第1章 記憶の工場
機械の唸り声が地下十七階の工場に響いている。触媒の甘ったるい匂いが鼻腔を刺激し、リンは無意識に眉をひそめた。手元の抽出装置から立ち上る紫色の蒸気を見つめながら、彼女は今日三十二本目の記憶カプセルを精製ラインに送り込む。
「初恋、女性、十七歳時点」
ラベルに印字された文字を確認し、リンはため息を呑み込んだ。カプセル内で光る記憶の欠片は、まるで小さな星座のように美しく輝いている。誰かの胸の奥で大切に育まれていた感情が、今は商品として彼女の前に並んでいる。
「リン、手が止まってるぞ」
隣のラインを担当するカイが、機械的な口調で声をかけた。彼の瞳には記憶を売り払った者特有の空虚さが宿っている。感情記憶を手放した人間の目は、いつもこんな風に焦点が定まらない。
「分かってる」
リンは返事をしながら、次の工程へとカプセルを移した。記憶は自動的に純度測定器にかけられ、数値が表示される。純度九十二パーセント。上級品だ。市場では少なくとも三万単位で取引されるだろう。
工場の壁に貼られた価格表が、蛍光灯の光を反射している。
『記憶市場・現在価格』
- 初恋(純度90%以上):30,000-45,000単位
- 家族の愛情(純度85%以上):25,000-40,000単位
- 達成感(純度80%以上):15,000-25,000単位
- 友情(純度75%以上):10,000-20,000単位
リンの視線が表の下段に移る。
- 日常の小さな喜び(純度70%以下):500-2,000単位
- 淡い憧れ(純度60%以下):200-800単位
- 不完全な思い出(純度50%以下):買取不可
「今日は上物が多いな」カイが呟いた。「昨日なんて純度六十パーセントの友情記憶ばかりで、処理に時間がかかった」
「上層区画の住人が売りに来たのかしら」
「だろうな。下層の連中の記憶じゃ、こんな純度は出ない」
カイの言葉に、リンの手が微かに震えた。彼女は自分の指先を見つめる。記憶抽出の仕事を始めて三年。他人の宝物のような思い出を毎日扱いながら、彼女自身が売れる記憶を持っているかといえば、答えは明白だった。
作業台の上で、新しい記憶カプセルが光っている。「母親との別れ、女性、二十三歳時点」。純度は驚異の九十五パーセント。こんな記憶を持てる人間がいることが、リンには不思議だった。
休憩時間になると、リンは工場の屋上に上がった。下層区画の灰色の建物群が視界に広がり、上層区画の光る塔が遠くに見える。風は工場の化学物質を運んでいき、代わりに街の排気ガスを連れてきた。
記憶を辿ってみる。幼い頃の思い出。孤児院での単調な日々。十六歳で工場に就職してからの変わらない毎日。友人と呼べる人間はいただろうか。恋人は。家族の愛情を感じたことは。
どれも曖昧で、色褪せている。純度を測ったら、恐らく三十パーセントにも満たないだろう。買取不可の判定が下される代物ばかりだ。
「お疲れ様」
振り返ると、カイが階段から現れた。彼の表情は相変わらず平坦で、感情の起伏が読み取れない。
「カイは記憶を売ったことがあるの?」
「ああ。五年前に恋愛記憶を全部売った。まとまった金が必要だった」
「後悔してる?」
「後悔という感情も一緒に売ったから、分からない」
カイの答えは淡々としていた。彼の目を見つめていると、リンは自分の胸の奥が冷えていくのを感じる。記憶を失った人間は、こんな風になってしまうのだろうか。
「君は売らない方がいい」カイが続けた。「大した価値はつかないだろうが、それでも君には必要だ」
「どうして?」
「君の記憶は薄いかもしれないが、まだ温度がある。俺にはもう、それがない」
工場に戻ると、管理者のタブレットが緊急の警報音を鳴らしていた。赤いランプが点滅し、作業員たちが慌ただしく動き回っている。
「どうしたんです?」リンが管理者に尋ねた。
「特別依頼だ」管理者の額に汗が浮かんでいる。「政府からの緊急要請。すぐに特殊記憶の精製ラインを立ち上げろ」
「特殊記憶って?」
「詳細は言えない。とにかく、今までにない案件だ」
管理者のタブレットに表示された依頼書の一部が見えた。『記憶主:不明』『純度:測定不能』『緊急度:最高』の文字が踊っている。
