廃旅館になったのは
一条 璃姫は、山奥のひっそりとした古びた旅館で生まれ育った。その旅館は、一条家が代々受け継いできたもので、その歴史は七十年以上にも及ぶ。北京都がまだ小さな集落だった頃から、この地で旅人をもてなしてきた、まさに生きた歴史そのものだった。
十六歳になった璃姫は、中学を卒業すると、高校には進まず、祖母と共にこの旅館を本格的に営むことを決めた。祖母は、いつも璃姫の傍らにいて、その細い指で璃姫の髪を梳きながら、優しい声で語りかけた。
「いつもありがとうね、璃姫ちゃん。とても助かってるよ」
璃姫は、祖母の温かい手に自分の手を重ね、微笑んだ。
「おばあちゃんがいる間はずっと手伝ってあげるからね。私に任せて!」
二人きりの旅館経営は、決して楽ではなかった。しかし、小さな旅館だからこそ、隅々まで手が行き届き、訪れる客たちは皆、その温かいもてなしに心癒されて帰っていった。璃姫と祖母は、互いに支え合い、穏やかな日々を送っていた。
しかし、その平穏は、突然の嵐のように打ち砕かれた。
二週間後、璃姫と祖母はいつものように風呂場の掃除をしていた。湯気が立ち込める浴室に、祖母の小さな悲鳴が響いた。璃姫が振り返ると、祖母は胸元を強く押さえ、その場に倒れ込んでいた。
「…どうしたの!?大丈夫!?」
璃姫の問いかけに、祖母は何も答えない。その顔は蒼白で、呼吸は浅く、苦しそうだった。璃姫は、震える手で祖母の体を支え、必死に呼びかけた。
「どうしよう…とりあえず最寄りの客室まで運ぼう…」
璃姫は、祖母の小さな体を抱きかかえ、近くの客室へと運んだ。しかし、その時には、祖母はもう息をしていなかった。突然の死。あまりにも突然で、璃姫は現実を受け止めきれなかった。
「ねぇ!しっかりして!一体どうしたの…」
璃姫の叫びは、虚しく静寂に吸い込まれていく。祖母は、二度と目を開けることはなかった。医者に診てもらったが、死因は不明。ただ「突然死」と告げられるだけだった。
葬儀を終え、璃姫は一人、がらんとした旅館の玄関に立ち尽くしていた。祖母の温もりを失った旅館は、まるで魂が抜けたかのように冷え切っていた。璃姫の瞳から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちる。祖母が大切にしていた扇子を手に取り、その温もりを確かめるように握りしめた。
「どうしよう、私一人だけだ…この旅館、そして私は一体これからどうすればいいの…?」
璃姫は、膝から崩れ落ち、声にならない嗚咽を漏らした。その時、玄関の戸が、まるで璃姫の絶望を嘲笑うかのように、大きく音を立てて開いた。嵐の予兆のように、冷たい風が吹き荒れる。璃姫の心に、さらなる絶望が押し寄せようとしていた。
璃姫が玄関で泣き崩れていると、突然玄関の戸が大きく音を立てた。冷たい風と共に現れたのは、十四年ぶりに見る顔ぶれだった。かつて一条家の一員でありながら、諍い(いさかい)の末に家を出ていった父親と母親、そして兄。「二条家」と名乗る彼らは、璃姫の絶望に追い打ちをかけるように、冷酷な言葉を投げかけた。
「おい璃姫!あのクソババア死んだって聞いたんだが本当かぁ?」
父親の汚い言葉に、璃姫は怒りを覚えた。
「…お前ら!?なんでここに来たんだ!」
母親は、璃姫の問いかけを嘲笑うかのように言った。
「璃姫、元気してたか。よくこんなゴミみたいな旅館で働いてたなぁ」
「うるさい!なんでこの旅館に来た!」
璃姫の叫びにも、彼らは耳を貸さない。兄は、薄ら笑いを浮かべながら、さらに残酷な真実を告げた。
「相変わらず威勢だけはいいようだねぇ璃姫ちゃん。あのおばさんは死んだんだろう?実はそのおばさんの死は、僕たちが仕込んだんだよ」
璃姫の思考は停止した。
「…え?どう言うことなの…」
父親は、その問いに答えるかのように、忌まわしい告白を始めた。
「いつの日か、お前らが風呂の掃除をしただろう?その前にあのババアが飲むお茶に柔軟剤を数滴入れた。まさかあの量でくたばるとはなぁ。笑わせてくれるぜ」
母親は、冷酷な目で璃姫を見据えた。
「あのババアは死んだからこの土地の所有者は誰もいなくなる。だから私たちでこの土地を買わせてもらう。悪い言い方すると、『この土地を奪いに来た』」
璃姫の心臓が、鉛のように重くなった。祖母の死が、事故ではなかった。彼らが、祖母を殺した。そして、この旅館を奪いに来た。怒りと絶望が、璃姫の全身を駆け巡る。
「…嫌だ!この土地はお前らになんか渡さない!早く帰れ!あっ…」
璃姫の手から、祖母が大切にしていた扇子が滑り落ちた。その扇子を、父親が拾い上げた。
「…この扇子、あのババアが気に入ってたやつじゃねぇか。これ相当古い扇子らしいから後で売るか」
その言葉は、璃姫の怒りを頂点に達させた。祖母の形見までをも金に換えようとする彼らの非道さに、璃姫は必死に泣きながら父親の腕を掴み、扇子を取り返そうとした。
