間章・弐〈〝狩人〟の追憶・一〉
今回の間章は、それほどストレスなく読めると思います。(残酷描写がないとは言ってない)
――これは、遠い遠い昔の、〝はじまり〟の記憶。
「……おや。こんなところに、人の子がいるとは」
彼のはっきりとした記憶は、星々が美しく光り輝く新月の夜、鬱蒼と生い茂る黒々とした木々の合間から〝彼女〟が現れた瞬間から、鮮やかに始まっている。それ以前の記憶は曖昧で、かろうじて、両親らしき人たちと食うにも困る貧しい暮らしをしていたことを、うっすらと覚えている程度だ。
「人の子よ、何ゆえ、ここに? この森は、決して入ることのできぬ土地であると、知っておろうに」
漆黒よりもなお深い、闇色の髪を背に流し。
星明かりに映える瞳は、黒曜石の中に金剛石の光を閉じ込めたかの如く、虹色に煌めいて。
その身を包む衣装まで、黒一色に統一しておきながら、そこから覗く手足は、まるで空に浮かぶ綿雲のように白い。
闇の中から現れた、闇の化身のようなそのひとは――。
「……ふぅむ。そなたもしや、帰るところがないのか?」
……これまで出逢った誰よりも、温かかった。
「ぼ……ぼくは、まりょくがない、あくまのこ、だって。まちがって、ひとのあいだにうまれたんだ、って。あくまだから、まおうのもりにおいてくる、って」
ここへ来る前、村にやって来た立派な身なりの男と、村の大人たち、そして両親が話していた言葉を、彼は必死で再生した。何が起こっているのか、はっきり理解していたわけではなかったが、両親だった二人がここまで彼を運んできて、そのまま置き去りにしたとき、向けられていた眼差しは凍えるほど冷たくて。元から愛情深い人たちではなかったけれど、その眼差し一つで、あぁ、自分はもう望まれていないのだ、疎ましく思われているのだと、分かった気がする。
だから、諦めた。自分は〝あくまのこ〟なんかじゃないと叫ぶことも、「行かないで」と縋ることも。
全て諦めて、ただ、森の一部となることを、選んだのだ。
……なのに。
「馬鹿馬鹿しい。人の子が、人以外を孕めるわけなかろう。人の女から生まれたのなら、そなたは紛うことなき〝人〟であろうよ。そも、人の子が言う〝悪魔〟とて、所詮は人の心が生んだ幻影に過ぎぬ」
一片の迷いもなく、大人たちの言い分を切って捨て。彼女は軽やかに、彼の傍らへしゃがみ込んだ。
そのまま両手で彼の頬を挟み持ち、その美しき、黒き虹彩色の瞳で、じぃっと見つめて。
「なるほど」
しばらくの後、面白そうに笑って、その手を離す。
「そなたは、取り込んだ魔素を魔力ではなく、身体能力へ変換させる、極めて特異な体質の持ち主のようだな。確かに、今の時代、体内魔力が完全ゼロの〝生き物〟は珍しかろうが、全くおらぬわけでもない。随分と愚かな言説が流布しておるものよ」
「魔素循環も極めて緩やか、身体に負担がかからぬよう、見事に調整されている……」とぶつぶつ呟いていた彼女は、やがて「気に入った」と顔を上げた。
「人の子よ。そなたが望むのならば、この森の中に、そなたの居場所を作ってやろう」
「い、ばしょ……」
「居場所だ。暖かい寝床と清潔な衣服、飢えぬ程度の食事は提供してやれる。……そなたの体質であれば、この〝森〟に呑まれることもなかろう」
「あ、あの……」
「どうした?」
「ぼく――いきてても、いいの?」
両親だった人たちから、あの冷たい眼差しで射抜かれた瞬間、幼いなりに構築されていた彼の世界は崩壊した。村人たちからは〝あくまのこ〟だと蔑まれ、彼が麻袋に詰め込まれて連れ出されたときも、止めるどころか、別れを惜しんでくれる人すら居なかった。
そんな自分に、〝いばしょ〟を――〝生きていく場所〟を、与えてくれる人がいるなんて。
にわかには信じられず、自然とこぼれ落ちた疑問に、漆黒を纏った彼女は目を丸くして。
