消えなかった原本
マリアベルが盗んだという「最初の原本」。
それが何を指すのか、私には心当たりがあった。
五年前、北方救恤制度が始まった日の決裁記録だ。
王太子は災害対策として制度を創設した。けれど決裁書の原案には、救恤費の一部を王家の特別会計へ移す条項があった。
私が異議を記録すると、条項は削除された。
少なくとも、王宮に残る写本では。
「削除前の原本があれば、横領が最初から計画されていたと証明できます」
「妹君はどこへ持ち出した?」
シリウス様の問いに答える手がかりは、手紙の箱にあった。
箱の内張りを剥がすと、王都の古い地下水路図が現れた。赤い印は、王宮地下書庫ではなく、閉鎖された礼拝堂を示している。
私はすぐに王都へ照会を送った。
返事を待つあいだにも、監査を止めるわけにはいかない。
押収した偽帳簿を年代順に並べると、奇妙な規則が見えた。
消えた小麦の量は毎年違う。だが、王都へ送金された金額はいつも同じだった。
金貨一万二千枚。
「誰かが必要な額を先に決め、そのために小麦の数を調整していた」
「何に使った金だ?」
支出先は記されていない。
代わりに、すべての送金日に同じ催事が行われていた。
王太子主催の慈善舞踏会。
救恤費を盗み、その一部で慈善を演出する。飢えた村の金で、王都の貴族に善人だと称賛させていたのだ。
村人たちの怒りが広間を満たした。
私はそれを一つずつ証言として記録した。
夕刻、王都から伝書鳩が戻った。
『旧礼拝堂を捜索。記録なし。地下水路は三年前に封鎖済み』
遅かったのか。
紙を握りしめたとき、裏面に追記があることに気づいた。
『ただし祭壇の下から、王宮記録官専用の保管筒を発見』
中身は空だった。
けれど蓋の内側に、私が新人時代に使っていた整理番号が刻まれている。
R―一―零〇一。
王宮記録の第一号。
制度創設の決裁書で間違いない。
「原本は持ち去られています」
私が言うと、シリウス様は首を振った。
「いや。記録官の顔をして考えろ。原本を盗んだ者が、空の筒をわざわざ残す理由は?」
私は息を止めた。
保管筒は証拠ではない。
伝言だ。
消えたのではなく、別の場所へ移したと知らせるための。
整理番号を紙に書き、数字を王宮記録官の換字表で文字へ置き換える。
現れたのは地名だった。
エルン村。
地図から消され、百二十人が見捨てられた村。
「マリアベルは原本を、被害者のもとへ返したのです」
その夜、雪の中から一人の女が監査宿舎へ運び込まれた。
外套は裂け、足には鎖の跡がある。
それでも彼女は、胸に一本の保管筒を抱えていた。
「お姉様……」
顔を上げたのは、行方不明だったマリアベルだった。
「これを、殿下に奪われる前に」
差し出された原本の末尾には、王太子の直筆で一文が加えられていた。
『北方の損失は、記録上存在しないものとする』
私は妹を抱き起こし、原本を開いた。
「いいえ、殿下」
消えなかった記録を、今度こそ王国中に読ませる。
王都での公開審理を求める鐘が、その夜、北方のすべての村で鳴らされた。




