第15話
「……」
「……」
シャンデリアの仄白い灯りに照らされた部屋は、痛いほどの沈黙に包まれていた。
私の視線の先では、長い髪をひとつに結えたお兄様が、黙々と報告書に目を通してサインをするという作業を続けていた。部屋の中は、紙を滑る羽ペンの音のみが静かに時の流れを刻んでいる。私はと言えば、声をかける事もできずに椅子の上でひっそりと頭を抱えた。
――どうしてこうなった。
アドルフの執務室でお兄様に見つかった私は、そのままお兄様の執務室へ連行されていた。文字通り首根っこを掴まれて、悪さをした猫のような扱いで運ばれる。今日はよく掴まれる日だ。魔界には児童虐待に対する認識はないのか。…ないだろうな。
私は、藁にも縋る気持ちでアドルフに助けを求めたのだが、事もあろうにアドルフは恭しい敬礼で見送りやがった。この薄情者め!俺からも陛下にお願い云々とぬかしていたくせに、ご本人が登場した途端塩をふった青菜のごとく萎んでしまいやがって。迫力があるのは顔だけか、このゴリラ野郎!と罵りたくなった。
だがお兄様がいる手前、そのようなお下品な言葉を使って失望させる訳にはいかないので、くま吉を顔面に向かって投げつけるだけに留めておいた私の温情をありがたく思っていただきたい。ごめんよ、くま吉。あとで骨は拾うから。そのゴリラおじちゃんの事は嫌いになっても、私の事は嫌いにならないでね。ぐすん。
かくして私はお兄様の執務室へ連れてこられたのだが、これがおっそろしいほど会話が弾まなくて私は困りきっていた。
お兄様の部屋はきっと黒一色なのだろう、と思っていたのだが、予想に反して茶系統の家具で統一された、品のある部屋だった。アドルフの部屋のものよりも幾分か大きい執務机には、黒のインクと羽ペンが数本、テーブルランプと本数冊が整頓して置かれている。その脇に設けられた椅子の上にぽいっと降ろされた私は、新しい魔界クオリティの発見を予想していた心を裏切られて、少しだけ拍子抜けした。
アドルフの部屋はお城の石が剥き出しのままになっていたが、お兄様の部屋は木でできていて全体的に温かみがあった。
執務机の背後には2つの大窓があって、モスグリーンのカーテンが金色の紐で結えられている。その横にある背の高い本棚には、背の題目を読んだだけでもお腹いっぱいになるような分厚い本が、ぎっしりと並んでいた。天井から吊り下げられた華奢な細工のシャンデリアに、いまは火の入っていない暖炉や、金糸で模様が描かれた青色の絨毯。そのどれをとっても、とても魔界にあるとは思えない上品さだ。
いや、魔界が特別下品とか言う訳じゃないんだけどさ。でも、いままでの事を鑑みると、ね?
ぐるりと辺りを見回した後で再びお兄様に向き直ると、ちょうど報告書の束を抱えて紙の端を揃える所だった。几帳面に整えてから、すでにサイン済みのものの上に重ねる。そうしてまた次の報告書を手に取ると、目で文字を追い始めた。長く繊細な指先が、ゆっくりと紙をめくっていく。文字を追う伏し目がちな瞳は睫毛に縁取られて、頬に細い影を落としている。
「……」
「………」
…非常に気まずい思いをしている私の事など、まるで眼中にないかのようだ。甲冑に勝手に触れた事を怒る気配すらない。「出ていけ」とも「ここにいろ」とも言わない。本当にただ仕事をしているだけだ。謁見の間で対峙した時のような威圧感もなければ、恐怖心も湧かない。という事はつまり、私になんの関心も払っていないのだろう。
――なにがしたいんだ…。
訳もわからず、私の精神力のみがガリガリと削られていく。もしかして、私の知らない所で処罰は始まっているとか?そして心をじわじわと弱らせた所で、一気にとどめを刺すとか…?い、いやすぎる…。
気分はすでに最悪を通り越して最高にハイってやつだぜ、ハハ…ハ。
じっと見つめる私に気づいているのか、気づいていないのか。仕事に集中をするお兄様は、もはや私がいる事すら忘れてしまったのでは、と心配になる。お兄様ならあり得そうな所がまたなんとも言えない。
――どうしよう…。
私は椅子の上で膝を抱えた。ドレスに顔を埋めると、城を駆けずり回ったせいかかすかに埃っぽい匂いがした。折角のドレスをこんな風に汚してしまっては、ブルーナが怒るかもしれないと、憂鬱な気分になる。
しかも若干裾が破けているし。わざわざ私のために、魔界にない生地を取り寄せて作られたらしく、その事だけでもすでに気が重かったのに。謝り倒すか……。はあ…。だが、いまはともかくお兄様をどうするかだな。
私はそのままの体勢で、この状況をどう打破すべきか考えを巡らせた。
その1、頑張って話しかけてみる。
その2、それとなくかまってアピールをしてみる。
その3、…えーっと、その3…その3……。い…色じか……ないな、うん。ないない。
心なしか頭痛がする気がして、こめかみを揉む。……だめだこりゃ。ちっともいいアイデアが浮かばない。
いくらお兄様の攻略を宣言したとは言え、まさかこれほど早く接触できるとは思ってもいなかったため、攻略法などなにも考えていなかった事が悔やまれる。こんなビッグイベントが発生したというのに!世の中のヒロインは、こういう危機をどのようにして乗り越えているのか、早急に教えていただきたい。割とまじで。
まあ無難にいくならば1番なのだろうが、いかんせんこの攻略相手(お兄様)に対してどこまで砕けた態度をとっていいのか不明であるため、下手に口を開けない。こういう場合、乙女ゲームだと気の利いたセリフが3択くらいで出てくるものだが、現実世界にそのようなゆとり制度は存在しない。むしろ無理ゲーの域だからね。
なんと言ったって、お兄様は極悪非道の魔王様なのだ。不敬を買ったら最後。「よぉ、兄貴!元気そうじゃあねぇか。ところで今日のパンツは何色?」などと言った日には、私が3000ピースのパズルになってしまう事は確実だ。やだやだ。それだけはなんとしてでも避けたい。
となると、2番か……。
私はそろりと顔を上げた。目の前には、相変わらず美しいお兄様がいる。同じ魔族とは思えない美しさだ。ここにいるはずなのに、ずっと遠くの人を見ているかのようにどこか浮世離れして見える。
滑らかな白い肌は、大理石のようなほんのりとした輝きを帯び、黒い柳眉が艶めかしく映えている。少し頬骨の浮いた頬に、細くすっきりとした鼻。薄く結ばれた唇が開いて…――。
「…まだか」
「えっ」
お兄様にぼうっと見とれていた私は、一瞬誰が言葉を発したのかわからなかった。口元から目を離せば、無機質な瞳でこちらを眺めているお兄様と目が合った。
――ええっ?




