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第4章 記憶犯の選択

取調室の蛍光灯が頭上で震えていた。リンは手錠で椅子に固定されたまま、向かい側に座る男の顔を見つめた。政府エージェント・タカハシ。四十代後半の精悍な顔立ちに、深い皺が刻まれている。


「君の記憶を見せてもらった」タカハシは薄いファイルを机に置いた。「なかなか興味深い内容だったよ。特に、君の恋人カイとの思い出は市場でも高値がついている」


リンの指先が震えた。


「記憶市場の真の目的を知りたいかね?」タカハシは煙草に火をつけた。「単なる商売じゃない。我々は国民の記憶を管理し、統制するためのシステムを構築している。君のような記憶犯は、そのシステムにとって最も危険な存在だ」


煙が天井に向かって立ち上る。リンは唇を噛んだ。


「選択肢は二つある」タカハシは灰を床に落とした。「記憶の完全売却か、処刑か。どちらを選ぶ?」


「三日間、考える時間をください」


「甘いな」タカハシは立ち上がった。「一晩だけだ」


---


独房の壁は灰色のコンクリートで覆われていた。小さな窓から差し込む月光が、床に長方形の影を作る。リンは膝を抱えて座り込み、記憶の断片を辿った。


カイの笑顔。アリスの涙。ドクター・ミナトの研究室。


全てを失うか、命を失うか。


「どちらも嫌だ」リンは呟いた。


壁の向こうから、かすかな音が聞こえた。看守の足音とは違う。規則的で、まるで暗号のような音の並び。


モールス信号だった。


「ユ・ウ・デ・ス」


ユウ? リンは記憶を探った。自分の記憶を購入した青年の名前。なぜ彼がここに?


音は続いた。「ニ・ジ・ュ・ウ・サ・ン・ジ・ニ・ダ・ッ・シュ・ツ」


二十三時に脱出。


リンは壁に耳を押し当てた。人工記憶には脆弱性があることを思い出した。記憶を購入した者は、元の持ち主と精神的なつながりを持つ場合がある。稀に、記憶の元の感情が購入者の行動に影響を与えることもある。


