。


「あら、失礼しました。人違いでした」


足早に立ち去っていく女性の後ろ姿を見送りながら、リンは首をかしげた。本当に人違いだったのだろうか。女性の反応は不自然だった。


歩き続ける。今度は年配の男性が声をかけてきた。


「リンちゃん、久しぶりだね」


またも見知らぬ顔。しかし、確実にリンの名前を呼んだ。


「どちら様でしょうか」


男性の表情が困惑に変わる。


「えっと、その、すみません。間違いでした」


慌てて逃げるように去っていく男性。


同じことが三度、四度と繰り返された。見知らぬ人々が親しげに声をかけ、リンが覚えていないと知ると慌てて立ち去る。


奇妙な体験だった。なぜ、この街の人々はリンのことを知っているのだろうか。そして、なぜリンは彼らのことを覚えていないのだろうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