第95章 北境第二防衛線
北境第二防衛線。
アルセリア辺境伯領の北部では、王国軍と魔王軍による本格的な戦争が始まろうとしていた。
王都からの増援を受けた王国辺境伯軍の総兵力は約一万八千。
そのうち八千が第二防衛線に配置され、残る一万は西部の防衛拠点や補給路、後方支援に振り分けられている。
対する魔王軍は約三万。
正面に一万二千、側面攻撃に八千、後方の占領地と補給路に一万。
王国軍は敵の正確な兵力を把握していなかったが、少なくとも二万数千以上と推定していた。
数では明らかに不利。
だが、ここはアルセリア辺境伯が長年守り続けてきた土地だった。
アルセリア辺境軍司令部。
アルセリア辺境伯は、地図を前に腕を組んでいた。
副官「閣下。第二防衛線の配置が完了しました」
アルセリア辺境伯「敵の動きは?」
副官「主力が正面へ集結しています。別働隊も確認されました」
アルセリア辺境伯「……第一防衛線と同じ手は通じぬぞ」
副官「はい。東側の山道には伏兵を配置しております」
アルセリア辺境伯「よい。無理に敵を押し返す必要はない。地の利を生かし、消耗を強いろ」
副官「はっ!」
アルセリア辺境伯は地図へ視線を落とした。
敵の数は多い。
しかも、指揮官は優秀だった。
第一防衛線を突破した竜角の女将軍。
その正体は、いまだ確認できていない。
アルセリア辺境伯「……厄介な相手だな」
その声には、敵将への警戒が滲んでいた。
一方。
魔王軍の前線司令部。
銀紅色の長い髪を持つ女将軍、ヴェルセリア・ドラグレインは地図を眺めていた。
黄金色の瞳。
額から伸びる二本の竜角。
ドラゴン族の中でも屈指の武人である彼女は、今回の戦争に個人の意志で参加していた。
ドラゴン族全体は中立を維持している。
同族を動員せず、自らもドラゴン形態へ変じない。
それが一族との約定だった。
魔族将校「将軍。敵の補給路について、一つ提案がございます」
ヴェルセリア「申してみよ」
魔族将校「南東の村落には避難民が集まっております。これを捕らえれば、敵軍の行動を制限できましょう」
ヴェルセリア「……却下だ」
魔族将校「し、しかし!」
ヴェルセリア「戦わぬ者を盾にするなど、武人のすることではない」
魔族将校「ですが、戦争に綺麗事を持ち込んでは……!」
ヴェルセリア「勘違いするな」
静かな声。
だが、その場の空気が一瞬で変わった。
ヴェルセリア「私は敵兵を討つことにためらいはない。だが、女子供を脅して得る勝利に、何の価値がある?」
魔族将校「……!」
ヴェルセリア「補給路を断ちたいなら、武装した輸送部隊を狙え。砦を落としたいなら、守る兵と戦え」
彼女は将校を見据えた。
ヴェルセリア「我らは軍だ。略奪者の群れではない」
魔族将校「……はっ!」
ヴェルセリア「では、各部隊を配置につけよ」
彼女は長剣の柄に手を置いた。
ヴェルセリア「正面から攻める。人間どもの底力、見せてもらおう」
そのころ。
第二防衛線の後方では、避難民の移送が続いていた。
フィオナ・レーヴェンは、約六十人の騎士と兵士を率い、三百人ほどの避難民を護衛していた。
フィオナ「歩けない人を優先して馬車へ! 子供たちは絶対に離れないように!」
辺境騎士「了解しました!」
右腕の負傷は、まだ完全には治っていない。
だが、フィオナの指揮は的確だった。
ルミナも救護を手伝っていた。
ルミナ「フィオナ様。負傷者の応急処置が完了しました」
フィオナ「ありがとう、ルミナ!」
ルミナ「薬品が不足しています。後方の救護拠点から追加を運ぶ必要があります」
ルミナは転移魔法で、小さな薬瓶や包帯などを手元へ取り寄せていた。
しかし、人間や大きな荷物を転移させることはできない。
そのため、負傷者の搬送には馬車や担架が必要だった。
フィオナ「よし、搬送班! 負傷者を優先して移動させて!」
そのとき。
辺境騎士「隊長! 前方に敵影!」
フィオナ「……何!?」
街道の向こうから、武装した魔族兵が現れた。
その数、およそ百。
魔族隊長「いたぞ! 人間どもの避難民だ!」
フィオナ「……全員、防御陣形!」
騎士たちが盾を構える。
フィオナ「避難民を下がらせて! ここは絶対に通さない!」
魔族兵たちが殺到した。
ガキィン!