「…やめて、それだけは返して!おばあちゃんの…大切な扇子なの…」
しかし、兄は璃姫をゴミのように蹴飛ばした。
「おい!父上に手を出すなゴミ妹が。とりあえずこの土地手続きをしなきゃいけないから後五日は待ってるんだな」
そう言い残し、彼らは嘲笑いながら車で去っていった。璃姫は、奪われた扇子と、祖母を殺された怒り、そして何よりも深い絶望に打ちひしがれた。
「…扇子奪われた。くそ、これから私は本当にどうすればいいの…」
その日から五日間、璃姫は鬱状態の中で必死に生き延びようとした。しかし、翌日、買い物のために街に出た璃姫を、さらなる残酷な現実が襲った。人々が囁き合う声が、璃姫の耳に届く。
「ねぇ聞いた?あの山奥の旅館に営んでるおばさん、死んだらしいわよ」
「一番怖いのが、
【あそこの娘さんがあのおばさんが殺したらしいね。】本当に恐ろしいわー」
璃姫は、その言葉を聞き、周囲の目も気にせず、その人たちの方向へ向かい、叫んだ。
「…違う、違う、違う!殺してなんかない!殺したのは、あいつらだ…私は、何もしてない…」
しかし、人々は璃姫の言葉に耳を傾けず、騒めき始めた。
「誰この子!?怖い、逃げましょう!」
「え!?こいつあの娘さんじゃないのか!?」
「誰かこいつを捕まえろ!」
璃姫は、その場に耐えられず、旅館へと逃げ帰った。彼女の精神は、もう限界だった。
「…きっとあいつらがクソみたいな噂を流したんだ。許さない…絶対に殺してやる」
璃姫は、二条家だけでなく、無責任な噂を流した北京都の人々をも恨むようになった。そして五日後、彼らは再びこの旅館にやってきた。玄関のドアを開けた先には、またあの三人が立っていた。父親は無言で、黒くボロボロになった何かを璃姫に放り投げた。
「これは、おばあちゃんの、扇子」
それは、黒く酷く汚れた扇子だった。祖母の形見を汚された怒りが、璃姫の胸中で燃え盛る。
「売っても全然金にならなかったから返してやるよ。お前みたいな小娘には汚らしいものがお似合いだと思ってボロボロにしてやったぜ」
母親と兄は、璃姫の絶望を愉しむかのように笑った。
「まぁ、明日にはこの旅館は無くなってると思いなさい。これからどう生活するかは自分で考えるのよ、
【璃姫ちゃん】」
「じゃあな、二度と僕たちに顔を合わせるなよ」
そう言い残し、彼らは笑いながら車のある方へと帰って行った。その瞬間、璃姫の心の中で何かが動いた。手に持っていた扇子が、少しずつ形を変えていく。璃姫の背中から紫色のオーラが放たれ、ゆっくりと立ち上がりながら、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「もういいんだ。何もかも」
璃姫は、その形を変えた扇子を彼らに向けて素早く投げた。それはもう、ただの扇子ではなかった。鋭利な刃物と化した扇子は、父親の左足を綺麗に切断した。
「車に乗るとするか…て、ぐぁぁ!!!いてぇ…いてぇ!俺の左足が!」
母親は、父親の悲鳴に驚き、振り返った。
「あなた!一体何があったの…もしかして…璃姫!?」
兄と母親は、璃姫の方へと振り返った。そこに立っていたのは、何かに憑依されたかのように狂気に満ちた顔をした璃姫だった。
「…璃姫!?お前が父の足を、やったのか!?」
璃姫は、冷たい笑みを浮かべた。
「フフフ、もう何もかもどうでも良くなってきたよ。父上、母上、そしてお兄ちゃん。お前らは、
【ここで死ね!】」
こうして璃姫は、彼らを旅館の玄関先で虐殺した。これが璃姫のソウルエンデム、
【精神支配ノ扇子:レス・ホスティス】の覚醒の瞬間だった。
ーーーーーーーーーーー
魅羽月瑠樹
「その異様な扇子は…なんなの?」
一条璃姫
「…これはね【黒桧扇】って言う扇子でね、少し高級な品物よ」
すると璃姫はその扇子を瑠樹に素早く投げる。瑠樹は顔を避け、頬を僅かに切った。
「!!??頬を少し切られた…」
「あら、よく避けたわね。あれ避けなかったら首飛んでたわよ?」
「…あなたの過去のことはわからないけど、これ以上街の人々を苦しむような思いはしてはダメだ!死刻の五柱、あなたたちのせいで一人の幼気ない少女を苦しめてるのよ」
「多分私がその子の親を銃で殺したんだと思うわ。懐かしいわねー。あの子の泣き顔は忘れられないわ」
「…やっぱりあなただったのね。これ以上は好きにさせない。必ず私たちが…あっ!」
すると、いつの間にか扇子が瑠樹の両足を深く傷つけていた。
(しまった…痛い…立てない…)
「もう立てないでしょう?私たちに逆らった時点であなたはもうおしまいなのよ。【ここで死になさい】魅羽月瑠樹」
【精神支配ノ扇子:レス・ホスティス】
一条 璃姫が所持するソウルエンデム。
武器は「黒桧扇」という扇子の形をした物。ブーメランのように素早く相手を殺傷する。




