署名した責任まで、私に譲らないでください
「発送を承認したのは、殿下ですか」
法務卿の問いに、王太子はすぐには答えなかった。
発行簿の写しにある署名へ、広間の視線が集まる。
「私の署名なら、あの女は何度も見ている。真似ることもできただろう」
殿下が私を指した。
その指先を見ても、もう筆を落とさなかった。
「署名が似ているだけで、殿下が承認したとは決められません」
私は答えた。
「ですから、写しを作った方と、発行簿を保管していた方に確認してください」
法務卿は頷き、書記に原簿を運ばせた。廊下で私に示された写しは、発行簿の場所を知らせるためのもの。審理の証拠には、押収時の封印を確かめた原簿を使う。
殿下は椅子へ背を預けた。
「そこまでしても、私が読んだ証明にはならない」
私は一瞬、返す言葉を失った。
署名の偽造を訴えていた人が、今度は読まずに署名した可能性を持ち出している。
けれど、その順番も記録する。
◇
発行簿を担当していた書記は、王太子府の承認済み文書から返書を転記したと話した。
「署名は私が写しました。殿下が原簿へ直接書かれたのではありません」
王太子が笑った。
「聞いただろう。私の字ではない」
「原文書はどこにある」
法務卿が尋ねた。
「発送控えの綴りです。相手へ送ったものとは別に、一通を府内へ残します」
押収目録に、その綴りも載っていた。
書記が頁の位置を示す。神殿記録官が登録番号を読み、商会に届いた返書と照合した。
本文は同じ。
違うのは、府内の控えにだけ残された決裁欄だった。
私は殿下の署名を見つめた。
ここにあるのは、転記された文字ではない。
それでも私の知識だけで、本物だと告げるのは避けた。
「この文書を、承認へ回したのは誰ですか」
法務卿が問うと、マルセルが顔を上げた。
「私です。殿下の執務室へ持参し、返されたあと、発送担当へ渡しました」
「お前が署名を作ったのではないか」
殿下の声が鋭くなる。
「……その疑いは、調べてください」
マルセルは唇を噛んだ。
「ただ、私はこの返書を送ったあと、商会から訂正要求が届いたことを殿下へ報告しました」
「そんな報告は知らない」
「翌日の執務日誌に記載があります」
法務卿は日誌の保全を命じた。
私は息を吐く。
今日中に結論が出なくてもいい。
新しい主張が出れば、その裏づけを調べる。疑われた人が反論できるよう、記録を見せる。その手順を踏まなければ、私が受けた断罪と同じになる。
◇
審理が止まりかけたとき、国王陛下が口を開いた。
「王太子。お前は先ほど、読んだ証明にはならぬと言ったな」
「はい。日々、数多くの書類に署名しております。細部は書記に任せています」
「では、この返書の内容に、今も異議はないのか」
殿下は私を見た。
まだ、助け舟を出してもらうつもりなのだろうか。
「レティシアが確認するはずでした。彼女が戻れば、訂正できたのです」
私の胸の奥で、何かが静かに切れた。
その言い方を、何度聞いただろう。
間違っていても、私が直す。
約束していなくても、私が間に合わせる。
最後に責められるのも、私。
「私が確認を引き受けた書面はありますか」
声は思ったより穏やかに出た。
「以前なら、頼めばしてくれただろう」
「以前の仕事と、この送金の確認は別です」
私は商会の返書を指した。
「必要なのは、私の返答ではありません。正しい口座番号か、相続管理者の確認書です。私は名義人の相続管理者でもありません」
「それくらい調べればよかったのだ」
「調べるよう、私に依頼しましたか」
殿下は答えなかった。
陛下が法務卿へ向き直った。
「この返書の真正は引き続き調査せよ。ただし、本人が承諾していない確認作業を、本人の怠慢として扱うことは認めぬ」
書記が筆を走らせた。
私に責任がないことを、誰かの好意ではなく、審理の判断として残してくれる。
私は頭を下げた。
◇
控えの間へ戻ると、シリウス様が窓を少し開けた。
冷たい風が頬に触れる。
「まだ、勝ったとは言えませんね」
「あなたへ押しつけられた仕事を、一つ退けた」
彼は答えた。
「それは今日の成果だ。全部終わるまで、成果を数えずにいる必要はない」
私は卓上の記録へ目を落とした。
未確認の署名。
調査を待つ執務日誌。
その横に、私の承諾がないことを認めた決定。
まだ途中でも、取り戻したものはある。
そこへ法務卿の書記が現れた。
「殿下から、審理を継続する条件が出されました」
「条件?」
「あなたを王宮記録官へ復職させ、王太子府の会計を整理させたいと」
私は顔を上げた。
また私に、後始末をさせるつもりなのだ。
「返答を記録してください」
今度は、迷わなかった。
「その仕事は、お引き受けしません」