「生きてはいけない命など、この世に無いよ。世界に生まれ落ちた以上、命は等しく祝福されている。……どうか誇っておくれ、生きていることを」
「……ん」
「良い子だ。――それで、どうする? この森に住むか?」
「すみたい。ぼくの〝いばしょ〟は、ここがいい」
「……そうか」
微笑んで頷いた彼女は――。
「わっ!」
「ようこそ、オルドの森へ! 歓迎するよ、小さな人の子」
たおやかだが意外と力強かった腕で、彼を軽々と抱き上げて。
「さて、そうと決まれば君を森へ招き入れねば。――人の子よ、名を教えてもらえるか?」
「な?」
「うむ。君が人からどう呼ばれていたか、それを教えてほしい」
「う、うん」
そう言われ、言われた通りに村人や、両親だった人たちから呼ばれていた、いくつかの〝な〟を挙げる。
……が、しかし。
「ふむ。……ふぅむ。ううむ――」
〝かねくいむし〟〝よせふのこ〟〝おいおまえ〟〝このやくたたず〟……。
挙げれば挙げるほど、漆黒の彼女の表情は曇っていって。
「なるほど。……分かった、もういいよ」
やがて、穏やかに笑って彼の髪を撫で、話を切り上げた。
そして――少しの間、空を見上げて。
「あっ」
「どうしたの?」
「人の子よ、見てごらん」
言われるがまま、彼女が指差す空を見上げる。
――すると。
「――わぁっ!」
満天の星空から、一つ、またひとつ、星が降ってくる。それはほんの一瞬のことだけど、確かに光が軌跡を描いて、空から地上へ、流れてくるのだ。
「すごい、すごい! おほしさまが、ふってる!」
「うん。……そうか。今夜は、流星雨だったか」
静かに、誰かに何かを言い聞かせるように、彼女はそう呟いて。
「――メテオ」
「……めてお?」
「うん。メテオ・シュテルツシャッテン――君の名前だよ」
「ぼくの、なまえ」
……本当は、分かっていた。〝かねくいむし〟や〝おいおまえ〟が、〝己〟を示す名であるはずがないと。
けれど、村人たちが呼び合うような名を告げようにも、彼には呼ばれた記憶がなくて。両親だった人たちが、自分に名前をつけてくれていたのかすら、今となっては知りようもなく。
そんな自分に、彼女は……〝いばしょ〟だけでなく、〝なまえ〟までくれると、そう言うのか。
何度か口の中で、めてお、メテオと繰り返して。
「メテオ……ぼくのなまえは、メテオ・シュテルツシャッテン」
「あぁ。どうかな、気に入った?」
「うん! きれいな、なまえ!」
「それは、良かった。……昔々、この辺りにあった国の言葉で、〝流れ星〟って意味だよ」
「ながれぼし?」
「今、お星様が降っているだろう? 地上に向かって降ってくるお星様のことを、流れ星というんだ」
「メテオ、ながれぼし……ぼく、ながれぼし?」
「流れ星が降る夜に、こうして出会えたからね。私にとって君は、流れ星が運んでくれた、贈りものみたいな存在だもの」
「――うん!」
彼女の言葉は難しいけれど、それでも彼――メテオは、感覚で分かった。
今、とてもとても、嬉しいことを言われた、と。
「……さて。無事に君の、メテオの名が〝分かった〟ところで、いよいよ君を〝森〟へ招き入れねばね」
「まねきいれる?」
「外の世界から、この〝オルドの森〟へ……実に千年ぶりのお客様だ」
そう言うと、彼女は。
メテオを片手で抱き上げつつ、もう片方の腕をまっすぐ、森へと伸ばして。
「――魔国オルドヌング国王にして〝世界の護人〟、ヴィクトリア・フォン・ルミエ・オルドナシオンの名において、メテオ・シュテルツシャッテンに〝オルドの森〟を拓くことを、ここに承認する。これより先、森の全てはメテオを受け入れ、護るように」
彼女が詠唱を終えたと同時に指先から光が溢れ、彼女と、メテオの全身を包む。
眩さに目を閉じ、再び開いたとき……目の前の森は、先ほどまでと、まるで違って見えた。