カイへの愛情。正義感。自由への渇望。


それらの感情が、記憶を購入した人々を動かしているのか。


---


午後十一時、リンは独房のドアが静かに開く音を聞いた。黒い服を着た若い男が姿を現した。ユウだった。


「記憶をありがとう」ユウは鍵を手に持っていた。「君のカイへの愛情を知って、僕も恋人に告白する勇気が出た」


リンは立ち上がった。「他にも?」


「十二人いる。みんな君の記憶を買った人たちだ。君の記憶が僕らに勇気をくれた。今度は僕らが君を助ける番だ」


廊下を進む間、リンは皮肉を感じていた。売られた記憶が、自分を救おうとしている。記憶は商品として切り売りされても、その本質は変わらないのか。


「車を用意してある」ユウは階段を駆け下りた。「でも、その前に一箇所寄らなければならない場所がある」


「どこに?」


「記憶データベースの中央管理室だ」


---


政府ビルの地下三階。セキュリティシステムをハッキングしたユウの仲間が、リンたちを誘導した。記憶データベースの中央管理室は、巨大なサーバールームの奥にあった。


「ここで全ての記憶データが管理されている」ユウは端末の前に座った。「君の記憶も、ここにバックアップが保存されてる」


モニターに映し出されたのは、無数のファイル名の羅列だった。その中に、自分の名前を見つけた時、リンの手が震えた。


「取り戻せるの?」


「理論上は可能だ。でも」ユウは振り返った。「システムを破壊すれば、他の人の記憶データも全て消える。君の記憶を買った僕らの記憶も含めて」


リンは端末の画面を見つめた。DELETE ALLのボタンが赤く光っている。


「君が決めろ」ユウは立ち上がった。「自分の記憶を取り戻すために、他の全てを犠牲にするか。それとも、このまま逃げるか」


警報音が響いた。追手が近づいている。


「選択の時間だ」ユウは扉に向かった。「五分で決めろ」


リンは一人、端末の前に残された。画面上では、自分の記憶ファイルが点滅している。カイとの思い出、アリスとの友情、ドクター・ミナトとの研究。全てがここにある。


同時に、記憶を購入した十二人の人生も、このシステムに依存している。彼らの中には、リンの記憶によって人生が変わった者もいるだろう。


手を伸ばせば、全てを取り戻せる。


手を下ろせば、全てを諦めることになる。


足音が廊下に響いた。時間がない。


リンの指先が、キーボードの上で止まった。




コントロールパネルの青い光が、リンの瞳に映った。巨大なモニターには、記憶市場に流通するすべてのデータが表示されている。自分の記憶から、見知らぬ老人の最期まで。数万の人生が、整然と並んだコードの羅列となって画面を埋め尽くしていた。


「決めてください」


背後でユウが囁いた。十二人の仲間たちが、息を殺してリンの判断を待っている。セキュリティの足音が遠くから響いてくる。時間がない。


リンの指がキーボードに触れた。システム全公開のコマンドを打ち込むか、それとも完全破壊を選ぶか。どちらを選んでも、今の記憶市場は終わる。


「私の記憶を、返してもらえるかもしれない」


「でも」ユウが首を振った。「あなたの記憶は、もう僕たちの中で生きています。僕たちが忘れない限り、リン・オカザキは存在し続ける」


モニターの片隅で、政府の追跡プログラムが起動を始めた。あと三十秒で、このフロア全体が封鎖される。


リンの指が、躊躇なくキーを叩いた。


全公開。


画面が一瞬白く光り、次の瞬間、すべてのデータが解放された。記憶市場のサーバーから、世界中のネットワークへと情報が拡散していく。政府の機密記録も、企業の違法取引も、個人の秘密も。境界線は消失した。


アラームが鳴り響いた。


「走りましょう」


ユウの声を合図に、十三人は非常階段へ駆け出した。建物全体が停電し、赤いランプだけが点滅している。外では、都市全体が混乱の渦に巻き込まれているはずだった。


三週間後。


リンは、仮設テントの中で書類を整理していた。記憶データの全公開は、予想以上の社会変動を引き起こした。政府は機能停止し、記憶市場は完全に崩壊した。だが同時に、新しい動きも生まれていた。


「記憶保護機関の設立準備、順調に進んでいます」


アリスがテントに入ってきた。彼女は政府の記録から自分の記憶を取り戻し、今では機関設立の中心人物となっている。


「ドクター・ミナトからも協力の申し出がありました。人工記憶の技術を、治療目的に限定して使いたいと」


リンは頷いた。自分の本来の記憶は、いまだに戻っていない。データの大混乱で、個別の復元は困難になってしまった。それでも、ユウたち十二人が覚えている断片的な記憶が、少しずつ自分の輪郭を教えてくれる。


「カイさんも、元気にやってるみたいですね」


アリスが微笑んだ。カイは記憶を売らずに済み、今は避難所で子どもたちの世話をしている。記憶を失わないまま、新しい生き方を見つけていた。


夕方になって、リンは一人でテントを出た。近くの廃墟となったビルに、割れた鏡が落ちている。


鏡の中の自分を見つめた。顔は覚えているが、この顔にまつわる記憶の多くは失われたままだ。それでも、ユウの記憶の中で笑っている自分、アリスが語ってくれた研究者時代の自分、カイが覚えている優しい隣人の自分。


すべてが、今の自分を形作っている。


「リンさん」


振り返ると、ユウが立っていた。


「新しい名前、考えましたか? 機関の書類には、何か書かなきゃいけないんですよね」


リンは首を振った。


「リンでいいです。皆さんが覚えていてくれるリンとして、生きていきます」


ユウが笑った。


「じゃあ、僕たちが忘れない限り、あなたはずっとリンですね」


鏡の中で、自分が微笑んだ。記憶を失っても、記憶に支えられて。他人の記憶の中に生き、他人を自分の記憶で支える。新しい絆の形が、混乱の中から芽生えようとしていた。


記憶保護機関は、そんな絆を守るための砦になるだろう。リンは鏡に向かって、小さく頷いた。


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