リンの手が無意識に震えた。今まで三年間、工場で扱ってきた記憶は全て商品として流通しているものばかりだった。それが突然、政府が関わる特別な案件。
一体どんな記憶なのだろうか。そして、なぜ今、緊急で処理する必要があるのか。
リンの指先が端末のエッジを撫でていく。オフィスの奥から響くドクター・ミナトの足音が、廊下を渡る風のように近づいてくる。
「全員、手を止めろ」
工場フロア全体に響く声に、十数人の技術者たちが一斉に振り返った。リンも作業台から顔を上げる。ドクター・ミナトの後ろには見慣れない男が立っていた。黒いスーツに身を包み、胸には政府の紋章が光っている。
「政府エージェント・タカハシだ」男が名乗ると、フロアの空気が凍りついたように静まった。「特別案件について説明する」
リンの隣でカイが椅子を軋ませる。アリスは端末の画面を慌てて消した。政府が直々に現れるということは——。
「上層区画からの依頼だ」タカハシが続ける。「クライアントの息子が事故で記憶を失った。特定の体験記憶の復元を求めている」
ドクター・ミナトが前に出る。「どのような記憶でしょうか」
「『貧困からの脱出体験』——具体的には、困窮状態から奨学金や支援制度によって人生が好転した経験だ。年齢は15歳前後、期間は半年程度を想定している」
リンの手が震えた。15歳。奨学金。まさに自分の——。
「報酬は100万クレジットだ」
フロア全体にざわめきが走る。カイが口笛を吹きそうになって慌てて手で押さえた。アリスは目を見開いている。100万クレジット。下層区画の一般市民が一生かかっても稼げない金額だった。
「ただし」タカハシの声が冷たく響く。「記憶提供者の身元は厳格に秘匿される。クライアントには一切知らされない。そして一度提供した記憶は、提供者からも完全に除去される」
リンの背中に汗が滲んだ。記憶の除去——つまり、自分の15歳の記憶を永遠に失うということだ。
「候補者はいるか?」
沈黙が続く。リンは自分の鼓動が聞こえるような気がした。15歳の春、母の病気で家計が破綻寸前だった時。政府の奨学金制度に応募し、面接で必死に自分の将来への思いを語った日々。合格通知を受け取った瞬間の、世界が一変するような感覚——。
「リン」
ドクター・ミナトの声に、全員の視線がリンに集中した。
「君の記録を確認したい。15歳時の奨学金関連の記憶があるはずだ」
リンは喉の奥が渇くのを感じた。「はい」
会議室に移された後、リンは椅子に深く座り込んだ。カイとアリスも同席している。
「100万クレジットよ」アリスが小声でつぶやく。「あなたの家族のこと、知ってるでしょう? 母親の治療費、弟の学費——」
「でも記憶を失うのよ」カイが割り込む。「15歳の記憶って、リンにとって一番大切な——」
「大切な記憶だからこそ価値があるんじゃない」アリスの声が鋭くなる。「その記憶がなかったら、今のリンはいない。でも今のリンがあるなら、もうその記憶は役目を終えたってことでしょう?」
リンは窓の外を見つめた。下層区画の煙突から立ち上る灰色の煙が、空を覆っている。100万クレジット。家族全員が上層区画に移住できる金額だった。
「リン」カイが手を伸ばしかけて、躊躇したように引っ込める。「無理しなくてもいいんだ。他にも候補者はいるかもしれない」
「いない」リンが振り返る。「15歳で奨学金を受けた職員は、この工場では私だけ。人事記録で確認済みよ」
タカハシが部屋に戻ってくる。「決断はいつまでに?」
「48時間以内だ」
リンは頷いた。48時間。2日間で、15歳の自分と別れを告げるかどうかを決めなければならない。
その夜、自宅のベッドに横になりながら、リンは目を閉じて15歳の記憶を辿った。奨学金の面接会場で感じた緊張。面接官の前で震え声で語った将来への夢。そして——。
記憶の流れが一瞬途切れた。
リンは目を開けた。今のは何だった? 記憶を思い出している最中に、まるで映像が一瞬飛んだような感覚。もう一度目を閉じて、同じ箇所を思い出そうとする。
また途切れた。
リンは起き上がり、端末を起動させた。自分の記憶データの一部を画面に表示させる。15歳、奨学金面接の場面——データの波形に、規則正しすぎる線が混じっている。
手が止まった。この波形パターン。まるで人工的に——。