「きが、くろくない……」
「ん? さっきまでは黒く見えていたのか?」
「みえてた」
「ほぉ。つまり君の視覚は、何かしらの要因で入れない場所や危険な場所を、〝黒〟という色彩で認識していたわけだ。なかなかに興味深いな」
確かに、これまでメテオは、世界の見え方聞こえ方感じ方が、他の人たちとは違っていることが多々あった。それを言語化すると、決まって周囲の人たちから気味悪がられたので、あまり言わないようにしていたけれど。
「ぼく、へんじゃない?」
「ん? 特異な体質で珍しくはあるが、変じゃないぞ。本来魔力として身のうちに溜まる魔素が、君の場合は身体能力の向上や変化に使われているんだ。魔的なものに対し、五感が鋭くなっても不思議ではない」
「……そっか」
難しい言い回しが多い彼女の言葉は、なかなか、その全部を理解することはできない。
けれど、できないなりに、彼女がメテオを肯定してくれていることは、雰囲気から何となく感じ取れた。
「よし。メテオの目に、この森が黒く見えなくなったのなら、きちんと承認は降りたのだろう。さっそく入って、君の寝床を用意しなければな」
「あ、あの!」
心なしかワクワクした様相の彼女へ、メテオは。
勇気を出して、手を伸ばす。
小さな手で、彼女の腕に、きゅっと触れて。
「あの、えっと、ゔぃくとりあ、さん?」
「……これは失礼した。私としたことが、お招きした方に名乗りもしていなかったとは」
メテオを抱いたまま、彼女は森にすたすたと分け入り、大きな切り株のすぐ近くで立ち止まる。
――そのまま、流れるように、メテオを切り株へと座らせてくれて。
「勇敢な人の子、メテオ・シュテルツシャッテン殿。ようこそ、〝オルドの森〟へ。私の名は、ヴィクトリア・フォン・ルミエ・オルドナシオン。かつて、この森を含む周辺一帯を治めていた、〝魔国オルドヌング〟最期の国王だ」
「こく、おう? おうさま、なの?」
「かつて、と言っただろう? オルドヌングの民は、今や私一人だ。民のおらぬ国に、王も何もない。私はただ、滅んだ国の墓標を護る墓守であり、国の背負った役目を継ぐ、護人でしかないよ」
「もりびと……」
そういえば、さっきも森の前で、詠唱の中で、そんなことを言っていた。
魔国オルドヌング国王にして〝世界の護人〟――と。
「ゔぃくとりあ、さんは――」
「ルルで良いよ。長いし大仰だろう、〝ヴィクトリア〟なんて」
「……ルル」
「うん。何かな、メテオ?」
「ルルは……もりのなかで、ずっと、ひとり、だったの?」
……メテオは、知っていた。〝独り〟がどれほど、寂しいことか。
そう大きくはないが小さくもない、村の中で。まるで透明人間の如く、あらゆる人の輪から弾かれ、遠巻きにされながら、生きてきたから。
こんなにも温かい人が〝独り〟だったことが哀しく、勝手に涙が溢れてくる。
「……優しいな、メテオは」
そんなメテオの髪を、彼女――ルルは、温かい手のひらで柔らかく撫でて。
「心配はいらない。独りだった時代もあるが、今は独りじゃない。とても賑やかで、楽しい毎日を過ごしているよ」
「そう、なの?」
「あぁ。――そうだ。すぐに君のサイズのベッドを用意するのも手間だし、今晩の寝床はあの子たちに貸してもらうとしよう」
おいで、と優しく手を伸ばされる。
少し迷って、そろそろとこちらも腕を伸ばして。
伸ばされた手を――ぎゅっと握る。
「うん。……行こう、メテオ」
呼びかけられたと同時に握り返された手は、少しひんやりしていたけれど。
……互いに握り合った手と手が新たな〝絆〟を紡いだことを、メテオも、ルルも、このとき間違いなく、確信していた。
――いずれ、童話の表舞台に〝狩人〟と〝王妃〟として招かれる二人の、〝物語〟に紡がれることのなかった〝出逢い〟は。
今はただひっそりと、〝彼〟の〝記憶〟に宿るのみ――