フィオナは左手で剣を操り、敵の一撃を受け流す。
フィオナ「くっ……!」
右腕が使えない分、いつもより動きが鈍い。
ルミナ「防御障壁、展開します」
透明な壁が前方に現れ、魔族兵の攻撃を防いだ。
しかし、敵の数が多い。
魔族隊長「避難民を捕らえろ! 人間どもとの交渉材料になる!」
フィオナ「そんなこと、させるもんか!」
そのときだった。
ヴェルセリア「――剣を収めよ!」
よく通る声が戦場に響いた。
魔族兵たちの動きが止まる。
街道の向こうから、一人の女が歩いてきた。
銀紅色の髪。
黄金色の瞳。
額には竜角。
魔族隊長「ヴ、ヴェルセリア将軍!?」
ヴェルセリア「誰が、非戦闘員を襲えと命じた?」
魔族隊長「し、しかし将軍! こやつらを捕らえれば……!」
ヴェルセリア「私は命じておらぬ」
その一言で、魔族隊長は青ざめた。
ヴェルセリア「戦う力のない者に刃を向けるな。それが理解できぬなら、私の軍に居場所はない」
魔族隊長「……も、申し訳ありません!」
ヴェルセリア「全員、武器を収めて後退せよ。隊長は後ほど軍規に従い処分する」
魔族兵たちが慌てて引き下がる。
フィオナは剣を構えたまま、女将軍を見つめていた。
フィオナ「……あなたが、敵軍の指揮官?」
ヴェルセリア「いかにも。配下の不始末を詫びよう」
フィオナ「……え?」
予想外の言葉だった。
ヴェルセリアは、フィオナの負傷した右腕へ視線を向けた。
ヴェルセリア「傷を負いながら、民を守り抜こうとしたか」
フィオナ「……騎士として当然です」
ヴェルセリア「ふっ。よい答えだ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
ヴェルセリア「貴殿の勇気に敬意を表する。この場は退くがよい」
さらに、配下へ命じる。
ヴェルセリア「医薬品を持ってこい。負傷者に渡すのだ」
魔族将校「し、しかし将軍……!」
ヴェルセリア「聞こえなかったか?」
魔族将校「はっ!」
差し出された薬と包帯。
フィオナは戸惑いながら受け取った。
フィオナ「……本当に、いいんですか?」
ヴェルセリア「人を救う薬に、敵味方の区別など必要あるまい」
フィオナ「……ありがとうございます」
ヴェルセリア「礼には及ばぬ。ただし、次に戦場で相まみえれば容赦はせぬぞ」
フィオナ「……はい。そのときは、私たちも全力で戦います」
ヴェルセリア「よい覚悟だ」
彼女は満足そうに頷いた。
その姿を見ていた王国騎士たちは、誰もが言葉を失っていた。
敵将でありながら、なんと高潔な人物なのだろう。
フィオナもまた、深い敬意を抱いていた。
北境の山岳地帯。
そのころ、俺――レオン・アルセリアは、古代施設の再調査を行っていた。
護衛の騎士は十数人。
ルミナが救護任務についているため、詳しい魔法陣の解析はできない。
レオン「……昨日より、何だか嫌な感じがするな」
古代術式を操作する知識は、俺にはまだない。
だからこそ、周囲の変化を観察するしかなかった。
そのとき。
ガサガサッ!
山奥から、魔物の群れが現れた。
レオン「……敵襲か!?」
俺は剣を抜いた。
しかし、魔物たちはこちらに目もくれず走り去っていく。
しかも、どれも弱々しい。
辺境騎士「また魔物が南へ逃げております!」
レオン「……やっぱり、何かから逃げてるのか?」
その直後。
ドクン……!
