地図から消された村
北へ向かうほど、街道から人の気配が消えていった。
王都を出て三日目。
馬車の窓から見えるのは、雪をかぶった針葉樹と、灰色の空ばかりだった。
「次の宿場までは、あと半日です」
向かいに座るシリル様が地図へ指を置いた。
その指先から、東へ細い道が伸びている。
三年前の地図には、道の先にエルム村と記されていた。けれど、王宮で使われている最新版では、道ごと白く塗り潰されている。
「地図を作り直すだけでも、測量局、地方行政局、王宮記録局の承認が要ります」
私は二枚を重ね、窓の光へ透かした。
川も山も一致している。違うのは村と街道だけだ。
「一つの部署の間違いではありません。少なくとも三か所で、同じ嘘が承認されています」
「だから、あなたを連れてきた」
シリル様は当然のように言った。
王宮にいた頃、私が矛盾を指摘すると、細かすぎると笑われた。殿下は書類を机へ放り、最後には必ずこう言った。
『間違いがあるなら、君が直しておいてくれ』
けれどシリル様は、私が何を見つけたのかを尋ねる。説明が終わるまで地図から目を逸らさない。
それだけの違いに、まだ慣れなかった。
馬車が大きく揺れた。御者が馬を止める。
「どうしました」
シリル様が扉を開けると、冷たい風と一緒に男たちの怒鳴り声が入ってきた。
街道を丸太が塞いでいた。その前に、北方守備隊の紋章をつけた兵士が六人立っている。
「この先は雪崩の危険がある。引き返せ」
隊長らしい男が告げた。
シリル様は任命書を見せる。
「北方七領監察官シリル・アーデンだ。街道の封鎖命令を確認したい」
男の視線が、任命書から私へ移った。
「命令書は詰所にあります」
「では持ってきてください」
「今は手元にない」
「発令者と日付は?」
答えはなかった。
私は丸太へ近づいた。積もった雪は薄い。切り口からは樹液の匂いがする。
「この木は今日切られたものです」
兵士たちの顔が強張った。
雪崩で長く閉ざされた道なら、丸太の上にも周囲と同じだけ雪が積もっているはずだ。それに、街道脇の雪には荷車の轍が残っている。私たちとは反対方向、森の奥から出てきた跡だった。
「存在しない村へ続く道を、今日になって封鎖したのですね」
隊長が剣の柄へ手をかけた。同時に、シリル様が私の前へ立つ。
彼は剣を抜かなかった。代わりに、懐から小さな銀板を取り出した。王命による監察を示す印章だった。
「監察官への妨害は、現場の兵士が負う罪ではない。命じた者の名を話せば、君たちの証言を記録する」
沈黙のあと、一番若い兵士が俯いた。
「……代官府です。今朝、誰も通すなと」
「理由は?」
「聞かされていません」
隊長が若い兵士を睨んだ。しかし、もう遅い。
私は携帯用の記録帳へ、時刻、場所、六人の氏名、証言を書き留めた。
「読み上げます。訂正があれば、今ここで申し出てください」
一語ずつ確認すると、兵士たちは最後に署名した。
丸太が退けられた。
馬車では進めないため、私たちは護衛二人と徒歩で森へ入った。
一時間ほど歩いたところで、煙の匂いがした。
地図から消されたはずの場所に、家があった。
屋根は雪の重みで傾き、畑は荒れている。それでも煙突から煙が上がり、井戸のそばには小さな靴跡が続いていた。
人が暮らしている。
村の入口に立っていた老婆が、私たちを見るなり扉を閉めようとした。
「税なら、もう納めたよ」
「税を取りに来たのではありません」
私は王宮記録官の徽章を外し、代わりに新しい任命書を見せた。
「エルム村の記録を確かめに来ました」
老婆の目に涙が浮かんだ。
「その名を、まだ覚えている人がいたのかい」
村には百八十七人が残っていた。
三年前は千二百人。飢えと寒さで多くが村を離れ、老人と幼い子どもを中心に二十三人が亡くなったという。
「王都からの救援は届かなかったのですか」
私が尋ねると、村長は首を振った。
「救援どころか、うちが王都へ小麦を送ったことになっている」
彼が出してきたのは、湿気で波打った配給台帳だった。
エルム村の収穫量は三年前からほぼゼロ。寒波で畑が全滅している。
それなのに、王宮の原簿にはこう記されていた。
――エルム村より小麦八千袋を受領。
私は村の台帳を一頁ずつ確認した。
種籾の残量。各家への配給。病人へ回した乾燥豆。
数字はすべてつながっている。八千袋を隠せる余地など、どこにもない。
最後の頁に、一枚の受領証が挟まっていた。
『救援用小麦、四百袋を確かに受領した』
受領者の署名は、エルム村長オルド・バシュレ。
目の前の村長とは違う名だった。
「先代の村長ですか」
部屋の空気が変わった。老婆が胸の前で祈りの印を結ぶ。
今の村長は、窓の外にある小さな墓地を指した。
「オルドは私の父です。五年前に亡くなりました」
受領証の日付は、二年前。
死者が、小麦を受け取ったことになっている。
しかも紙の右下には、北方代官府の印章が押されていた。
シリル様が低い声で言った。
「これで代官府は、知らなかったとは言えない」
「まだです」
私は受領証を光へかざした。
紙の繊維の中に、王宮御用紙を示す青い糸が混ざっている。地方の村で使われる紙ではない。
この偽の受領証は、王都で作られた。
そのとき、外で馬のいななきが響いた。
護衛が扉を開ける。
「監察官殿、森の入口から騎馬が近づいています。十騎以上です」
街道を封鎖した兵士たちではない。
村長の顔から血の気が引いた。
「代官府の徴税隊です。帳簿を見せろと言われるたび、持っていかれた家は戻ってこなかった」
私は配給台帳と受領証を重ね、記録箱へ収めた。
探していた原本は、王宮にはなかった。地図から消された村が、命がけで守っていたのだ。
扉の外で、蹄の音が止まった。
そして男の声が響く。
「王命により、反逆者を引き渡せ!」
私は記録箱の錠を閉めた。
王命だというのなら、確かめることは一つしかない。
「その命令書を、全文読み上げていただきましょう」




