八千袋はどこへ消えた
「火を消すな! 先に荷を運べ!」
倉庫前で、監督役の男が叫んでいた。
奇妙な命令だった。本当に火災が起きたなら、穀物を守るためにも消火を優先する。それなのに、水桶を持つ者は一人もいない。
シリル様が正規守備隊の呼子を吹いた。鋭い音が雪原を走る。
「北方監察府だ。すべての搬出を止めろ!」
荷車の御者たちが手綱を引いた。監督役だけが逃げようとしたが、護衛に取り押さえられる。
私は燃える事務棟を見た。窓から上がる炎は明るいのに、屋根へ燃え移っていない。
「油を撒いたのは、帳簿棚の周囲だけですね」
監督役の頬が引きつった。
「失火だ」
「では、なぜ火が出る前から荷車が十二台も用意されていたのですか」
返事はない。
守備隊が到着し、消火が始まった。事務棟の半分は焼けたが、石造りの保管室は残った。鉄箱の中から、焦げた出納簿が三冊見つかる。
一冊目は正式な帳簿。エルム村から小麦八千袋を受領し、王都救貧院へ送ったことになっている。
二冊目は倉庫番の作業簿。八千袋は北第三倉庫へ搬入されたまま、一袋も王都へ出ていない。
三冊目には、金の麦穂を三本束ねた商会印が押されていた。王都最大の穀物商、ベルト商会。
「保管料として、毎月代官府から金貨が支払われています」
「盗んだ小麦を、税金で保管していたのか」
「それだけではありません」
契約書の末尾には、春の融雪後に全量を商会へ売却するとある。予定価格は現在の相場の五倍。
北方で飢饉が広がれば、春には小麦価格が上がる。救援用の小麦を隠し、人為的に不足を作ってから売る計画だった。
村人が飢えたことも、エルム村が地図から消されたことも、すべて利益へつながっている。
契約の保証人は北方代官オズワルド・ケインと、王都財務卿バルナード・ベルト。財務卿はベルト商会会頭の実兄だった。
「王都で予算を承認し、地方で物資を消し、身内の商会へ売る」
「三者ではありません」
私は正式帳簿に押された承認印を示した。
王太子府。
殿下が内容を理解していたかは分からない。けれど決裁欄には確かに殿下の署名があった。
ただし筆跡は、祝賀会で読み上げた命令書と微妙に違う。殿下の署名を真似た者がいる。あるいは殿下自身が、内容を見ずに署名した白紙を渡した。
どちらであっても、王太子府の責任は消えない。
夜明けまでに八千袋すべてへ監察府の封印を施した。守備隊員と倉庫番を立ち会わせ、袋の番号、重量、麦の状態を記録する。
実数は七千九百四十二袋。五十八袋は、すでに別の場所へ運ばれていた。
「どこへ送ったのですか」
倉庫番は震えながら納品票を差し出した。宛先は北方総督府の晩餐会。
飢えた村から奪った小麦が、貴族の白パンになっていた。
私は三日後、北第三倉庫の前で公開監査を開いた。周辺十二村の代表、守備隊、代官府、商会の責任者を集める。
隠された監査では、記録も人も再び消される。だから全員の前で読み上げた。
死者名義の受領証。旧公印で作られた偽の王命書。二重の出納簿。ベルト商会との売買契約。
読み進めるほど、代官オズワルドの顔から余裕が消えていった。
「これは監察ではない。見世物だ!」
「いいえ。確認です」
私は村長へ尋ねた。
「エルム村は小麦八千袋を納めましたか」
「一袋も納めていません。私たちは種籾まで食べました」
司祭へ尋ねる。
「受領者オルド・バシュレは、その日に生存していましたか」
「いいえ。三年前に埋葬されています」
倉庫番も証言した。
「小麦は王家の備蓄庫から来ました。エルム村からではありません」
オズワルドが立ち上がった。
「王太子殿下の承認がある! 私を裁けば殿下へ逆らうことになるぞ!」
「では、殿下の承認も調べます」
私は決裁書を掲げた。
「署名が本物なら、殿下には内容を説明していただきます。偽物なら、署名を使った者を明らかにします」
どちらへ転んでも、記録からは逃げられない。
オズワルドは拘束され、押収した小麦は十二村へ配給されることになった。エルム村の名も、監察府の地図へ戻した。
そのとき王都から早馬が到着した。封書には新しい王太子府の公印が押されている。今度は本物だった。
命令は三つ。
北方監査の即時中止。押収記録の王都への返還。そして私を反逆罪の容疑者として拘束せよ。
末尾には殿下自身の筆跡で一文が加えられていた。
『レティシアなら、私のために戻ってくる』
殿下はまだ、私が従い、後始末をすると信じている。
「返書を書きますか」
シリル様が尋ねた。
「はい。殿下が望まれたとおり、すべて記録してお返しします」
ただし今回は、殿下だけに届く手紙にはしない。
王国全土の監察所へ、同じ写しを送る。
誰にも消せない数の原本を作るために。




