第12話
魔王城の廊下は、窓はあれども差し込む日光がないため、薄暗く視界が悪い。したがって、壁には松明状の明かりが等間隔で灯されている。これは魔力でできた焔で、水をかけようが油を注ごうが、火の勢いが一定に保たれる仕組みになっていた。本来ならば勝手にうろつく事を許されない廊下であるが、緊急時であるし仕方がないと自分に言い聞かせ、アドルフはその明かりを頼りに、静かに歩みを進めていった。
石造りの床にアドルフの長靴が下りるたび、カツ、カツと小さな音がなる。聞く者が聞けば、かなり訓練されている者の足音だとわかるだろう。一定の速度を保ったまま一切の乱れがない足音は、目的のものを目指して進む一方で、身体を隠せそうな柱の影や隙間を念入りに調べるのを忘れない。
――めんどくせぇ事になった…。
ゆっくりと深呼吸をすれば、微かに埃っぽい空気が肺に満ちた。明かりの先を見つめるアドルフの表情は険しい。眉間にはくっきりと皺がより、その下の眼光は鋭く、口元は真一文字に結ばれている。心の繊細な者が見れば失神しそうな表情だ。
こんな事なら実践用の軍服を着てこればよかった。鬼のような表情を緩めないまま、アドルフは内心そう思ったが、生憎と身を包んでいるのは主に公式の場で着用する煌びやかな刺繍の装飾が施された正装だ。当然見栄えが重視されているため、防御力などほとんどないに等しい。腰に差している剣もまた然り。赤や紫や碧といった、魔石で彩られた鞘に納まった刀身は、刃が潰されていて本来の切れ味よりも格段に劣る。
だが、いまはそんな装備でも頼るしか他ない。アドルフは、剣の柄にそっと左手を添えて、形を確かめるかのように何度か手で弄んだ。
人気のない廊下は、いつもにも増して不吉な影を漂わせているように見える。この廊下に青い旗が翻ったのは何年、いや、何百年前の事であったか。はるか昔、曽祖父がその話をしてくれた事があったが、正確な年数は思い出せない。が、確か先々代の魔王が存命であった時のように記憶している。
青竜旗騒動を起こしたのが豪傑ならば、先々代の魔王もまた豪胆な気の持ち主であったのだ。あまりにも突然すぎる闖入者に眉ひとつ動かさなかったばかりか、殺気立つ家臣に一切の手出しは無用と伝えたのだという。結局6日目に勝利を収めたのだが、殺した後に部下に加えればよかったと、男を倒すのにかかったのと同じ日数だけ嘆き落ち込んだという話は、伝説にも残っていない、曽祖父とアドルフの間の秘密だった。
そんな懐かしい記憶を思い返しながら、廊下の曲がり角に差し掛かろうかとした時。
「は…?なんだこいつ?」
思わず口をポカンとさせたアドルフの視界に、小さな人影がもの凄い速さでこちらに向かって走って来るのが映った。
「ぶおおおぉおぉぉぉぉおおん!」
――例の、奇妙な鳴き声と共に。
普段はネズミの足音すらしないような静まり返った廊下が、謎の鳴き声で満たされる。あの変な声の持ち主は、どうやらこいつであったらしい。声の原因はさて置き、とりあえず最悪の事態は避けられた事にホッと息をついたアドルフは、厳しい声を投げかけた。
「いい度胸だな、オマエ。ここがどこだかわかって―――」
「ぶわあぁぁぁああああぁぁん」
「―――ちょっ、おいおいおい」
とりあえず威嚇をするために声をかけたのだが、そもそもそれがいけなかったらしい。アドルフに気づいた影は、渡りに船とばかりに方向を調整し、なぜかアドルフに向かって飛び込んできた。
殺そうか、それとも捕まえようか。柄を握りしめてそう悩んでいる隙に、避ける間もなく軽い衝撃が身体に走る。見下ろすと、ふわふわの黒髪頭が、髪を振り乱して腰のあたりにへばりついていた。小さい癖に、かなりの腕力だ。俺の腰になんの恨みがあるのか、と問いたくなるくらいギリギリと締め上げてくる。
それを剥がして抱き上げながら、アドルフは目を丸くした。
「なんだ、珍しい。ガキじゃねぇか」
小さな物体は、なんと魔族の少女であった。それも外見からして、生まれたばかりであると思われる。鳥の巣状態に絡まった髪から覗く顔がまだ幼い。これはまた随分と可愛らしい闖入者がいたものだ。その少女がどう言う訳か、不細工で妙に毛深いぬいぐるみを握りしめながら、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「うぉっ、うぉっ」
「オマエ、親はどうしたんだ?それにここは決められた者以外、立入禁止の区域だぞ」
「ひっ、ひぐっ」
最近子供が生まれたなんて聞いた事あったか?と、アドルフは自問するものの、あったようななかったような、そもそも他人には興味がないという答えが浮かんで、早々に答えを探すのは諦めた。仕方がないので子供に問うてみるが、しゃくり上げるのに必死で言葉にならないらしい。その間にも、顔からは大量の涙と鼻水が噴き出している。アドルフは非常に嫌な予感がした。
そしてその予感は的中した。
「落ち着けって…あーあ、俺の服を鼻水だらけにしやがって……」
恐る恐る服を見れば、折角の正装が見事に涙と鼻水で覆われていた。先ほど少女が抱き付いた辺りが、湿り気のある半透明の光沢を帯びている。これ、手洗い大変なんだよな、と肩を落としつつ、胸のポケットから出した手巾で、いまだ体液を垂れ流しにして嗚咽を漏らす少女の顔を拭ってやった。
「これで綺麗になったろ、ったく…。オマエ、ほんとどっから来たのよ」
半ば本気でそう問いたくなる程、少女は酷い格好をしていた。着ているドレスは、かなり上等なものであるというのに、どこをどう通って来たのか裾は擦り切れて所々薄汚れている。どこからどう見てもただ事ではないが、かと言って悪さをしようと思って入り込んだ訳でもなさそうだ。
よく見れば中々整った顔立ちをしている少女に、誰かに乱暴でもされたのか、と尋ねると大きく首を横に振って勢いよくまくし立てた。
「かっ、かっちゅうが…がっぢゅうが…っ!!お願い助けてヘルプミィィィィ!!」
「はあ?」




