死者の名義では、金を受け取れません
「死んだ人間が、小麦の代金を受け取ったというのですか」
私が尋ねると、マルセルは視線を落とした。
送金先の欄にあったのは、救恤制度の創設記録で見た、先代の会計担当官の名だった。退職した人ではない。死亡による交代が、五年前の人事簿に記されている。
けれど、名前が一致しただけで、金の受取人まで決めることはできない。
「同姓同名の可能性を除くため、口座番号も記録してください」
法務卿が書記へ命じた。
私は帳簿を広げたまま、両手を離した。ここからは、私一人が預かる証拠にはしない。
神殿記録官と法務卿が頁数を数え、封筒の印影を写す。マルセルには、どこで保管し、いつ持ち出したのかを尋ねた。
「王太子府の金庫です。封鎖の前に取り出しました。殿下に、帳簿を処分せよと命じられたので」
「その命令の書面は」
「ありません。口頭でした」
「では、その部分はあなたの証言として記録します。命令があったと確定した事実には、まだしません」
王太子がわずかに顔を上げた。
「そうだ。自分の罪を私へ押しつけているだけだ」
「帳簿にも、同じ確認が必要です」
私は頷いた。
「これだけでは、売却が実行されたことも、殿下が代金を得たことも証明できません。送金を扱った側の記録と照合します」
殿下の笑みが消えた。
◇
陛下は王都西倉庫の出納記録と、送金を扱った商会の控えを保全するよう命じた。調査員は法務卿が選び、王太子府の者は加えない。
審理はそこでいったん休止された。
書類を呼べば、その場に現れるわけではない。倉庫へ行き、保管者に立ち会わせ、必要な期間の帳簿を封じて運ばなければならなかった。
私は控えの間で、読み取った番号をもう一度確かめた。
「間違いを待っている人が、あの広間には何人もいます」
シリウス様が隣の椅子を引いた。
「だから急がないのだろう」
「村の人たちは、急いでほしいと思うはずです」
「食糧の配給は、北方で続けている。あなたが今ここで証拠を取り違えれば、その命令まで疑われる」
彼は卓上に水を置いた。
「待つ時間も、村を守る仕事だ」
その言葉で、私はようやく筆を置けた。
殿下のために書いていた頃は、遅いと叱られるのが怖かった。今は、何を確かめるための時間なのか、説明を聞いてくれる人がいる。
水を飲むと、乾いていた喉が少しだけ楽になった。
◇
翌朝、審理が再開された。
運び込まれた控えは、倉庫側の出納簿と、送金商会の受付簿。封印を開く前に、運搬した調査員と保管者の署名が確認された。
法務卿は、まず問題の口座について尋ねた。
商会の出納係が答える。
「名義人の死亡届は受けています。この口座は遺産精算用として残っていますが、相続手続きが終わるまで払出しを停止しております」
死者の名義で、自由に金を引き出せたわけではなかった。
私は受付簿へ目を落とした。
「この送金は、受け付けられていますか」
「申請はありました。ですが、入金前の照合で止めました」
「理由は」
「口座番号に付く確認符号が一致しません。依頼主に訂正を求め、保留にしたままです」
マルセルが顔を上げた。
「しかし、私の帳簿には、送金済みと」
「帳簿に書かれたことと、実際に行われたことは別です」
私は二冊を並べた。
金額、申請日、送金先の番号は一致している。なのに、片方だけが完了したことになっていた。
これで疑問は変わった。
死者が金を受け取った理由ではない。
届かなかった金を、誰が送金済みとして処理したのか。
「売却代金は、今どこにありますか」
出納係は受付簿の次の欄を示した。
「送金依頼の際、現金は預かっておりません。倉庫の売却代金から振り替える指図だけです」
倉庫側の出納簿にも、同じ額の残高があった。
陛下が法務卿へ向き直る。
「その金を保全せよ。誰のものかは、これから確かめる」
王太子が口を開きかけたが、陛下は言葉を続けた。
「小麦を失った者に返すべき金を、審理の間に動かすことは許さぬ」
ようやく、一つ守れた。
紙の上の逆転ではなく、これから誰かへ届くはずの金を。
けれど、私は受付簿の備考欄を見て、筆を止めた。
口座番号の訂正を求められた依頼主は、こう答えていた。
『記録官レティシアに確認させる。返答までは留め置け』
日付は、私が王都を出た翌日だった。
私はその時、北へ向かう馬車の中にいた。
「私の名で、誰が返答するつもりだったのですか」