地面の奥から、奇妙な振動が響いた。
レオン「……何だ、今の?」
まるで巨大な心臓の鼓動。
古代施設の入口に刻まれた紋章が、青白く輝き始める。
レオン(……王都地下で感じたものに似ている)
何かがつながっている。
そんな気がした。
だが、そのとき。
辺境騎士「レオン様! 第二防衛線から緊急伝令です!」
レオン「……何があった?」
辺境騎士「敵軍の攻勢が激化! 東部で大規模な地盤崩落も発生したとのこと!」
レオン「……地盤崩落?」
先ほどの振動が頭をよぎる。
レオン(……まさか、関係しているのか?)
俺は剣を収めた。
レオン「調査は一時中断! 司令部へ戻るぞ!」
* * *
北境第二防衛線、東部。
王国軍約千五百。
魔王軍約二千五百。
両軍が激しく交戦していた。
ドォン! ドォン!
魔導砲が火を噴き、魔術が飛び交う。
王国騎士「敵を通すな!」
魔族将校「押し切れ!」
激しい攻防。
その最中だった。
ゴゴゴゴゴ……!
突然、大地が震え始めた。
王国兵「……な、何だ!?」
次の瞬間。
ドガァァァン!!
崖が崩壊した。
巨大な岩盤が砕け、双方の兵士が巻き込まれる。
王国騎士「ぐああっ!」
魔族兵「助けてくれ!」
崩れた岩の下で、兵士たちが悲鳴を上げていた。
そこへ、ヴェルセリアが駆けつけた。
魔族将校「将軍! 危険です! 敵兵もおります!」
ヴェルセリア「……だからどうした?」
魔族将校「放置すれば、敵の兵力を削れます!」
ヴェルセリアの黄金色の瞳が鋭くなった。
ヴェルセリア「貴様は、助けを求める者を見殺しにして勝利を誇るつもりか?」
魔族将校「……!」
ヴェルセリア「戦場で剣を交えることと、救える命を見捨てることは別だ!」
彼女は長剣を抜いた。
ヴェルセリア「《竜炎斬》!」
ゴォォォッ!!
炎をまとった斬撃が、崩れかけた巨大な岩を砕いた。
ヴェルセリア「負傷者を救い出せ! 敵味方は問わぬ!」
魔族兵たちが動き始める。
そして、彼女は王国軍の指揮官へ呼びかけた。
ヴェルセリア「王国の騎士よ! 救助が終わるまで、一時休戦を提案する!」
王国指揮官「……何だと!?」
ヴェルセリア「今なら、まだ助けられる命がある!」
王国指揮官は迷った。
だが、彼女が自ら武器を収め、王国兵を助け出す姿を見て決断した。
王国指揮官「……全軍、攻撃中止! 救助を優先する!」
こうして、敵味方の兵士たちが協力して負傷者を救い始めた。
王国兵が魔族兵へ手を差し伸べる。
魔族兵が王国兵の担架を運ぶ。
ほんの数分前まで殺し合っていた者同士が、同じ目的のために動いていた。
王国騎士「……俺たちまで助けるとは」
ヴェルセリア「貴殿らは勇敢に戦った。その命を、岩に奪わせたくはない」
王国騎士「……敵将とは思えぬお言葉です」
ヴェルセリア「敵であることと、敬意を払うことは別だ」
やがて、救助活動が終了した。
ヴェルセリアは王国軍の指揮官へ向き直る。
ヴェルセリア「協力に感謝する。貴殿らの勇気に敬意を表そう」
王国指揮官「……こちらこそ、感謝いたします」
そのとき。
一人の老騎士が、ヴェルセリアへ正式な騎士の礼を取った。
王国老騎士「敵ながら……見事な騎士道でございました」
周囲の王国騎士たちも、次々と敬礼する。
ヴェルセリアは僅かに目を見開いた。
そして。
胸元に手を当て、深く一礼した。
ヴェルセリア「……光栄だ。勇敢なる王国の騎士たちよ」
その場には、敵も味方もなかった。
ただ、互いの誇りを認め合う武人たちがいた。
その後、両軍はそれぞれの陣地へ後退した。
ヴェルセリアは、この日の東部戦線での攻撃再開を禁じた。
自ら交わした約束を守るためだった。
夕刻。
アルセリア辺境軍司令部。
副官「閣下。第二防衛線東部で、一時休戦が成立したとの報告です」
アルセリア辺境伯「……休戦?」
副官「はい。地盤崩落に巻き込まれた兵士たちを救うため、敵将が申し入れたそうです」
アルセリア辺境伯「……何?」
副官「しかも、敵将自ら王国兵を救助したと」
アルセリア辺境伯は黙って報告書を読んだ。
副官「さらに、避難民を襲った自軍の兵を叱責し、医薬品まで提供したとのことです」
アルセリア辺境伯「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。
副官「敵ながら、見事な武人としか言いようがありません」
アルセリア辺境伯「……同感だ」
だが、その表情は厳しかった。
アルセリア辺境伯「しかし忘れるな。その女は大軍を率いて、我が領地へ侵攻している」
副官「……はい」
アルセリア辺境伯「人格を認めることと、戦をやめることは別だ」
彼は窓の外へ目を向けた。
アルセリア辺境伯「……できることなら、戦場以外で会ってみたいものだがな」
魔境の奥深く。
古城の地下。
真紅の魔導人形は、空中に浮かぶ魔力地図を眺めていた。
真紅の魔導人形「あら……変ね」
複数の古代施設が、同時に反応し始めている。
真紅の魔導人形「ふふっ。まだ起こしていないのに、勝手に目覚めるなんて」
少女は赤い瞳を細めた。
真紅の魔導人形「寝坊助だと思っていたのに、ずいぶんせっかちな子だったのね」
彼女は指先を動かし、別の映像を映し出す。
そこには、戦場で兵士たちを救うヴェルセリアの姿があった。
真紅の魔導人形「あらあら……あの龍の姫様ったら」
少女は楽しそうに笑った。
真紅の魔導人形「敵も味方も助けちゃうなんて。相変わらず、お人好しなんだから」
彼女は小さく首を傾げる。
真紅の魔導人形「でも、そういうところが素敵なのよね。ふふっ」
そして、別の光点を見る。
レオンの魔力反応だった。
真紅の魔導人形「あら、銀髪の剣士さん。また危ないところをうろうろしているの?」
そのとき。
魔力地図の奥深くに、新たな光点が現れた。
真紅の魔導人形「……あら?」
少女の笑みが、一瞬だけ消えた。
真紅の魔導人形「そこは……まだ動くはずがないのだけれど」
しばらく沈黙する。
だが、すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。
真紅の魔導人形「まあ、いいわ。筋書きどおりに進まない方が、面白いもの」
赤い瞳が、不気味に輝いた。
その夜。
俺は軍司令部で、前線から届いた報告書を読んでいた。
レオン「……魔王軍の将軍が、王国兵まで助けたのか?」
フィオナ「うん。私も直接会ったけど……すごい人だったよ」
レオン「……へえ」
フィオナ「敵なのは間違いない。でも、悪い人には思えなかった」
レオン(……魔王軍にも、そんな人がいるのか)
複雑な気分だった。
敵だからといって、全員が悪人とは限らない。
だが、戦争をしている以上、いつか戦わなければならないかもしれない。
レオン(……難しいな)
そのとき。
ルミナが部屋へ入ってきた。
ルミナ「レオン様。緊急事態です」
レオン「……どうした?」
ルミナ「北境各地の地下施設で、同じ周期の魔力反応が確認されました」
レオン「……全部同時に?」
ルミナ「はい。まるで、互いに呼び合っているようです」
その直後。
ドクン……!
地面の奥から、巨大な鼓動が響いた。
レオン「……またか!?」
窓の外。
遠くの山岳地帯が、青白く輝いていた。
ルミナ「……レオン様」
レオン「どうした?」
ルミナ「地下の魔力が、一か所へ集まり始めています」
レオン「……一か所?」
ルミナ「はい。これまでとは明らかに異なる反応です」
レオン(……戦争だけでも大変なのに、今度は何なんだよ……!)
魔王軍と王国軍が激突する北境。
その地下で、長い眠りについていた何かが、確実に目覚めようとしていた。
そして、その異変が地上の戦争に何をもたらすのか。
まだ、誰も知らなかった。




